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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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設計図

 それから二年、私たちは休む間もなく働いた。


 朝は霧の残る川辺で明け、日が暮れる頃には、ランプの灯る机の上に地図と数字だけが積み上がっている。そんな毎日だった。


 昼は、フェリクスと共に川辺を歩いた。上流の地形を測り、堤防の位置を割り出し、水路の分岐を描く。薬学の知識を応用すれば、土壌の質を見分けることもできる。夜通しかけて描き上げた設計図を、清書していたときのことだった。


「なあ、イレーネ」


 ペンを持つ手を止めて、フェリクスが切り出した。


「俺たちは、じきに夫婦になる。……だったら、この設計図は、俺の名前で出してもいいだろうか。爵位のためにも、そのほうが、都合がいいんだ」


 あまりにも、都合のいい申し出だった。それでも、私は、笑って頷いた。


「いいじゃありませんの。私の功績は、旦那様の功績と同じことですもの。もうすぐ、結婚するのですから」


 異国の、身分の知れない治療師見習いの名では、王宮の役人は書類を受け取りすらしないだろう。けれどフェリクス・ローデンヴァルトという署名なら、多少の伝手さえあれば、机の上に載る。……そう、自分に言い聞かせながら。


 その様子を、部屋の隅で見ていたグレタの顔が、みるみる険しくなった。


「お嬢様。……図面を引かれたのは、お嬢様おひとりですのに。署名だけ、フェリクス様のお名前になさるなんて。功績の横取りも同然、あまりにも、図々しいのではありませんか」


「グレタ」


「分かっております。今は、それしかないのだと。……ですが、いつまでも、こんな形のままでよろしいのですか」


 私は、答えられなかった。


 そしてその、フェリクスの名という「伝手」こそが、私のもうひとつの顔だった。


「君には、苦労を掛けてるね」


 ある夜、地図を丸めながら、フェリクスが、ふと、そう言った。


「治療師としての腕があるんだろう? ……せっかくなら、それで稼いでみたらどうだ。事業の足しにもなる」


 この国では、女が人前で働くことに、まだ、根強い偏見がある。まして、身を粉にして稼ぐことなど――たいていの殿方は、眉をひそめるものだった。けれどフェリクスは、違う。私が働くことに、彼はいつも、手放しで賛成してくれた。


 労わるような口ぶりだったけれど、その目の奥には、はっきりと、期待の色が見えた。


 (――金策に、少しでも余裕が欲しいものな)


 そんな彼の胸の内を、私が知る由もなかった。むしろ私は、女の働き口にすら偏見を持たない、彼の懐の深さに、感謝すらしていた。……それが、都合よく稼がせておきたいだけの下心だとは、思いもよらずに。


「ええ、そうしますわ」


 私は、素直に頷いた。もとより、そのつもりだった。


 夜になると、私は「イレーネ」ではなく、名も告げぬ治療師として、幾人もの屋敷を訪れるようになった。


 宮廷大使の持病。財務卿の不眠症。辺境領主の古傷。名乗りも、顔を隠すこともしない。ただ、大っぴらに触れ回らないだけ。治療した相手は、みな、誰に救われたかをちゃんと分かっている。それでも私は、社交の場には決して姿を出さない――だから「あの夜の治療師」は、噂の中でだけ生きる、影の存在のままだった。誰もが、返しきれない恩を抱いている。その恩義の糸を、私はそっと手繰って、フェリクスの設計図が届くべき場所へと届けさせた。


「妙だな。急に、話が通りがよくなった気がする」


 フェリクスが首を傾げるたび、私はただ微笑むだけにした。まだ、明かす時ではない。


 同じ頃、彼の領地では、もうひとつの見えない仕事が動いていた。


 その一帯は、もとより魔獣の被害が多い土地だった。夜な夜な現れる牙獣きばじゅうや、水辺に潜む鱗獣りんじゅう。放っておけば、せっかくの治水事業も、農地に人が戻る前に食い荒らされてしまう。


 だから私は、実家からひそかに借り受けた辺境伯へんきょうはく家の騎士たちを率いて、夜のうちにそれを片づけて回った。辺境伯家に生まれた者として、剣と魔法の心得は幼い頃から仕込まれている。牙獣の一体や二体、恐れるものではない。父に文を送れば、腕利きの騎士を、そっと割いてくれる――娘が異国で何をしているのか、多くを問わずに、ただ黙って。


 *


 最初の討伐に出た夜のことは、今でもよく覚えている。


「お嬢様、本当におひとりで前へ? 援護はいたしますが」


 グレタが、剣の柄に手をかけたまま、声を潜めて言った。月明かりだけを頼りに、私たちは川辺の茂みに身を潜めていた。数日前から、この辺りで羊が次々と食い荒らされているという。


「大丈夫よ。……気配は、ひとつだけ」


 耳を澄ませば、水音に混じって、低い唸り声が聞こえてくる。鱗獣りんじゅう――水辺に潜み、家畜を襲う中型の魔獣だ。厄介なのは、水中に逃げ込まれると追えなくなること。だから、岸に誘い出す必要がある。


