侯爵令嬢オデット
彼女と出会ったのは、二度目の夜会だった。
「まあ、あなたが噂の――ローデンヴァルト様の?」
振り返ると、輝くばかりの金髪を結い上げた令嬢が、扇の陰でこちらを見ていた。オデット・ヴァイセンベルク。侯爵家の令嬢。この国の社交界で知らぬ者のない、名家の娘。
「イレーネと申します。よろしくお見知りおきを」
「ご丁寧に。……あら」
オデットの視線が、私の装いをすっと辿った。値踏みするような、それでいて優雅さを崩さない一瞥。首から爪先まで、値段を検分するような視線だった。
「ローデンヴァルト様と、ご婚約なさっているとか。家柄は、どちらの?」
「……特にございません」
「まあ」
その一言に、無数の意味が込められていた。侮蔑を、決して表には出さないまま、ただ「まあ」の一言に閉じ込める。この人は、そういう芸当に長けている。
「家柄もなく、殿方の婚約者に納まるなんて。ずいぶんな玉の輿でいらっしゃいますこと」
棘のある言葉を、彼女は微笑みひとつで包んでみせた。私は、聞き流すことに慣れている。ただ、淑女の礼だけを返した。
*
それからというもの、オデットは何かと理由をつけて、私に近づいてくるようになった。
「あら、先日の治水のご講演、ローデンヴァルト様おひとりで、あれほど見事に語られたとか。……あなたも陰でずいぶんお力添えなさっているのでしょうけれど、殿方の顔を立てて差し上げるのも、女の甲斐性ですものね」
夜会のたび、彼女は友人めいた顔で、そんな「助言」を重ねてきた。功績は、決して自分から口にしないほうがいい。控えめでいることこそ、女の美徳だ、と。
「ご親切に、ありがとうございます」
私は、その言葉に素直に従った。
正直に言えば、好都合だとすら思っていた。もとより目立ちたくない身の上だ。誰かが「功績を語らずにいて当然」というお墨付きをくれるなら、それに越したことはない。
――それが、計算尽くの潰し合いの、最初の一手だったとは。
この時の私は、まだ気づいていなかった。
夜会が進むにつれ、オデットはフェリクスにも、頻繁に声をかけるようになった。
「ローデンヴァルト様。先日の治水の御講演、大変興味深く拝聴いたしましたわ」
「そ、それは光栄です」
「事業のお話、ぜひもっと詳しく伺いたいですの。……よろしければ、今度」
誘われるままに言葉を交わすフェリクスの目に、微かな変化が生まれ始めていた。侯爵令嬢に興味を持たれている、という事実そのものへの高揚。私はそれを、少し離れた場所から見ていた。
嫉妬、と呼ぶには、まだ淡すぎる感情だった。ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような、そんな違和感。
「イレーネ」
オデットが去ったあと、フェリクスが私の元に戻ってきた。
「今の方、ヴァイセンベルク侯爵家の……すごい人だな」
「ええ、そうですわね」
「君は、疲れていないか。少し、休んだらどうだ」
言葉自体は、優しい。優しいはずなのに、今夜はどこか、追い払われているような響きに聞こえてしまった。
(……美女ならまだしも、こんなに地味な女じゃ、妾にすら値しないな)
そんな彼の胸の内を、私が知る由もなかった。
私が壁際に下がると、フェリクスは再び、談笑の輪の中へと戻っていった。オデットの傍に立つ彼の背中を、私はしばらく見つめていた。
*
夜会の帰り際、廊下で、再びオデットと行き合った。灯りを落とした回廊に、彼女の香水だけが、やけに強く匂った。
「あら」
彼女は、扇を口元に当てて、優雅に笑った。
「まだ、こちらにいらしたの?」
わざとらしいほど、驚いた顔をしてみせる。まるで、私がいることのほうが、場違いだとでも言うように。
「ローデンヴァルト様が、名残惜しそうに、まだ会場においでですのに。……婚約者様は、お先にお帰りになるおつもり?」
「いいえ。あの方の御用が済むまで、お待ちするだけですわ」
「あら、殊勝なこと」
オデットは、扇の陰で、微かに笑った。
「殿方というものは、美しいものにこそ、目移りするものですのよ。……あなたのように、地味で見栄えのしない方は、早くに身の程を知っておかれたほうが、よろしいのではなくて?」
その一言に、含みがあるのは、聞くまでもなかった。
祖国で群がってきた、あまたの令息たち。彼らが見ていたのは、いつも、私の素顔の美しさだけだった。中身になど、誰ひとり、目を向けなかった。けれどフェリクスは違う。地味なこの姿の私にこそ、優しくしてくれる。愛を、囁いてくれる。――彼こそが、本物だと、私は信じていた。
「私は、中身を見てくださるフェリクス様が、好きですの。フェリクス様は、オデット様が仰るような方ではございませんわ」
私は、静かに、けれどはっきりと、言い返した。
オデットは、一瞬、目を見開いた。
(……こんな、地味でブサイクな平民風情が、何の自信で、こうも堂々と)
そんな驚きを押し隠すように、すぐ、つまらなそうに肩をすくめると、衣擦れの音を残して、去っていった。
残された回廊で、私はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
――他に目移りする、か。
あの言葉が、ただの嫌味ではなく、確かな手応えに基づいたものだと、私が気づくのは、まだ、もう少し先のことになる。




