幕間・オデット視点
オデット・ヴァイセンベルクの生活が崩れ始めたのは、あの砦での一件から、わずか数日後のことだった。
最初に届いたのは、屋敷の差し押さえを告げる、王宮からの正式な通知だった。羊皮紙に押された蠟印を見た瞬間、指先から、体温が失われていくのを感じた。
物心ついた頃から、オデットは「侯爵家の娘らしくあれ」と、母に教え込まれて育った。背筋を伸ばし、誰よりも美しく装い、誰よりも高い位置に立つこと。それが、ヴァイセンベルク家の娘としての、唯一のたしなみだった。負けを知らない育て方をされた娘に、負けたときの振る舞い方だけは、教えられていなかった。
ローデンヴァルト伯爵家の資産は、その大半が、辺境伯令嬢イレーネの名義に戻された。事業の収益源を失った伯爵家は、たちまち借財の返済に窮し、屋敷も、調度品も、次々と差し押さえられていった。
「そんな……何かの間違いですわ。わたくしは、侯爵家の――」
オデットは、通知を握りしめて、震えた。声が、自分でも驚くほど、細かった。
けれど、実家のヴァイセンベルク侯爵家も、この醜聞から距離を置き始めていた。娘が「隣国の辺境伯令嬢を見下し、妾に置いてやると言い放った」という話は、社交界を駆け巡り、侯爵家の名にまで、泥を塗りつつあったのだ。仲の良かったはずの従姉妹からの便りすら、近頃はぱたりと途絶えていた。
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仕立て屋からの督促状が、山のように積み上がっていった。
月に何着も新調していた、贅を凝らしたドレス。宝飾店ヴェルニエの、目も眩むような耳飾りや首飾り。それらの支払いは、すべて、フェリクスの資産――いや、実際には、イレーネが築いた事業の収益から、賄われていた。
その源泉が断たれた今、オデットの手元には、支払いのあてすら、残されていなかった。
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そんな折、ヴェスターラント宮廷に、隣国グレンヴァルトから来たという一人の男が出入りするようになった。
「オデット嬢、こんな時に、お気の毒に」
アルブレヒト・フォン・グラウフェルトと名乗るその男は、やけに親身な態度で、オデットに近づいてきた。没落者同士、話が合うのだと、彼は殊勝に語った。
「あなたのような美しい方が、こんな目に遭うとは。……よろしければ、少し、酒でも」
藁にもすがる思いだったオデットは、その言葉に、ほんの少しだけ、心を許した。誰もが離れていく中、優しく声をかけてくれる相手が、いたから。
差し出された杯を、彼女は疑いもせずに、口にした。
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次にオデットが意識を取り戻したのは、見知らぬ部屋の寝台の上だった。頭が割れるように痛み、身体に力が入らない。着崩れた襟元に、彼女は震える手を伸ばした。
その扉を、フェリクスが開けたのは、ちょうどその時だった。伯爵位を返上する前の、最後の後始末に立ち会うよう呼び出され、たまたまこの屋敷を訪れていたのだ。
「――オデット?」
寝台の傍らに佇む、見知らぬ男。乱れた彼女の姿。フェリクスの顔から、音を立てて、血の気が引いた。
「ち、違うんです、これは……!」
オデットは、混濁する意識の中、必死に言葉を紡ごうとした。だが、酔いと薬の余韻に呑まれた舌は、まともに回らなかった。
男――アルブレヒトは、悪びれもせず、薄く笑っただけだった。
「……なるほどな。地味な女も、着飾った女も、結局、みな同じということか」
その呟きの意味を、この場にいる誰も、まだ知らなかった。三年前、同じ手口で、別の女性に薬を盛ったことがあるとは。
この一件は、瞬く間に、社交界の噂となって広まった。すでに地に落ちていたオデットの評判は、これでとどめを刺された形になった。フェリクスもまた、婚約者にすら疑いの目を向けられる自分の不甲斐なさに、さらに打ちのめされることになる。
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「奥様。……申し訳ございませんが、お暇をいただきたく」
雇っていた使用人たちが、ひとり、またひとりと、去っていった。給金の支払いが滞れば、当然のことだった。かつて、あれほど大勢に傅かれていた屋敷が、今では、しんと静まり返っている。足音の反響だけが、やけに大きく聞こえた。
かつて煌々と灯っていたシャンデリアも、灯すための油代さえ惜しむようになっていた。日が沈むと、屋敷は、あっという間に闇に沈んだ。
*
ある夜、オデットは、埃をかぶり始めた鏡の前に、座った。
差し押さえを免れた、最後の一枚のドレス。差し押さえを免れた、最後の紅。それだけを、後生大事に、小箱の底に隠していた。
その紅を、震える指で、頬に差そうとして――手が、止まった。
レーヌ・ブランシュ。
あの女が、作った品。
自分が、いちばん熱心に求め、崇め、そして――その作り手を「地味な女」と嗤っていた、あの化粧品。
鏡の中の自分の顔を、オデットは、じっと見つめた。
この美しさすら、あの女の手の内にあった。自分が誇ってきたもの、自分を輝かせてきたもの――そのすべてが、見下していた相手からの、施しに過ぎなかった。
それでも、指は、紅を握ったまま、離さなかった。捨てられなかった。それすらも、今の自分には、惨めだった。
「わたくしは……いったい、何を、誇っていたの」
呟いた声は、誰もいない部屋に、虚しく消えた。
鏡の中の自分が、この世の誰よりも、惨めに見えた。それでも、その夜、オデットは紅を捨てることができなかった。