 私は、懐から小瓶を取り出し、中の粉薬を、風上から撒いた。血の匂いに似せた薬草の香りが、夜気に溶けていく。


 果たして、水面が大きく揺れ、鱗に覆われた巨体が、岸へと這い上がってきた。松明たいまつの灯りに、濡れた鱗が、ぬらりと光る。


「――今よ!」


 私が結界で退路を断つと同時に、グレタの矢が、その喉元を正確に射抜いた。悲鳴じみた唸り声が、一度、大きく上がり――やがて、静かになった。


「毎度のことながら、お見事ですこと」


 グレタが、剣を鞘に収めながら、小さく息をついた。


「あなたの矢の腕あってのことよ。……さ、素材を回収しましょう。今夜のうちに、皮だけでも剥いでおかないと」


 鱗や体液は、無駄にはしない。薬にも、化粧品にもなる、大切な材料だった。


 *


 剣を握る手には、夜会の扇や手袋よりも、こちらのほうがよほど馴染む。振り下ろすたびに骨に響く重みも、明け方、篝火の匂いが髪に染みついているのも、私にとってはもう、見慣れた夜の一部だった。


「近頃、魔獣が少なくなったな」と、領民たちが噂しているのを、フェリクスは「土地が良くなってきた証だ」とだけ思っているらしかった。


 討伐した魔獣は、無駄にはしない。皮は薬の包みに、角は粉薬の原料に、体液は――ここだけの話、香油の艶出しに、思いのほか効く。薬にも、化粧品にも。安全も、財も、ひとつの根から芽吹いていた。


 *


「イレーネ、実は、その……」


 フェリクスが、気まずそうに切り出すのは、決まって夜、人払いをした部屋でのことだった。


「治水の資材代が、思ったより嵩んでいてね。……少し、資金が足りないんだ。どうにか、ならないか」


「分かりましたわ。用立てておきます」


 私は、いつものように、静かに頷いた。何度目になるだろう、こうして彼に金を渡すのは。数えるのをやめてから、もう長い。


 その様子を、部屋の隅で見ていたグレタが、彼が退室したあと、堪えかねたように口を開いた。


「お嬢様。……失礼を承知で申し上げますが、フェリクス様は、あまりにも頼りなさすぎます。事業の采配を任されているというのに、資金繰りひとつ、ご自分でなさろうとしない」


「グレタ」


「お嬢様が全部、肩代わりなさっているから、あの方は、痛みを感じないだけですわ。……このままで、本当によろしいのですか」


 私は、何も言えなかった。図星だったから。


 けれど、渡す金貨の重みを手のひらに感じるたび、思うことがある。今、彼を支えなければ、この二年の積み上げごと、すべてが水の泡になる。……そう自分に言い聞かせているだけなのか、それとも、本当にそう信じているのか。境目は、いつからか、私自身にも分からなくなっていた。


 それでも、私は、金を渡すことをやめなかった。


 もうひとつ、誰にも明かしていないことがあった。


 フェリクスには、生まれつきの持病がある。発作性の、心の臓の弱り。激しい労働や、大きな心労が重なると、胸を押さえてうずくまる。彼自身は「ただの疲れだ」と思い込んでいるようだったが、私の目は誤魔化せない。


「フェリクス様、このお茶を毎朝、お飲みになって」


「ん? やけに苦いな、これ」


「体にいいお茶ですのよ」


 嘘は言っていない。ただ、それが薬だとは告げなかっただけ。銀盃草と、月見草の油と、幾種かの薬草を煎じた、彼の心の臓を守るための茶。どれも、市場ではめったに出回らない、値の張る品ばかりだった。だから毎朝、それを惜しみなく彼の杯に注ぐことも、私は誰にも明かさなかった。湯気の向こうで彼が顔をしかめるのを見るたび、胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった。


 誰にも気づかれないまま、私は彼の命そのものを、毎朝の一杯に忍ばせていた。


 *


 二年が過ぎる頃、治水事業は目に見える形を取り始めた。


 最初の水路が完成した日、フェリクスは川辺に立ち尽くし、しばらく声も出せずにいた。濁流だった水が、初めて意図した通りの道筋を流れていく。水音までもが、心なしか、穏やかに聞こえた。


「……やった。本当に、やったんだ」


 振り返った彼の顔は、出会った日の、あの飢えたような目とは違っていた。何かを掴みかけている人間の、確かな光がそこにあった。


「イレーネ。……君のおかげだ」


「いいえ。あなたが、諦めずに頑張ったからですわ」


「それでも」


 彼は、私の手を取った。土と泥にまみれた、けれど確かにあたたかい手で。


「まだ何者でもない俺が言うのもおかしいが……聞いてくれ」


 彼は、まっすぐに、私を見つめた。


「俺は、君と結婚したい。だから、まず、俺の婚約者になってほしいんだ。……結婚そのものは、爵位を得てからになるが」


 (結婚をちらつかせておけば、この女は、この先も、何でも俺のために差し出すだろう)


 そんな彼の胸の内を、私はまだ、知らなかった。


 夢物語のような、その約束。


 まだ何ひとつ確定していない、風に消えてしまいそうな言葉。それでも私は、静かにそれを信じた。信じてしまうくらいには、この二年、彼の隣で積み上げてきたものを、大切に思っていた。


「――俺、本当に、何者かになれるかもしれない」


 夕陽に照らされた川面を見つめながら、フェリクスは、そう呟いた。


 その声には、確かな希望が滲んでいた。


 私はまだ、知らなかった。


 この希望が育つほどに、私の名前は、彼の記憶の奥へと沈んでいくことになるのだと。

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