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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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治療師見習いイレーネ

 街道の土埃は、いつまで歩いても靴の中に入り込んでくる。


「お嬢様、そろそろ休憩なさいませんと」


 傍らを歩くグレタが、荷を担ぎ直しながら言った。もう何年も、私をそう呼ぶのはこの子だけだ。ヴェスターラント王国の街道には、他に誰もいない。


「あと少しよ。次の宿場町まで」


 答えながら、私は首元にそっと触れた。


 簡素な銀鎖に、小さな灰色の石がひとつ。それだけの、何の変哲もない首飾り。けれどこれを外した瞬間、私の顔は誰の記憶にも焼きつく愛らしさを取り戻す――らしい。長く着け続けているせいで、その顔を、私自身ももう長いこと見ていない。


『霞の首飾り』。


 姿を鈍く、地味に、時にはぶさいくとすら思わせる魔道具。祖国グレンヴァルトの宮廷魔導師に、涙ながらに頼み込んで作らせた品だった。


 *


 きっかけは、もう三年ほど前になる。


 辺境伯へんきょうはく家の娘として社交界に出た初めての年、私は自分の顔立ちがもたらす面倒事の重さを、身をもって思い知った。


 アイゼンヴァルト家は、代々、剣をもって国境を守ってきた武門の家系だ。私自身、幼い頃から剣と魔法を叩き込まれ、性格も、令嬢らしからぬ、男顔負けの強さだと言われて育った。それなのに――生まれ持ったこの顔だけは、あまりにも、天使のように可憐だった。中身と、外見が、まるで釣り合っていない。そのちぐはぐさが、かえって、あまたの令息たちを引き寄せてしまうのだと、後になって気づいた。夜会のたびに群がる令息たち。贈り物の山。中には、ストーカー予備軍としか言いようのない男も何人か生まれた。使い古して捨てたリボンや手袋が、いつの間にか誰かの手に渡り、金で取り引きされていると知ったときの気持ち悪さは、今でも忘れられない。身分の低い男であれば、実家の力でいくらでも追い払えた。厄介なのは、相手がこちらと同格か、それ以上の身分を持つ場合だ。そしてその中の、ひとりの伯爵はくしゃく令息。


 厄介なのは、社交の場に限った話ではなかった。剣の稽古でさえ、まともに成り立たない。組み手の相手を務める若い騎士たちは、私の顔にわずかでも気を取られると太刀筋が乱れ、かと思えば意識しすぎて今度は妙に肩へ力が入り、いつもの動きを自分で崩してしまう。少し親しく言葉を交わしただけで、居合わせた男同士が張り合って言い争いを始めることさえあった。誰かが悪いわけでもないのに、決まってこうなる。そのたびに稽古は中断し、雰囲気は気まずくなる。正直、心底うんざりしていた。


 幼い頃から親しんできた薬草の手当てでも、同じことが起きた。かすり傷ひとつを大げさに訴えて、私に手当てをしてもらいに来る男たちが、後を絶たなかった。中には、順番待ちのためにわざと訓練で怪我をこしらえる者までいる始末で、本当に手当てが必要な者の番が、なかなか回ってこない。おかげで、まともに仕事をこなすことすら、ままならなかった。


 結局、素顔のままでは、どこへ行ってもトラブルばかりを引き寄せてしまい、ひとつの仕事を長く続けることさえできなかった。厄介なのは、言い寄ってくる男たちの中に、既に婚約者のいる者が少なくなかったことだ。迷惑を被っているのはこちらだというのに、なぜか婚約者の令嬢たちからは、まるで私が誘惑したかのように恨まれることも、一度や二度ではなかった。


 彼は、私が誰と踊っても、誰と話しても、必ず視界の端にいた。馬車の行き先を調べ上げ、庭の茂みに潜み、侍女に金を握らせて予定を探らせた。父が抗議すればするほど、彼の執着は歪んだ形で膨れ上がっていった。


