決戦
夜明け前の空気は、刃のように冷たかった。
砦の胸壁に立つと、霧が谷筋を白く塗りつぶし、篝火の炎さえ滲んで見える。濡れた革と、馬の匂い。待機する兵たちの、抑えた息の音。誰も、無駄口を叩かなかった。
斥候の報告は、昨夜のうちに届いていた。ザイデルンの別動隊は、これまで国境を荒らしてきた賊軍とは、明らかに練度が違う。足音を殺す歩き方、無言のまま揃う隊列、闇に紛れて動く隠密の技術。帝国が長年かけて磨き上げてきた工作の粋を、そのまま軍にしたような部隊だった。数は、こちらの倍近い。
だが、こちらにも、勝算はあった。
ひとつは、辺境伯家の武。代々、剣をもって国境を守ってきたこの家の兵は、練度でこそ劣らない。もうひとつは、私自身の力だった。――西の水路沿いで結界を張ったあの日から、まだそれほど経っていない。三ヶ月の稽古でようやく取り戻した力は、今も、指先に鈍い痺れを残したまま去らない。それでも、使えないわけではなかった。
「配置につきなさい。……作戦は、昨日の通りよ」
私は、砦の高台から、戦場を見渡した。谷の傾斜、川の細り方、木立の途切れる場所。この地形は、地図を見るまでもなく、頭の中にある。かつて、水路を描くために幾度も歩いた土地だ。どこに堤防を築けば水が生きるか、どこに伏兵を置けば敵が死ぬか――描く図面が変わっただけで、地を読む目は、あの頃から何も変わっていない。
居並ぶ指揮官たちに向かって、私は地図の一点を指した。指先は、冷えていた。握りしめた地図の端が、汗で、わずかに湿っている。
「敵は、霧を利用して、この谷筋から奇襲をかけてくるつもりです。谷の出口は三か所――北の崖沿い、中央の川床、南の木立の陰。ですが、地形を見れば分かりますわ。北は崖が急すぎて大軍は通れない。南は木立が邪魔で隊列を組めない。……つまり、敵の主力は、必ず中央の川床を抜けてくる」
私は、地図の中央に指を落とした。
「そこに、罠を張りますわ。結界は、私が中央の川床に。バルドゥイン兄様は北の崖上から矢を、殿下は南の木立に伏兵を。敵が中央に雪崩れ込んだ瞬間、三方から閉じ込めます」
「言うだけなら簡単だがな」――兄バルドゥインが、口の端で笑った。「その結界、保つのか。三ヶ月そこらの稽古だろう」
「保たせますわ。……保たせなければ、皆が死にますもの」
兄は、それ以上何も言わなかった。ただ、私の肩を、一度だけ強く叩いた。
*
果たして、夜が白みきる前に、ザイデルンの別動隊は、霧に紛れて谷筋から現れた。灰色の外套が、乳白色の霧に溶け込んで、輪郭さえおぼつかない。手信号だけで隊列を組み替え、足音ひとつ立てずに進んでくる。息遣いすら、殺されていた。狙い違わず、その主力は、中央の川床へと吸い込まれていく。
「――今よ!」
私が指を鳴らすと、谷全体に、辺境伯家の守りの結界が立ち上がった。銀色の光の網が、地を這うように広がり、敵の退路を断ち、その勢いを絡め取っていく。込めた力の分だけ、膝の裏が、じん、と重くなった。視界の端が、白く霞んだ。それでも、崩れるわけにはいかなかった。
同時に、伏せていた同盟軍の精鋭が、四方から攻めかかった。北の崖上から、バルドゥインの矢が雨のように降り注ぐ。南の木立からは、エドヴァルド自らが率いる王家の直属兵が飛び出し、退路を塞ぐ。ヴェスターラントの守備兵、グレンヴァルトの辺境伯軍、各国から集った援軍――霧の向こうに、彼の旗印だけが、迷いなく前へ前へと進んでいくのが見えた。
昨夜、父の使者が告げた言葉が、耳の奥で蘇る。「アイゼンヴァルト家は、この同盟を全力で支持する」――たった一晩で交わされたはずの約束が、今、目の前で、確かな戦列となって動いていた。分断されるはずだった国々が、ひとつの意志の下に、結集していた。
ザイデルンの別動隊は、精鋭とはいえ、この連携の前には、なす術がなかった。霧を利用した奇襲は、逆に自分たちを閉じ込める罠となり、四方からの攻撃に、隊列が、少しずつ、崩れていった。
