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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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功績の宴(一)

 治水事業の完成披露は、ヴェスターラント王宮の大広間で、盛大に執り行われた。


 三年前、地図の上でさえ厄介者扱いされていたあの氾濫原が、今では見渡す限りの緑野に変わりつつある。壁いっぱいに掲げられた絵図には、実った麦の穂と、堤に沿って戻ってきた村々の屋根が描かれていた。かつて水害のたびに命を落としていた土地に、今では三十を超える家族が畑を耕しているという。――その数字を、私は誰よりも正確にそらんじられた。何しろ、夜ごと堤防の位置を書き直し、水路の分岐を描き続けたのは、この手だったのだから。


「素晴らしい功績だ、ローデンヴァルト殿」


「これほどの事業を、あの若さで……」


 フェリクスは、壇上でその賞賛を一身に浴びていた。緊張の面持ちながらも、堂々と、自らの言葉で事業の意義を語る。水路の設計を思いついたきっかけ、資材を調達した苦労、王宮への働きかけ。語られる一つひとつの逸話に、私は覚えがあった。当然だ、その大半は、私自身が彼に語って聞かせた言葉だったのだから。


 私は、いつものように壁際から、その姿を見守っていた。


 誇らしかった。心の底から、誇らしかった。あの焚き火の前で夢だけを語っていた男が、今、こんなにも堂々と、大勢の前に立っている。その成長を見届けられたことが、何より嬉しかった。


 けれど――スピーチが進むほどに、胸の奥に、小さな冷たいものが差し込んでくるのを感じた。


 治水の構想も、測量の苦労も、完成までの道のりも――そのひとつひとつを思いつき、この手で描き上げたのは、ほかでもない、私だった。それなのに、割れんばかりの拍手を浴びているのは、彼ひとりだけ。まるで、この三年の積み重ねごと、静かに、彼だけの物語に塗り替えられていくような。そんな、名づけようのない不安だけが、胸の奥に、じわりと広がっていった。


 *


「――こちらが、噂の?」


 背後から聞こえた声に、振り返る。


 立っていたのは、豪奢なドレスに身を包んだ、年配の貴婦人だった。目元にフェリクスの面影がある。切れ長の、値踏ねぶみみに慣れた双眸。ローデンヴァルト男爵だんしゃく夫人――彼の母だった。


 私は淑女の礼をとった。


「イレーネと申します。お初にお目にかかります」


「ええ、存じておりますわ。……あなたが、息子の『治療師』ですって?」


 夫人は、扇の内側から、私の爪先から髪の先までを、値踏みするように眺めた。


 (――薬草の匂いが染みついた指、日に焼けた首筋。育ちの知れた娘だこと。これでよく、伯爵はくしゃく夫人の座など望めたものだわ)


 そんな彼女の胸の内を、私が知る由もなかった。


「治療師の真似事とは、感心いたしませんこと」


「……と、申しますと」


「殿方の体に触れる。そういうのは、下賤げせんな仕事ですわ。まして、女が働くなど――はしたない」


 夫人は、扇をぱちりと閉じると、声を一段、高くした。


「息子から、お離れなさい。……身の程を知りなさいな、下賤な女」


 周囲の耳をはばかる様子など、微塵もなかった。むしろ、聞かせつけるように、はっきりと。


「淑女は、殿方に守られているものですのよ。あなたのような、はしたない真似をする娘が、まともな家の出だとは、到底思えませんわね」


 その声には、隠す気配すらない、剥き出しの軽蔑があった。


 私は、何も言い返さなかった。言い返す価値もない、と思ったからではない。この人が今、「下賤」と呼んでいるその両手が、彼女の息子の身代を、爵位を、そしてこの広間に飾られた絵図の一枚一枚を、静かに支えてきたのだということ。その言葉の重みを、この人自身がいずれ思い知る日が来るだろうと、ただ、静かに確信していたからだ。


「……ご忠告、痛み入りますわ」


 それだけを返して、私は一礼した。


 *


 控えの間に下がると、グレタが青筋を立てて待っていた。


「お嬢様! お聞きになりましたか、あの物言い……!」


「聞いていたの?」


「聞かずにいられるものですか」


 グレタは、拳を握りしめていた。


「それに、フェリクス様も。あんなに堂々と功績を語っていらっしゃいましたけれど……お嬢様のお名前を、一言も、一言も口になさいませんでした」


 言われて、ようやく、あの胸のざわめきの正体が、はっきりと形を持った。頭の中で、スピーチの内容を、最初から順に反芻する。測量の日々。資材の交渉。完成までの、幾つもの夜。……そこには確かに、私の存在する余地が、どこにもなかった。


「あの男、いったい何を仰っているんです。お嬢様の本当のお立場も知らずに」


 グレタの声は、震えていた。


 私は、何も答えられなかった。喉の奥に、言葉にならない何かが、重く沈んでいくのを感じるだけだった。


 彼の口から、私の名前は、出なかった。

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