 ――もっと、きつい美人の顔だったなら。この可憐すぎる顔でさえなければ、こんな執着を招くこともなかったのかもしれない。ある夜、そう思った自分に、ぞっとした。


 剣を振るう手のひらの皮がどれだけ厚くなっても、稽古着が汗でどれだけ重くなっても、誰もそこを見ようとしない。夜会で声をかけてくる男たちは決まって、私の目や髪や、微笑み方ばかりを褒めた。剣の腕を尋ねられたことも、国境の守りについて意見を求められたこともない。顔の後ろにいる人間のことなど、最初から数えられていないようだった。


 顔だけで判断されることが、こんなにも惨めだとは思わなかった。可愛いと言われるたび、これまで積み上げてきたものが、そのぶん目減りしていくような気がした。剣も、努力も、覚悟も、全部素通りされて、ただ顔だけで値踏ねぶみみされている。要するに、この顔のせいで、なめられているのだ。――腹立たしい。同時に、腹が決まった。


「――中身を見て、好きになってくれる人と出会いたいの」


 宮廷魔導師にそう告げたとき、老いた魔導師は驚いた顔をしたあと、静かに頷いてくれた。『霞の首飾り』が完成したのは、それから半年後のことだ。


 姿を鈍く、地味に変えるその首飾りを、私は試しに、ある夜会でかけてみた。鏡に映る自分は、驚くほど平凡だった。目立たない色のドレス、印象に残らない髪型、誰の視線も引かない顔。会場の隅、壁際の暗がりに立って、私はただの背景のひとつになった。


 誰も、話しかけてこない。誰も、こちらを見ない。奇妙なほど静かで、そのぶん、いつもとの違いが、痛いほどよくわかった。


 そこへ、彼が、すぐそばを通りかかった。あの伯爵令息だ。


 どきり、と心臓が跳ねた。もしかしたら、気づいてくれるかもしれない。顔が変わっても、私という人間そのものは、何も変わっていないのだから。


 だが――私だと、気づく様子は、微塵もなかった。それどころか、通り道を塞いだ私を、鬱陶しそうに一瞥し、眉をひそめ、こう言い放った。


「……近づくな。目障りだ」


 地味に姿を変えただけの、同一人物に向かって。


 その一言で、私は悟った。ああ、この人は、本当に、私の「顔」しか見ていなかったのだ。中身も、人となりも、何ひとつ、見ていなかったのだ、と。怒りよりも、ああ、やっぱりか、という諦めに似た気持ちのほうが、大きかった。


 伯爵令息だけではなかった。地味な姿のまま歩けば、令嬢たちは気安く声をかけてきたし、給仕係も、気負わない態度でさらりと接してくれた。同じ人間のはずなのに、見た目の印象がほんの少し変わっただけで、周囲の扱いは手のひらを返したように変わる。誰も彼も、結局は、見た目でしか人を測っていなかったのだ。


 特に、男性たちの変わりようには、心底、幻滅した。地味な姿の私になど見向きもしなかった男が、少し着飾っただけで、途端に目の色を変えて群がってくる。その現金な態度を何度も目の当たりにするうち、心のどこかが、静かに冷えていくのがわかった。


 そして、意外なことに気づいた。誰にも顔を見られない、誰の視線も追いかけてこない、この地味な姿が――ひどく、気楽だったのだ。値踏みされることも、執着されることも、贈り物に追い立てられることもない。ただの、その他大勢のひとりとして会場の隅で息をひそめている時間が、こんなにも心地よいとは思わなかった。


 この日を境に、私は『霞の首飾り』を、手放せなくなった。


 そして、その数日後――彼はついに、一線を越えた。


 夜会の席、私の飲み物に、薬を盛ったのだ。あとで知ったことだが、それは、飲めば身体の芯が熱を持ち、正気を失うという――忌まわしい、即効性の薬だった。正体をなくした私を、意のままにするつもりだったのだろう。


