綻びの噂
ヴェスターラントの噂は、商隊や外交の使者を通じて、ぽつりぽつりと届き始めた。
夕食の席、燭台の灯りが並ぶ長い食卓で、父がスープの匙を置きながら、そう漏らした。
「ローデンヴァルト伯爵家、近頃は資金繰りに苦労しているとか」
「まあ」
「事業を支えていた人材が、ここ数ヶ月で、ごっそりと抜けたそうだ。会計係も、測量士も、資材の担い手も……まるで示し合わせたように、一斉にな」
私は、匙を止めることなく、静かに聞いていた。表情ひとつ変えなかったのは、淑女の嗜みというより、長年、感情を面に出さない訓練を積んできたせいだった。
「本人は、どうやら理由が分かっていないらしい。優秀な者たちが、なぜ揃って辞めていったのか、と首をひねっているとか」
当然だろう。あの部下たちは、もとより私が見出し、私が報酬を払っていた者たちなのだから。彼らが去ったのは、示し合わせたからではない。私が「今夜のうちに、それぞれの持ち場から静かに手を引いてちょうだい」と告げた、あの一言のせいだ。因果を辿れば、答えは単純すぎるほど単純だった。
「それだけではないのですよ、旦那様」
情報を運んできた使者が、卓の端で恭しく続けた。
「近頃、伯爵は原因不明の体調不良で、床に伏せる日が増えているとか。宮廷医師団も、はっきりとした診断がつかないそうで」
その言葉に、私は思わず、手にしていた杯を止めた。指先に、冷たい銀の縁の感触だけが残る。
毎朝の茶。彼の心の臓を守っていた、あの一杯。銀盃草と月見草の油を煎じた、あの少し苦い茶を、もう誰も淹れてはいないのだ。
「加えて――これはもっと妙な話ですが、しばらく鳴りを潜めていたはずの魔獣被害が、婚約破棄の直後から、また急激に増えているとの一報も」
私は、静かに目を伏せた。誰が、あの土地を守っていたのか。誰が、あの薬を淹れていたのか。フェリクスは、まだ何も知らない。夜な夜な実家から借り受けた騎士たちを率いて魔獣を狩っていたのも、朝ごとに彼の心の臓を宥めていたのも、婚約者としての務めという名の下に隠された、私の仕事だった。
*
その夜、自室で、私は久しぶりに、あの人のことを考えた。
憎しみでも、未練でもない。ただ、事実を確かめるような、静かな観察だった。窓辺に立ち、ヴェスターラントのある方角――夜の闇に沈んだ地平線を、しばらく眺めた。
彼の功績は、彼の人脈は、彼の健康は、彼の領地の平穏は――すべて、私という根から芽吹いていた枝葉に過ぎなかった。根を断てば、枝葉は、遅かれ早かれ、枯れていく。
当たり前のことだった。
けれど、当たり前のことに、彼はまだ気づいていない。
いずれ気づく日が来るのか。それとも、気づかぬまま、すべてを失っていくのか。答えの出ない問いを、私はそっと胸の底に沈めた。綻びの糸は、婚約破棄と同じ日に、もう切れ始めていたのだ。




