婚約
「イレーネ。……大事な話がある」
治水事業が二つ目の水路の完成を迎えた夜、フェリクスは珍しく改まった様子で、私を庭先に呼び出した。
その顔には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「王宮から、内示があった。……この功績が認められれば、近く、正式に叙爵されるだろうと」
「まあ。……本当に?」
「ああ。もうすぐ、手が届く」
彼は、震える息を吐いた。それから、思い定めたように、その場に片膝をついた。夜風に、庭木の葉擦れの音だけが響いていた。
「イレーネ」
「フェリクス様……?」
「爵位を得たら結婚しようと、約束したな。……その約束を、正式な形にしたい」
彼は、私の手を取った。土と、そしてかすかな薬草の匂いが染みついた、荒れた手を。この二年、幾度となく重ねてきた、その掌の感触。
「君が平民でも構わない。俺が愛しているのは、地位でも家柄でもない――君自身だ」
その言葉に、胸の奥が、熱くなった。
地位でも家柄でもなく、自分自身を見てもらいたい。そう願って顔を隠し、祖国を離れた私にとって、それは何よりも欲しかった言葉だった。あの首飾りをかけてから、初めて、誰かに「イレーネ」だけを見つけてもらえた――そんな気がした。
「……お受けいたしますわ」
私は、静かに頷いた。
*
婚約は、内々のものとして扱われた。
正式な発表は、叙爵の儀と合わせて行われる予定だという。それまでの間、私は「後ろ盾のない女」のまま、社交界の片隅で過ごすことになった。
誰も、私の正体を知らない。誰も、私の功績を知らない。
けれど、それでよかった。フェリクスが、私自身を選んでくれたのなら。地位も家柄も関係ないと、そう言ってくれたのなら。
夜、婚約の証にと渡された小さな指輪を眺めながら、私は久しぶりに、心の底から安らいでいた。指の輪の中で、石が控えめに、けれど確かな光を返していた。
彼が跪いて口にした言葉も、爵位を得たら結婚しようという約束も――のちに、これほど無残な形で裏切られることになるとは、この夜の私には、想像すらできなかった。
綻びの最初のほつれは、静かに、けれど確かに、この夜から始まっていた。




