誓い
同盟の締結を祝う夜会が、ヴェスターラント王宮で開かれた。
その夜、私は初めて――誰に何を言われることもなく、自分の望むままに、装った。
ずっと着てみたかった、深紅の生地を選んだ。地味な色を勧められ続けた三年間、心の奥で、ずっと焦がれていた色だった。大胆に肩を払うデザインも、耳元で揺れる大粒の宝石も、誰の顔色も窺わずに、全部、自分の好みだけで決めた。月光に映える、銀糸の刺繍。自ら調香した、レーヌ・ブランシュの香油を、惜しみなく纏う。地味な色を勧めてくる者も、「そのままでいい」と押し込めてくる者も、もう、どこにもいない。
鏡の前で、私は、自分の姿に、しばし見惚れた。誰に憚ることもなく、思う存分、着飾った自分自身に。
三年前、顔を隠して祖国を出た私が。中身を見てほしいと願って、それでも都合よく扱われた私が。今、こうして、誰にも咎められずに、美しく装っている。
その事実だけで、胸の奥が、じんと温かくなった。
*
夜会の途中、王太子エドヴァルドが、私を庭園へと誘った。
「少し、外の空気を吸わないか」
灯りを落とした薔薇園は、月明かりに、青白く沈んでいた。夜風が、花の香りを運んでくる。二人きりの、静かな時間だった。
「イレーネ嬢」
エドヴァルドが、口を開いた。
「三年前、俺は死にかけていた。医師団が匙を投げ、俺自身も、もう終わりだと覚悟していた。……そんな俺を、あなたは救ってくれた。名も告げず、見返りも求めず」
「殿下……」
「あの夜からずっと、俺はあなたを探していた。あなたが誰なのかも知らないまま、この命の使い道を、探し続けていた。……そして、ようやく分かったんだ」
彼は、私の前に、静かに片膝をついた。
「この命の続きを、あなたと共に歩ませてもらえないだろうか」
*
その言葉に、私は、しばらく答えられずにいた。
地位でも家柄でもなく、私自身を見てほしい。そう願って、私は顔を隠し、祖国を離れた。けれど、その願いは、フェリクスには届かなかった。彼が見ていたのは、「扱いやすい、地味な女」でしかなかった。
けれど、エドヴァルドは違った。
彼が惹かれたのは、私の顔でも、家柄でもなかった。名も顔も知らないまま、ただ、闇の中で差し伸べられた手の――その中身に、彼は惹かれたのだ。
私が、いちばん見てほしかったものに。
「――喜んで、殿下」
私は、微笑んで、答えた。
その言葉に、護衛も、文官も、誰も口を挟まなかった。王太子が、一人の女性に膝をつく――この国で、これがどれほど異例のことか、居合わせた誰もが理解していた。そして、それを止める者は、誰もいなかった。
*
立ち上がったエドヴァルドと、月明かりの下、しばらく静かに言葉を交わした。
その中で、私はふと、ずっと胸の奥にしまっていた話を、口にした。
「殿下。……実は私にも、ずっと探している人がいるのです」
「探している人?」
「ええ。もう、三年ほど前になりますでしょうか。祖国を出て、旅の途中で倒れた私を、名も告げずに助けて、宿屋まで運んでくださった旅の方が。……お礼も言えないまま、その方は、去っていかれました」
エドヴァルドの動きが、ふと、止まった。
「……その旅人は、去り際に、何か言わなかったか」
私は、驚いて彼を見た。
「『困っている人を、放っておけないだけだ』と。……なぜ、それを?」
エドヴァルドは、しばらく、言葉を失っていた。それから、信じられないものを見るように、私を見つめた。
「三年前……俺は、身分を隠して、グレンヴァルトを旅していた。王太子という立場を離れ、ただの一人の人間として、この目で世を見たくてな。……その旅の途中、街道で、薬にやられて倒れている女性を見つけた。放ってはおけず、宿まで運んで、応急の処置をした。名乗るような立場でもなかったから、そのまま、去った」