 けれど――薬は、その場では効かなかった。幼い頃から薬草を扱い、毒にも薬にも慣れ親しんできた私の体は、その手のものに、驚くほど耐性があったらしい。飲んだ直後も、私の意識は、普段と何ひとつ変わらなかった。


 「なぜだ」――令息の顔が、焦りと苛立ちで醜く歪んでいくのが見えた。効くはずの薬が、効かない。追い詰められた彼は、なりふり構わなくなった。いきなり私の腕を掴み、人目のない庭園の奥へと引きずり込もうとしたのだ。正気を失っていない私が、大人しく従うはずもない。渾身の力で振りほどいたその拍子に上がった物音と悲鳴を、巡回中の使用人が聞きつけ、騒ぎはその場で発覚した。


 辺境伯家の権勢で、その夜の騒ぎは、表沙汰にはせずに済んだ。けれど私の中には、拭いきれない疲弊と、薄気味悪さだけが残った。


 日頃から、私を疎ましく思う令嬢たちは多かった。だから、事件の話もあっという間にねじ曲げられた。外面だけは良かった彼が起こした事件のはずなのに、いつの間にか「私が令息をたぶらかした」という筋書きにすり替えられ、社交界の同情は、加害者である彼のほうへと流れていった。「あんなに想われていたのでしょう、許して差し上げたら」――そんな声まで、私の耳に届いた。


 とんでもない。もう、あの顔など二度と見たくない。そんな男を、事件のあとも平然と庇うこの国に、これ以上いる理由もない。


 ――もう、この地に、未練はない。


 私は、あの首飾りを再び首にかけ、辺境伯家の娘であることも、旅の目的も告げずに、隣国ヴェスターラントへと旅立った。地味で、目立たず、誰の記憶にも残らない「治療師見習いのイレーネ」として。


 *


 そして――侍女も連れず、たった一人で祖国を発って、数日後のことだった。


 街道をゆく途中で、私の身体に、異変が起きた。


 突然、指先が痺れ、瞼が、鉛のように重くなった。あの夜会で盛られた薬――即効性のはずが、私の耐性に阻まれて効きあぐね、数日かけて、じわじわと巡ってきたのだ。すぐには効かなかったぶん、抜けきらずに残った薬が、今になって、牙を剥いた。


 私は、道端に倒れ込んだ。


 瞼が、鉛のように重い。耳も、綿を詰められたように遠く、物音が、うまく像を結ばない。ただ、身体の芯だけが、じくじくと、熱を持っていた。


 誰かが、私の傍らに膝をついた。旅装の、若い男のようだった。


 彼は、私の脈を取り、額に触れると、小さく息を呑んだ。


「……これは、質の悪い薬だな。効いている間に、目を合わせた相手に、抗いがたい好意を抱くようになる――そういう類の代物だ。だから、効果が切れるまで、目は開けるな」


 もし、この人が、そう教えてくれなかったなら。もし、最初に目を開けて映った顔が、あの令息だったなら。――考えるだけで、ぞっとした。


「――しっかりしろ。今、楽にしてやる」


 その声を聞いた瞬間、私の胸は、どうしようもなく、締めつけられた。


 目は、開けていない。薬が効くはずはない。それなのに、その低く静かな声だけが、闇の中で、一条の光のように、感じられた。


 男は、私の異変を見抜いたらしい。懐から小瓶を取り出す気配がして――次の瞬間、私の唇に、温かいものが、重ねられた。


 解毒の薬を、口移しで、飲ませてくれたのだ。


 喉の奥へ、熱い雫が流れ込む。生まれて初めての口づけを、私は、顔も見えぬ相手に、奪われた。けれど、不思議と、恐怖はなかった。ただ、その声と、唇の熱だけが、朦朧もうろうとした意識の中で、鮮明に、刻まれていった。


 やがて、身体の熱が、少しずつ引いていく。彼は、ぐったりした私を、近くの宿屋まで運んでくれたようだった。


 寝台に横たえられても、瞼は、まだ重かった。彼は、そのまま、しばらく傍にいてくれたらしい。時折、部屋の外で誰かが気配を立てるたび、静かに、けれど有無を言わさぬ調子で、それを追い払う声が聞こえた。


