王太子を癒す夜
治療師としての顔は、フェリクスと出会うずっと前から、私の中にあった。
宮廷大使の持病を診たのも、財務卿の不眠症を癒したのも、辺境領主の古傷を治したのも――名も告げず、顔も明かさず、ただ闇に紛れて訪れては、静かに去る。それが、この数年、私が続けてきたやり方だった。誰かの役に立ちたいという気持ちに、見返りを求める理由など、どこにもなかったから。
中でも、忘れられない夜がある。
*
王太子エドヴァルドが、死病の淵にあると知ったのは、ある商人からの又聞きだった。
「王宮の医師団も、匙を投げたそうですよ。原因不明の高熱で、もう十日も」
その言葉を聞いた瞬間、いてもたってもいられなくなった。
……けれど、名もない治療師見習いの身で、王宮に押しかけたところで、門前払いを食らうのが関の山だ。下手をすれば、不審者として捕らえられかねない。
思い悩んでいた矢先、意外な形で機会が転がり込んできた。以前、宮廷大使の持病を診たときの伝手を辿ったのだろう、藁にもすがる思いだという使者が、内密に訪ねてきたのだ。
「あなたの腕を見込んで、お忍びで、王宮へお越しいただけないでしょうか」
正式な招聘とは言えない、けれど、確かに「頼まれた」上での訪問だった。私は、ひとつだけ、条件を出した。
「――誰が治療したかは、殿下ご本人にも、決して明かさないでくださいまし」
使者は、怪訝な顔をしたものの、頷いてくれた。手配をした彼だけが、私の名を知っている。それ以外の誰にも、悟られてはならない。
こうして私は、その夜、お忍びで王宮へと通された。案内の者に導かれ、警備の目を避けながら、幾つもの回廊を渡り、私は王太子の寝所へと辿り着いた。
寝台に横たわる若者は、記憶にあるどの肖像画よりも、痩せ細っていた。額に浮かぶ玉のような汗。浅く、途切れがちな呼吸。差し込む蝋燭の灯りだけが、青白い頬をぼんやりと照らしていた。
「……失礼いたします」
名乗らずに、私はその額に手を当てた。指先に触れた肌は、燃えるように熱いのに、その奥では、ぞっとするほど冷たい何かが淀んでいる。
高熱の奥に、複雑に絡み合った毒素の反応がある。医師団が見抜けなかったのも無理はない。これは病ではなく、毒だ。それも、じわじわと効く、悪質な代物。
解毒の術式を編みながら、私は静かに呟いた。
「お加減は、いかがでしょうか」
答えは、なかった。意識のない相手に問いかけたところで、返事など期待していない。ただの、習い性のような言葉だった。
夜が更けるまで、私はその手を離さなかった。毒素の一片一片を、丁寧に、根気強く洗い流していく。指先が痺れ、肩が鉛のように重くなっても、手だけは止めなかった。窓の外が白み始める頃、王太子の呼吸は、ようやく深く、規則正しいものに変わっていた。
助かった。
安堵の息をついたその時、閉じていたはずの瞼が、微かに動いた。
「……誰、だ」
掠れた声。意識の混濁した中での、無意識の問いかけだったのだろう。
私は、答えなかった。息を殺し、彼の額に触れていた手を、そっと離した。名乗れば、この夜のすべてが変わってしまう。それだけは、分かっていた。
「お大事に」
それだけを言い残して、私は闇へと戻った。
*
あの夜のことは、それきり誰にも話していない。
王太子が快復したという報せは、その後すぐに王都を駆け巡った。「奇跡の快癒」と、人々は口々に噂した。私はその噂を、宿場町の片隅で、他人事のように聞いていた。
名乗らなかったのは、正体を明かせない事情があったから。それだけではない。
名乗ってしまえば、返ってくるものがある。感謝も、名誉も、褒賞も。けれど、それを受け取ってしまえば、私はもう「ただの通りすがりの治療師」ではいられなくなる。誰かに見つけられ、誰かに求められ――また、あの祖国での日々のように、身動きの取れない何かに、絡め取られてしまうかもしれない。
助けたい、という気持ちだけを、そのまま残しておきたかった。見返りも、名誉も、何も求めずに。
朝が来る前に、私は闇へと消えた。
その選択が、三年後、思いもよらない形で私を救うことになるとは――あの夜の私は、まだ知る由もなかった。




