恩人と呼ばれて
治水事業が形になり始めると、フェリクスの名は、少しずつ社交界に広まっていった。
初めての夜会への招待状が届いた朝、彼は落ち着かない様子で、何度も招待状を読み返していた。
「夜会など、生まれて初めてだ。……何を着ればいい。何を話せばいい」
「大丈夫ですわ。あなたが積み上げてきたものを、そのままお話しになれば」
その装いだけは、私が、こっそり手を回すことにした。
むろん、「イレーネ」からの贈り物では、彼に余計な気を遣わせてしまう。だから私は、レーヌ・ブランシュの事業主――誰も顔を知らない、その匿名の名義で、仕立ての良い正装一式を、フェリクス宛てに届けさせた。添えた文には、こう書かせた。
『将来有望な、あなたへの贈り物です』
数日後、届いた包みを開けたフェリクスは、目を見開いた。上等な羊毛と絹の匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「……これは? 誰からだ」
「さあ。存じませんわ」
私は、素知らぬ顔で答えた。
その日のために、私も少しだけ、装いに手をかけてみようと思った。
鏡の前で、いつもより明るい色の布を当ててみる。地味に、地味にと押し込めてきた自分に、少しくらいの彩りを許してもいいだろうか――そんな、ささやかな気まぐれだった。
けれど、それを見たフェリクスは、困ったように眉を寄せ、私の手からそっと布を取り上げた。
「……頼むから、あまり派手な装いは、しないでくれないか」
「あら、どうして?」
「君の美しさを、他の誰かに見つけてほしくないんだ」
彼は、まっすぐに私を見て、続けた。
「万が一、危ない目に遭ったら――俺は、自分を許せない」
その言葉に、私の胸は、じんと痺れた。
祖国で、あの伯爵令息に付き纏われた日々。着飾るたびに増していった、視線という名の刃。夜会のたびに絡みついてきた、あの粘つくような視線の数々。……今思い出しても、肌が粟立つ。確かに、その通りだわ。彼が知るはずもないのに、その言葉は、まるであの頃の傷をなぞるかのように、まっすぐ胸に届いた。そう思うと、素直に頷けた。
「……分かりましたわ。あなたがそう仰るなら」
一方でフェリクスは、自分の装いにだけは、驚くほど無頓着ではなかった。まだ何者でもない身の丈に見合わぬ、金糸の刺繍が入った上着を、少しずつ買い集めるようになっていた。
「そのブローチ……もしや、ダイヤですの?」
胸元で光る、大粒の石に、私は思わず目を留めた。その台座の値打ちは、記憶にある、あの水路の資材費とそう変わらない額だった。
「……見栄えも、大事だろう。俺は、これから人前に立つ身だ」
彼はそう言って、目を逸らした。
その少し前、私は、自分の稼ぎで、ささやかな髪飾りをひとつ買おうとしたことがあった。
「イレーネ、そういうものは、控えたほうがいい。……君らしくないだろう」
フェリクスに、やんわりと止められて、私は結局、それを諦めた。
私には地味であることを求めながら、自分は、私の稼ぎで買った大粒のダイヤを、堂々と身につけている。その不釣り合いに、私はまだ、深く気づいてはいなかった。
けれど、グレタは違った。
「お嬢様の稼ぎで、ご自分は大きなダイヤをお求めになって、お嬢様には髪飾りひとつお許しにならないなんて……! あの方は、いったい何様のおつもりなんです」
珍しく、声を荒げて、グレタは憤慨していた。
「グレタ、声が」
「黙っていられません! お嬢様は、いつもそうやって、ご自分を後回しになさる。……見ていて、腹立たしいんです」
その剣幕に、私は、苦笑するしかなかった。
*
夜会の日、フェリクスは緊張しながらも、堂々と自分の事業を語った。荒れ地を穀倉地に変える構想。既に完成した水路の実績。数字を挙げ、地図を示し、貴族たちの興味を少しずつ引き寄せていく。シャンデリアの灯りの下、彼の声だけが、いつもより一段、張っていた。
その様子を、私は壁際から見守っていた。誰も、私を見なかった。それでいい。今夜の主役は、彼だ。
「――見事なものだ、ローデンヴァルト殿」
年配の貴族が、感心したように頷くのが聞こえた。フェリクスの顔が、誇らしさで輝いた。