 どれくらい経っただろう。ようやく、身体の熱が、跡形もなく引いていくのを感じた頃。


「困っている人を、放っておけないだけだ。……気をつけて」


 *


 どれくらい、そうしていただろう。ふと、指先の痺れも、身体の芯にわだかまっていた熱も、跡形もなく消えていることに気づいた。――薬が、抜けたのだ。


 助けてくれた、あの人にお礼を言わなければ。名前も、顔すら知らないままでは、あまりに礼を失する。そう思い、私はそっと、瞼を持ち上げようとした。


 ――入れ違うように、また、誰かが、部屋に入ってくる気配がした。女将が、熱を冷まそうと目元に載せてくれた濡れ布に、指先が触れる。


「起きているか? ……ちょっと、失礼するよ」


 囁くような声。だが、先ほどの恩人の、あの丁寧な手つきとは、明らかに違う気配だった。困惑して身を強張らせる間もなく、その指は、布を、乱暴に引き剥がそうとした。


「今なら……まだ、間に合う」


 押し殺した声で、独り言のようにつぶやくのが聞こえた。


 けれど。布がずれ、外気が瞼に触れたその時にはもう、私の中から、薬の熱は跡形もなく消え去っていた。恩人が、まる一日かけて見届けてくれた通りに。


 私は、重い瞼を、辛うじて持ち上げた。ぼやけた視界の中に、若い男の輪郭が映る。けれど――何も、感じなかった。胸の高鳴りも、締めつけも、何ひとつ。さっきまで確かにあったはずのそれが、綺麗さっぱり消えている。きっと、薬が抜けたせいだ。ただの、見知らぬ他人の顔が、そこにあるだけだった。


 男は、拍子抜けしたように、小さく息を吐いた。


 (……なんだ、ただの、地味な女か)


 そんな彼の胸の内を、私が知る由もなかった。目を開けたら、恩人に、きちんとお礼を言うつもりだった――その思いだけが、朦朧とした意識の中にまだ残っていた。だから私は、目の前にいる、誰とも知れないこの人物にも、辛うじて礼を言おうとした。あの人と同じように、自分を助けてくれた人間の一人だと、思い込んで。


「あ……ありがとう、ございます」


 声を絞り出すと、私は、重ねて尋ねた。


「あなたが……私を、助けてくださいましたの? お名前を、伺ってもよろしいですか」


 男は、束の間、黙り込んだ。名乗るなら今しかない、とでも計るような、妙に長い沈黙だった。


「……さあ、どうだろうな」


 はぐらかすようで、けれど、はっきりと否定もしない声だった。朦朧とした意識でそれを聞いた私に、疑う余裕などなかった。彼は、名乗りもしないまま、恩人の座に、静かに、なりかわっていった。


「……とはいえ、正直に言うと」


 彼は、少し言いにくそうに、続けた。


「君に飲ませた解毒の薬、あれは、なかなか値の張るものでね。行商で食いつなぐ身には、少々、痛い出費だったんだが」


 その一言に、私は、慌てて申し出た。


「あの……薬代でしたら、必ず、お支払いいたしますわ」


「そうか。助かるよ。……いや、恩着せがましいことを言うつもりはなかったんだが」


 彼は、少し困ったように笑ったようだった。声だけでも、それは伝わってきた。


 ――律儀な人だ、と、私は思った。恩に着せるでもなく、けれど、必要な分はきちんと申し出る。そういう、誠実さの表れなのだと。まさか、それが、彼なりの計算だったなどとは、思いもよらなかった。


 私は、震える指先で、懐の巾着きんちゃくを探り当てた。祖国を発つ際、当座の路銀にと持たされていた、まとまった額の金貨だった。


「薬代だけでなく……宿代も、治療費も。もちろん、すべて、お返しいたしますわ」


 朦朧とする意識の中、私はそれを、惜しげもなく彼の手に握らせた。


 男が、息を呑む気配がした。


 (……こいつは、いい鴨だ)


