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「用済みだ」と婚約破棄されましたが、あなたの功績も財産も健康も、支えていたのは平民のふりをしたわたくしですけれど?  作者: 鷹居鈴野


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兄バルドゥイン

 馬の蹄の音が、屋敷の前庭に響いたのは、昼を過ぎた頃だった。


 土埃にまみれた鎧、鞍にくくりつけられた替えの剣、そして何日も野営を重ねてきた者特有の、革と汗の匂い。国境の戦線から一時帰還した兄バルドゥインは、その匂いを纏ったまま屋敷に入るなり、私を見つけて大股に近づいてきた。


「――イレーネ! 本当に、帰ってきたのか!」


 日に焼けた顔、以前よりも逞しくなった体つき。三年という歳月は、兄の姿も確かに変えていた。子どもの頃、稽古で私を軽々と投げ飛ばしていたあの腕は、今では一回り太く、篭手の下の手首には、見覚えのない古い傷跡が覗いていた。


「兄様。お久しぶりでございます」


「久しぶりどころか……手紙のひとつも寄越さずに、いきなり異国へ嫁入り前提で消えたと思ったら、今度は婚約破棄で舞い戻ってくるとはな」


 兄は苦笑しながらも、その目には隠しきれない安堵が滲んでいた。私を上から下まで検分するように見て、怪我がないか、痩せていないか、確かめるような視線だった。


「無事で何よりだ。詳しい話は、父上から聞いた」


「ご心配をおかけしました」


「心配なんてものじゃない。……まあいい、今はおまえが元気そうで、それだけで十分だ」


 そう言って笑う兄の右手が、ほんの一瞬、脇腹を庇うように動いた。すぐに取り繕うように腕を組み直したけれど、私の目は誤魔化せない。古傷か、それとも新しい傷か。問い質そうとして、けれどやめた。この人は、自分の傷を数えられることを、何より嫌う質だ。


 その夜、兄は久しぶりに、私に辺境伯へんきょうはく家の仕事について語ってくれた。食後の居間、暖炉の火が爆ぜる音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。


「知っているだろうが、うちの家は代々、国境の守りを担ってきた。表向きは『盗賊討伐』と呼ばれているが……実態は、もう少し込み入っている」


「込み入っている、とは」


「この国境の向こうには、昔からきな臭い動きが絶えない。盗賊崩れの傭兵、他国の工作員、素性の知れない商隊――そういった連中の小競り合いを、うちの家が長年、静かに片づけてきた」


 兄の声は、いつになく低く、真剣だった。焚かれたばかりの薪が、ぱちりと爆ぜる。


「父上も、俺も、代々の当主も、そのことを大々的に語ったことはない。だが、この国境が保たれているのは、間違いなく、その積み重ねのおかげだ」


「……そうだったのですね」


 私は、改めて実家の重みを実感していた。表舞台には出ない、けれど確かに国を支えている仕事。その血が、私にも流れている。ヴェスターラントで、名も告げずに人を助けてきた三年間と、どこか重なるものがあった。


「おまえも、稽古を始めたそうだな」


「はい。まだまだ、体が言うことを聞きませんけれど」


「すぐに勘を取り戻すさ。……アイゼンヴァルトの血だ」


 兄は、そう言って笑った。その笑顔に、幼い頃、木剣を持たされて泣きべそをかいていた自分の姿が、ふっと重なる。あの頃からずっと、この人は変わらない。強さを誇るでも、弱さを隠すでもなく、ただ淡々と、背負うべきものを背負ってきた人だ。


 *


 数日後、兄が再び戦線へ戻る朝、見送りに出た私に、彼はふと真顔で言った。前庭には、彼を待つ馬がすでに支度を終えていたけれど、彼はしばらく、手綱を取ろうとしなかった。


「イレーネ。もし今後、ヴェスターラントに関わることがあれば」


「兄様?」


「……いや。何でもない」


 兄は、一瞬言葉を濁したあと、私の肩に手を置いた。その手のひらの重さに、彼が言いかけてやめた言葉の輪郭を、探ろうとしたけれど分からなかった。


「ヴェスターラントか。……気をつけて行け」


 その言葉の意味を、この時の私はまだ、はっきりとは理解していなかった。


 ただ、兄の目の奥に、何か見過ごせない予感のようなものが揺れているのを、確かに感じ取っていた。国境を守り続けてきた者だけが嗅ぎ分けられる、まだ形を持たない不穏の気配。それが何であるかを、私が思い知るのは、まだ少し先のことだった。

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