私の呼吸が、止まった。
「まさか……あのときの、旅人が……」
「あなただったのか」
二人の声が、重なった。
*
月明かりの下で、私は、ようやく理解した。
三年前、私が名も告げずに救った王太子。その人こそ、名も告げずに私を救ってくれた、あの旅人だったのだ。
私が命を救った人が、実は、かつて私の命を救ってくれた人だった。
知らないうちに、私は、受けた恩を、そのまま返していたのだ。
あの日――目を閉じたまま、顔も見えなかったあの夜。あの薬は、目を合わせた相手に効くはずのものだった。目を開けなかった私に、効くはずなどなかったのに。それなのに私は、この人の「声」に、抗いがたく心を奪われた。夜明けとともに薬の熱は消えたけれど、あの声だけは、ずっと胸に残り続けていた。
……いいえ。今なら、分かる。
あれは、薬のせいなどではなかったのだ。目を閉じていた私に、薬が効くはずはなかったのだから。……私はきっと、あの夜のあなたの声に――そして、その中身に、本当に、惹かれていたのだ。
フェリクスは、「あのときの恩人かもしれない」と匂わせて、私の恩を利用した。けれど、本当の恩人は――ずっと、こんなにも近くにいて、私を探し続けてくれていた。顔でも、家柄でもなく、闇の中の声と、その心だけで、私が恋をした人が。
「……ずいぶんと、遠回りをいたしましたわね」
私が言うと、エドヴァルドは、柔らかく笑った。
「ああ。だが、遠回りの末に、こうしてまた巡り会えた。……それで、十分だ」
「そういえば」
エドヴァルドが、ふと、思い出したように、尋ねた。
「なぜ、君は、あのフェリクスなんかと、付き合っていたんだ?」
あまりに率直な問いに、私は、思わず、噴き出しそうになった。
「……実は、旅の途中で倒れた私を、名も知らぬ方が助けてくださったことがございましたの。目を覚ました時、傍にいたのが、フェリクスでしたわ。彼は、はっきりとは仰いませんでしたけれど、否定もなさらなくて。……それで、てっきり、彼が、あの時の恩人なのだと、思い込んでしまいましたの」
「なるほど……それで、律儀に、三年も」
「ええ。今思えば、ずいぶん、間抜けな話ですけれど」
自嘲するように笑うと、エドヴァルドは、ゆっくりと首を振った。
「間抜けだとは思わない。……誠実だっただけだ、君は。それに付け込んだ男が、下劣だっただけで」
そう言ったあと、エドヴァルドの表情に、ふと、影が差した。
「……すまない。あの時、君が目を覚ますまで、俺が傍にいてやれていたら。そうすれば、君は、フェリクスなんかに、三年もの時間を無駄にせずに済んだかもしれないのに」
「殿下のせいでは、ございませんわ」
私は、静かに、首を振った。
「あの時、あなたは、名乗らずに立ち去られた。それは、あなたの誠実さゆえのことでしょう? ……悔やむ必要は、どこにもございません」
*
薔薇園の夜は、静かに更けていった。
誰かに「地味でいい」と言われることのない、初めての夜。誰かの都合で、装いも、心も、押し込められることのない、初めての夜。
顔を隠す必要も、素顔を偽る必要も、もう、どこにもない。ただ、ありのままの自分のままで、隣にいる人の目に映っている――それだけで、こんなにも満たされるのだと、私は、生まれて初めて知った。
月明かりの下、私は、生まれて初めて、ただ自分自身として、愛されていた。
――西の空には、まだ、ザイデルンの旗の影が、うっすらと揺れていた。
戦いは、終わっていない。平穏は、束の間かもしれない。
それでも、今この瞬間だけは。
私は、隣にいる人の手を、そっと握り返した。