*
だが、勝敗が決しつつあるその只中で、思わぬ声が上がった。
「――右翼、崩れます! 敵の別働隊、伏兵を回り込んで!」
地図にはなかった、細い獣道。斥候にも見落とされていたその道から、敵の一隊が、右翼を守る辺境伯軍の側面に食い込んできたのだ。矢が飛び交い、剣戟が鳴る。数人が、たまらず地に崩れ落ちるのが見えた。
結界を保ったまま、私は、視界の端でそれを捉えた。――今、この結界を解けば、中央に閉じ込めた敵の主力を逃す。だが、右翼を見捨てれば、そこに立つ兵たちが死ぬ。
迷った時間は、瞬きひとつぶんだった。
「結界は、このまま保ちますわ! バルドゥイン兄様、私の代わりに右翼へ!」
「お前は?!」
「私は、ここを動きません。……動けませんもの」
叫び返しながら、私は、もうひとつの手を動かしていた。結界を維持する力の、ほんの一筋を割いて、倒れた兵の元へ、治癒の光を送る。剣を握ったまま、魔法を編んだまま、同時にもうひとつの術式を紡ぐ――幼い頃から幾度となく繰り返してきた、身体に染みついた技だった。治療師として鍛えた手と、辺境伯の娘として鍛えた力。そのどちらも捨てずに済む道を、この瞬間、私は初めて、両手で摑み取っていた。
崩れかけた兵の傷口が、淡い光に包まれ、塞がっていく。呻いていた声が、束の間、静まる。「立てるか」――誰かがそう叫ぶ声を、遠くに聞いた。
膝の裏の痺れが、腕にまで這い上がってくる。視界が、二重に揺れた。それでも、結界の光は、消えなかった。
バルドゥインが率いる援軍が右翼に到達し、獣道からの伏兵を押し返す頃には、中央の敵は、完全に包囲網の中で動きを失っていた。
*
戦いは、半日で決した。
ザイデルンの別動隊は壊滅し、指揮を執っていた「灰色の商人」も、捕縛された。
最後まで抵抗していたのは、彼ひとりだった。護衛の兵に囲まれ、剣を構えたまま、じりじりと後退していく。だが、逃げ場は、もうどこにもなかった。
「終わりですわ。……あなたの部下は、もう誰も立っていません」
私が結界の一部を絞り、彼の足元にだけ光の輪を落とすと、男は、初めて表情を歪めた。焦りでも、怒りでもない。ただ、何かを見透かされたような、苦い顔だった。
兵の手が、灰色の外套を剥ぎ取る。その下から現れたのは、見覚えのある、鷲の紋章だった。――かつて、フェリクスの元へ出入りしていた、毛織物と塩の商隊。当時は気にも留めなかった、あの印。今なら分かる。この男は、あの頃から、ずっとこちらを見ていたのだ。
「随分と、遠くまで見ておられたのね」
「……あなたが、あの地味な女だったとはな。三年前は、ただの噂話を運ぶ女だとしか思っていなかったが」
「三年前は、まだ、私自身、気づいていなかったことも多くございましたのよ」
男は、ザイデルン帝国の工作を統括する高官のひとりだった。彼の口からは、帝国が周辺国に仕掛けてきた工作の、数々の証拠が引き出されることになるだろう。
「……これで、ひと区切りね」
私は、地面に膝をつきそうになるのを、辛うじて堪えた。声には出さず、荒くなった息だけを整える。手のひらに滲んだ汗が、冷たい朝の風に、じわりと冷えていった。腕は、まだ震えていた。結界と治癒、二つの術を同時に保ち続けた代償は、思っていたより重かった。
バルドゥインが、駆け寄ってきて、私の肩を支えた。
「――無茶をする。結界を保ちながら治療とは、聞いたこともないぞ」
「保たせなければ、部下が死にましたもの」
「そういうところ、父上そっくりだ」
兄が、苦笑した。その声に、ようやく、私は、詰めていた息を吐いた。
けれど――安堵しきるには、まだ早い。分かっていた。
捕えた「灰色の商人」は、壊滅した工作網の、末端に過ぎない。その背後には、帝国という、巨大な影が、まだ揺るがずに立っている。
彼は、捕らえた。だが、本命は――まだ、遠い。