 彼が、内心でそう笑っていることに、私は、まだ気づいていなかった。


「……そこまでしてもらう、つもりは」


 口では、そう遠慮するように言いながら。彼の指は、しっかりと、その巾着を握り込んでいた。


 男は、すぐには立ち去らなかった。


 (……この女、まとまった路銀を、ためらいもなく握らせるほどの身分か。供もつけず一人旅で、身なりは地味なくせに、言葉遣いはどこか、育ちのいい貴族のそれだ。何者だ……? うまく取り入れば、まだ、引き出せるものがありそうだな)


 打算を巡らせながらも、声だけは、あくまで柔らかく整えて。


「もう少し、休んでいるといい。そばに、いてあげるよ」


 その言葉に、私は、素直に安堵した。私を助けてくれた、あの恩人が、まだ、そばにいてくれるのだ。朦朧とする意識の中、そのことを、私は、寸分も疑わなかった。


「改めて……お名前を、伺ってもよろしいかしら」


「フェリクスだ」


 低くくぐもった声で、彼はそう名乗った。目を閉じていたあの時、私を救ってくれた人の声には、もっと、静かな労わりがあった気がする。今、耳に届くこの声は、それとは、どこか違う。……けれど、朦朧とする意識の中、疑う余地など、私にはなかった。


 男は、それから、片時も傍を離れなかった。水を口元に運び、幾度も額の布を替え直し、部屋の外で誰かが気配を立てるたび、静かに、けれど有無を言わさぬ調子で、それを追い払った。その甲斐甲斐しさに、私の中の感謝は、いっそう深くなっていった。


 本当の恩人と、赤の他人。まったく別の、二人の男を、私は、ひとりの人物だと、思い込んでしまっていた。彼が、この「恩人」という座に、いつまでも居座ろうとしていることにも、この時の私は、気づく由もなかった。


 *


 目を覚ましたのは、翌朝のことだった。


 薬は、すっかり抜けていた。あの、胸を締めつけるような熱も、嘘のように引いていた。……薬による、まやかしの恋心は、夜明けとともに、消え去っていたのだ。


 瞼を開けると、寝台の脇に、フェリクスが座っていた。夜通し、一睡もせずに見張っていたのだろう、目の下にはうっすらと隈が浮いていた。私と目が合うと、彼はほっとしたように微笑んだ。


「よかった、熱も引いたようだな」


 そう言うが早いか、彼は、椅子ごと身を乗り出し、顔を覗き込むように近づけてきた。


「なあ――一晩中、看病しながら思っていたんだが。どうも、君のことが気になって仕方がない。いや、はっきり言おう。もう、好きになったんだと思う」


 あまりに唐突な、しかも初対面も同然の相手からの言葉に、私は、言葉を失った。


 もし、素顔のままだったなら、きっと、信じなかっただろう。この顔目当ての、口先だけの言葉だと、切り捨てていたはずだ。けれど今の私は、霞の首飾りで姿を偽った、ただの地味な女でしかない。それなのに、好きだと言ってくれた。――顔ではなく、私自身を、見てくれたということだ。そう思うと、胸の奥が、じんわりと熱を持った。まんまと、絆されようとしていることにも、私はまだ、気づいていなかった。


「……あなたは、朝までいてくださったの?」


「こんな状態の女性を、一人にしておくわけにはいかないだろう。……この先も、供もつけずに行かせるわけにはいかない。せめて次の町までは、俺に送らせてくれ」


 私は、素直に頷いた。彼が、あの声の主なのだと、そう信じようとしていた。


 けれど。名乗ったときの、あの少し違う声も。唇に残った、あの熱だけは。どうしても、フェリクスのものとは、重ならなかった。


 ――あれは、薬のせいだったのか。それとも。


 もうひとつ、淡く芽生えた思いもあった。あの、地味な姿の私にも、親切にしてくれた人。……あの人は、もしかしたら、私の外見だけを見て群がってくる、あの伯爵令息のような殿方とは、違うのかもしれない。根拠のない、ただの淡い期待だった。それでも、その小さな灯りのような予感は、私の胸の奥で、そっと灯り続けていた。


