功績の宴(二)
宴の後半、オデットは臆することなく、フェリクスの傍に張り付いていた。何も知らない者がこの光景だけを見たなら、婚約者はどちらなのか、きっと迷うこともないだろう。それほどまでに、堂々とした立ち姿だった。
「素晴らしい事業ですわ。……こういう方こそ、然るべき地位に相応しいと思いますの」
彼女の言葉に、フェリクスは頬を紅潮させていた。侯爵令嬢に「相応しい」と言われることの重み。それが彼にとって、どれほどの価値を持つのか、私にも分かる気がした。三年前、家督も継げず、路銀すら持たされずに家を追われた男にとって、「相応しい」の一言は、かつて浴びせられた「役立たず」への、何よりの雪辱だったろうから。
二人が言葉を交わす様子を、私は少し離れた場所から、ただ眺めていた。談笑するフェリクスの横顔は、ほんの少し、頬に赤みが差していた。……疲れが溜まっているはずなのに。今朝も、いつもの茶を飲みそびれたと、慌ただしそうに言っていたのに。
気にかかったけれど、今、それを言い出せる空気ではなかった。
*
数日後、フェリクスの元に、また一通の手紙が届いた。今度は、父――男爵本人からの文だった。
彼が黙って差し出したそれを、私も横から目にした。分厚い封蝋。几帳面な、けれど尊大さの滲む筆跡。
『――ヴァイセンベルク侯爵家との縁は、我が家門にとって、まさに悲願と言うべきものだ。あの、平民上がりの治療師風情は、いい加減に切り上げどきだろう。妾のひとりとして囲っておく程度なら、まだしも――正妻の座になど、とんでもない話だ。息子の将来を思うなら、賢明な判断をせよ』
文字を追う目が、一瞬、止まった。
――妾。
その二文字が、刃のように、胸に突き刺さった。三年、この人のために積み上げてきたものの果てが、正妻ですらなく、妾か。それとも、婚約そのものの破棄か。指先が、紙面の上で微かに震えた。
実家ぐるみで、背中を押されている。フェリクスの心が揺れているのは、彼自身の欲だけではなかった。
「……イレーネ」
フェリクスは、手紙を握ったまま、こちらを見ずに言った。俯いたその横顔は、あの焚き火の夜と同じくらい、青白かった。
「これは、その、父が勝手に書いていることで」
彼は、言葉を選ぶように、続けた。
「だが……もし、どうしても、侯爵家との縁を無下にはできないとなったら。その時は……妾として、君を大切にするよ。俺の気持ちは、変わらないから」
彼は、それを、精一杯の譲歩のつもりで、口にしたのだろう。
「……そう、ですの」
声が、思いのほか、硬くなった。
――私は、妾には、絶対になりません。
声には出さなかったけれど、腹の底で、そう誓っていた。心外だった。妾程度で十分だと、赤の他人に決めつけられることが。
そもそも、私の祖国には、妾という概念そのものが存在しない。たとえ大公位にある御方であろうと、側室を持つことは許されない。生涯、ただひとりの妻だけを娶る――それが、この国とは違う、私の育った国の当たり前だった。だから余計に、「妾のひとりとして」の一言が、頭では理解できても、心のどこかで、うまく飲み込めなかった。この三年、積み上げてきたものすべてを、たった数行の手紙で値踏みされることが。……何より、それを、他ならぬ彼自身の口から、あっさりと肯定されたことが。
けれど、それを、フェリクスにぶつけたところで、何になる。彼自身が書いた手紙ではない。……そう自分に言い聞かせて、私は、こみ上げるものを、静かに飲み込んだ。
「お気になさらないで。……あなたが、決めることですもの」
その一言に込めた棘に、彼が気づいた様子はなかった。手紙を握る指先だけが、まだ微かに震えていることにも。
私は、動じていないふりをした。けれど、内心は、決して穏やかではなかった。騒ぎ立てる代わりに、私は別のことを始めていた。
*
その夜のうちに、私は信頼できる法律家の元へ、密かに使いを出した。
土壌改良の特許。治水事業の資金網。すべて、フェリクスの名で登録されているそれらの、実際の考案者と出資者が誰であるかを証明する、原本の書類一式。
証拠は、揃えておくべきだ。もし、いつか。
もし、いつか。
その「もし」が、もはや「もし」ではなくなりつつあることを、心のどこかでは分かっていた。それでも、認めたくなかった自分もいた。
この夜、蝋燭の灯りの下で封をしたその書類一式が、やがて自分自身を守る、たったひとつの盾になろうとは――このときの私は、まだ知らない。
「――お嬢様」
夜更け、グレタが静かに部屋を訪れた。
「もう、見ていられません」
「グレタ」
「あの男、実家の言いなりになって、婚約者を切り上げどきなどと……お嬢様がどれほどのものを積み上げてきたか、何も分かっていないんです」
グレタの目には、珍しく涙が滲んでいた。この子が、こんな顔をするのを見るのは、久しぶりだった。
「お嬢様のほうが先に、あの男に見切りをつけるべきです」
「……もう少しだけ、待って」
私は、そう答えるのが精一杯だった。
信じたかった。跪いて誓った言葉を。地位でも家柄でもなく、私自身を選んでくれると言った、あの声を。
その夜、特許の原本は、静かに法律家の手に渡った。
信じることと、備えることは、両立できる。私はそう、自分に言い聞かせていた。