「その仕立て、なかなかのものですな。どちらのご贔屓で?」
別の貴族に問われ、フェリクスは、少し得意げに答えた。
「……いえ、実は、送り主を存じませんで」
「ほう。それはそれは。……レーヌ・ブランシュの名義だとか、小耳に挟みましたが。あそこの事業主は、若く美しい女傑だという噂ですぞ」
その一言に、フェリクスの目が、輝きを増した。
(――地味なイレーネより、その女傑とやらと、一度話してみたいものだな)
そんな彼の胸の内を、私が知る由もなかった。
顔も知らぬ、匿名の女事業主。将来有望な自分に、目をかけてくれた人。……そんな相手が実在すると知って、彼の胸には、淡い高揚が芽生えていた。
地味で控えめなイレーネと、噂に聞く華やかな女傑。まったく違う二人の女を、彼はこの時、無意識のうちに、天秤にかけ始めていた。
――その両方が、同一人物であるとは、知る由もなく。
その夜、宿に戻ってから、彼は上気した顔で私に言った。
「今日は、ありがとう。……いや、今日だけじゃない。この二年、ずっとだ」
「私は、大したことは」
「大したことはある」
彼は、まっすぐに私を見た。
「誰も俺を信じなかった。実家も、周りの奴らも、みんな『男爵家の役立たずの三男坊』としか見ていなかった。……そんな俺を、君だけが信じてくれた」
君だけが、俺を信じてくれた。
その言葉を、私はしばらく、大切に胸の中で温めていた。数刻前、彼の目に灯った、あの見知らぬ女への高揚のことは、ひとまず、忘れることにして。
*
その夜、夜会の控えの間で、年配の貴族夫人が、親しげにフェリクスへ話しかけているのが聞こえた。
「ローデンヴァルト卿。あなたが、行き倒れた娘御の命をお救いになったとか。……なんと、お優しいこと」
噂は、いつの間にか、社交界にまで広まっていたらしい。私は、思わず息を呑んだ。
「ええ、まあ……」
フェリクスは、曖昧に微笑んだ。否定は、しなかった。
夫人が立ち去ったあと、私は、そっと尋ねた。
「……あの噂、どこから」
「さあ。誰かが、勝手に話を膨らませたんだろう」
彼は、他人事のように、肩をすくめた。
「けれど、いちいち否定して回るのも、面倒でね。それに」
彼は、私を見た。
「実際、俺は、君を助けたいと、いつも思っている。……それだけは、嘘じゃない」
その言葉に、私の胸は、また、じんと痺れた。
「困っている人を、放っておけないだけだ」
あの夜、宿屋で旅人が去り際に残した言葉と、同じだった。彼が口にするたび、私の中で、その符合は、確信へと近づいていった。
――この人が、あのときの恩人で、間違いない。
根拠など、何ひとつないのに。一度そう思い込んでしまうと、疑うことのほうが、難しくなっていた。
……それが、彼の思う壺だったとは、この時の私は、知る由もなかった。
夜会の噂は、思いのほか早く広まったらしい。数日後、フェリクスの元に、一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間、彼の顔が強張った。
「……実家からだ」
封を切る手が、微かに震えている。読み進めるうちに、その顔には、複雑な色が浮かんでいった。困惑と、そして――隠しきれない、喜び。
「役立たず、と……路銀も持たせずに追い出した息子に、何と書いてあると思う?」
彼は、乾いた笑いを漏らした。
「『息子の活躍、誠に喜ばしい。近々、一度顔を見せに来るがいい』……だとさ」
掌を返したような、白々しい親しみの文面。私も横から目を通して、思わず眉を寄せた。
「……お会いになるおつもりですの?」
「分からない。……分からないが」
フェリクスは、手紙を握りしめたまま、窓の外を見つめた。
「――正直、少し、嬉しいと思ってしまった自分がいる。情けない話だが」
その横顔に、私は何も言えなかった。
追い出された痛みを抱えたまま、それでも家族に認められたいと願う気持ちは、きっと誰の中にもある。責められることではない。
ただ――その手紙の裏で、何が動き始めているのかを、この時の私も、フェリクス自身も、まだ知らなかった。