 ――そして、私が旅先で倒れたという報せは、めぐりめぐって、祖国の侍女グレタの耳にも届いた。


 私が供も連れずに発ったことを知り、いてもたってもいられなかったのだろう。彼女は後を追って国境を越え、宿屋に着くなり、開口一番、涙目でこう言った。


「お嬢様! おひとりで旅立つなんて、あんまりですわ! ……もう、決して、おそばを離れませんから」


 それから、寝台の傍らに当然のような顔で座っているフェリクスへと、探るような視線を向けた。


「……して、こちらの殿方は?」


「私の、恩人ですって。命の恩人ですのよ」


「へえ……」


 グレタの目が、すっと細くなった。


 それ以来、グレタは、私の、頼れる同行者となった。もっとも――もうひとり、居座ったまま離れようとしない同行者がいることに、彼女はこの時すでに気づいていた。


 *


 旅を共にして、三日目の夜だった。


「フェリクス様?」


 声をかけても、返事がない。少し先を、荷馬を引いて歩いていたはずの彼が、道の脇にうずくまっていた。傍らには、力なく横たわる荷馬。艶のない毛並みと、荒い息。見るからに、流行り病にやられている。


 彼のほうも、意識が朦朧としているようだった。頬はこけ、着ている物は継ぎだらけで、けれど不思議と、姿勢だけは崩れていなかった。倒れてなお、何かを守ろうとするような、頑なな姿勢。


 思えば、この三日というもの、彼は片時も気を抜かなかった。夜番も率先して買って出て、私たちより先に起き、私たちより後に眠る。「送ると言った手前、最後まで面倒を見るのが筋だろう」と、口癖のように繰り返しながら。


「グレタ、水と、私の薬箱を」


「はい、ただいま」


 答えるグレタの声には、隠しきれない棘があった。


 駆け寄って、彼の額に手を当てる。熱はそこまで高くない。疲労と空腹、そして荷馬の看病、そして――恩人であり続けようとする無理の蓄積。そんなところだろう。


「……馬が」


 薄く目を開けた彼が、掠れた声で言った。私を見てすらいなかった。荷馬のことだけを、案じていた。


「あなたより先に、馬の心配ですの?」


「あいつは……俺の、全財産だ。それに……」


 彼は、そこで言葉を止めた。喉が動く。私は水筒の水を、そっと口元に運んだ。


「ゆっくりでいいわ。……そういえば、あなたのことを、まだ何も伺っていなかったわ」


 彼は、弱々しく笑った。


「そう、だったか。……ここまで、何も明かさずに、傍にいさせてもらって、すまなかったな」


 その言い方に、私は、なぜか、微かな既視感を覚えた。気のせいだろうか。


「困っている人を、放っておけないのは、お互い様ですわ」


「そうか。……あなたも、そういう性分か」


 彼は、小さく笑うと、薬湯で人心地ついたのか、焚き火の向こうで、問わず語りに、自分の身の上を語り始めた。


「……男爵だんしゃく家の三男坊でね。家督は長兄が継いで、次兄は聖職に入った。俺には、何も残らなかった」


 声に、自嘲の色が滲んでいた。


「『役立たず』だと、父に言われたよ。路銀もろくに持たされずに、家を追い出された。……以来、行商をしながら食いつないできたが、この様だ」


「それで、諦めていらっしゃるの?」


「まさか」


 その一言だけは、力強かった。焚き火の光に、彼の目がぎらりと光る。


「見てくれ、この土地を。……この辺り一帯、毎年のように川が氾濫して、実りのない荒れ地ばかりだ。だが俺は、いつかこの土地を、豊かな穀倉地に変えてみせる」


 彼は、焚き火を見つめたまま、続けた。


「この国の王は、この一帯の開墾かいこんと治水を成し遂げた者には、爵位を授けると公言している。……身分も後ろ盾もない俺が、まっとうに立身する道は、それくらいしか残されていない。もっとも、狙っているのは俺だけじゃない。あちこちの野心家が、同じ話に群がっているがな」


