和平
ザイデルンの工作網を打ち破った報せは、伝令の馬より速く、周辺国の宮廷を駆け巡った。
王都の広間には、連日、各国の紋章を掲げた馬車が列をなした。長旅の埃を落とす間もなく、使者たちは次々と謁見の間へ通され、机上には、国璽を捺した書状が、日ごとに積み上がっていく。グレンヴァルトとヴェスターラントは、この一件を機に、同盟関係をより強固なものへと発展させた。両国の間には、長年、細々とした諍いが絶えなかったが、共通の脅威を前に、それらは一気に清算された。
捕えた「灰色の商人」の証言は、ザイデルン帝国が周辺国に仕掛けてきた工作の、動かぬ証拠となった。各国は連名で、帝国に対し、正式な抗議を突きつけた。帝国は例によって、「一商会の暴走」と切り捨てたが――もはや、その言い訳を信じる国は、どこにもなかった。積み上げられた証文の山を前にしては、どんな弁明も、色褪せて見えた。
*
同盟の締結式は、朝の光が高窓から差し込む大広間で執り行われた。居並ぶ各国の使者たちの正装が、光を弾いていた。
「――イレーネ嬢の働きなくして、この和平はなかった」
王太子エドヴァルドは、その使者たちの前で、そう宣言した。
「地形を読み、敵の本質を見抜き、分断されかけた我らを、ひとつにまとめ上げた。……あなたの功績は、この国の歴史に刻まれるべきものだ」
広間が、静まり返った。誰もが、私を見ていた。
三年前、名も告げず、顔も隠し、誰の記憶にも残らないように生きてきた私が。今、一国の王太子から、公の場で、その名を讃えられている。
(――かつては、この顔だけを見て群がられ、この顔さえ消せば、誰の目にも留まらなかった。それが今、顔ではなく、成したことで、名を呼ばれている。)
不思議な心地だった。込み上げるものを、私は、静かに飲み下した。
けれど、私は、その賞賛に、静かに首を振った。
「私は、私にできることをしたまでですわ。……それに」
私は、大広間の窓の外――西の空を見やった。
「この戦は、まだ終わっておりません」
広間に、誰も言葉を継がない一拍があった。
*
捕えたのは、ザイデルンの工作網の、末端に過ぎない。「灰色の商人」の背後にいた組織の一部は壊滅したが、帝国そのものは、依然として健在だった。
あの国は、諦めない。今回の工作が破れても、また別の手を、別の場所で、仕掛けてくるだろう。周辺国が結んだこの同盟も、いつまで保つか分からない。使者たちの間にも、それを分かっていながら口にしない、重い沈黙があった。
平穏は、束の間のものかもしれない。
それでも――今この時、分断されずに、手を取り合えたこと。その事実は、確かに、意味があった。
「ザイデルンとの戦いは、これからも続くでしょう」
私は、声を落とし、けれど確かな調子で告げた。
「けれど、私たちは、もう、ばらばらではありません。……それが、今の私たちの、いちばんの武器ですわ」
西の空に、まだ帝国の影は、うっすらと揺れていた。
けれど、その影に立ち向かう者たちは、もう、ひとりではなかった。
その夜、この王宮では、同盟の成立を祝う宴が開かれることになっていた。