 自嘲するように、彼は笑った。


「それでも俺は、誰にも馬鹿にされない、立派な男になるんだ。……夢物語だと、笑うか?」


 笑わなかった。笑えるはずがなかった。


 けれど、彼の語る夢には、具体的な道筋がなかった。どうやって氾濫を抑えるのか、どこに堤防を築き、どう水路を通すのか――そこまでは、彼にも分からないようだった。ただ「この土地を豊かにしたい」という、剥き出しの熱意だけが、そこにあった。


 私は、その熱意を、じっと見つめていた。


 実を言えば、その「どうやって」の部分なら、私に、確かな心当たりがあった。


 この地方を旅で通り過ぎるたび、水害に苦しむ村々を、私はいくつも見てきた。薬箱を抱えて駆けつけるたび、頭の中では、別のことを考えていた。上流の地形。水の流れ。薬学の知識を応用すれば、土壌の質さえ見分けられる。どこに堤防を築き、どう水路を通せば、この土地は生き返るのか――その設計図は、とうに私の頭の中で、幾度も描かれていた。


 けれど、異国から来た、身分を明かせない女の身では、事業を主導する立場になどなれるはずもない。ただ、もどかしく見送ってきた。


 私に足りなかったのは、構想ではなく――それを実行する「表向きの顔」だった。


 その顔になり得る人が、今、目の前で焚き火に照らされている。


「フェリクス様」


「な、なんだ」


「あなたのその夢、手伝わせてくださらない?」


 彼は、目を丸くした。


 私はといえば、恋だけでこの言葉を口にしたのではなかった。もちろん、彼の熱意に胸が動かなかったと言えば嘘になる。けれど同時に、頭の奥ではもっと冷静な部分が動いていた。


 この人になら、託せる。誠実そうな目をしている。地位も財も持たない今、飾る余裕すらない、剥き出しの言葉で夢を語る人。そういう人間の言葉は、たいてい本物だ――そう、判断した。


 *


「――お嬢様、本気ですの?」


 フェリクスが眠りについたあと、グレタが眉を寄せて詰め寄ってきた。


「関わるのは、およしなさいませ。行き倒れの行商人風情に、お嬢様が入れ込む道理がございません」


「入れ込んでなどいないわ」


「その割には、ずいぶんと楽しそうなお顔をしていらっしゃいましたけれど。……それとも、まさか」


 グレタは、探るように、私を見た。


「あの人が、宿屋でお嬢様をお助けくださった方だとでも、お考えなのですか? あの人が、お嬢様の恩人? ……どうも、信じがたいのですが」


 図星を突かれて、返す言葉に詰まる。


 正直に言えば、そんな考えが、胸の隅を掠めなかったと言えば嘘になる。根拠など、何ひとつないのに。


「それに……あの人、こんなに地味な私にも、親切にしてくださったのよ。下心があるわけでもないのに」


 地味な姿の自分に向けられた優しさだからこそ、余計に、まっすぐなものに思えた。誰も、顔で見てはいない証のように。


「……それに、あの人の夢は、悪くないと思うの。この土地のためにも」


「土地のため、ですか。……お嬢様がそう仰るなら、私は従いますが」


 グレタは、それでも渋い顔を崩さなかった。長年、私の傍らにいるこの子の勘は、馬鹿にできない。今夜だけは、聞き流すことにしたけれど。


 焚き火の向こうで眠るフェリクスの寝顔を見ながら、私は静かに、心を決めていた。


 この人の夢を、この手で立たせてみせる。


 ――その決意が、三年後、どれほど残酷な形で裏切られることになるかを、この夜の私は、まだ知らない。

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