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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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レーヌ・ブランシュ

 打ちのめされたフェリクスと男爵だんしゃく夫人の傍らで、オデットだけが、まだ状況を呑み込めずにいた。


 いや――正確には、まだ諦めていなかった。膝の上で握りしめた扇の骨が、みしりと軋む。彼女は縋りつけるものを探すように視線を巡らせ、そして、その視線は、私の装いの上で止まった。値踏ねぶみみするような目つきで、彼女は口を開いた。


「た、確かに、辺境伯へんきょうはく令嬢かもしれませんけれど……でも、しょせん、田舎の武門の娘ですわ。洗練とは、無縁の。……その化粧、その香油だって、どうせ地方の――」


「あら」


 私は、静かに、その言葉を遮った。


「オデット様。今日の装い、いつも通り、お美しいこと。……その頬に差した紅、『レーヌ・ブランシュ』の新作でございますね。国内で今、いちばん手に入りにくい品と伺っておりますけれど」


「え……」


 オデットの表情が、固まった。


 その紅を、彼女は以前、侍女に一晩じゅう店の前に並ばせて手に入れたと、社交界で自慢していたはずだった。「これがなければ、社交界に出られない」とまで、公言していたはずだった。


「実は、あの化粧品ブランドのオーナーも、私ですの」


 控えていたグレタが、静かに歩み出て、小さな硝子がらす瓶を、私の手に載せた。銀の蓋に刻まれた、白い薔薇の刻印――レーヌ・ブランシュの、正式な証だった。


「――これが、何よりの証にございますわ」


 私は、その瓶を、居合わせた一同に見えるよう、そっと掲げた。


 広間から、驚きの声が、いくつも上がった。


 オデットの顔から、音を立てて、血の気が引いていった。


「レーヌ・ブランシュ――王都の貴婦人がたが、こぞって買い求める、あの化粧品。品薄で、入荷を待つ列ができるほどの人気。そのすべてを生み出し、設計し、商っているのは、わたくしですわ」


 誰の後ろ盾もなく、この身ひとつで立つために、積み上げてきたものだった。地味な治療師見習いのままでは、決して手に入らなかった力。


 私は、微笑みを崩さずに、続けた。


「あなたが、いちばん熱心にお求めになっていた品。あなたが『これがなければ社交界に出られない』とまで仰っていた、あの紅も、あの香油も――全部、わたくしが作ったものですのよ」


「そんな……嘘、でしょう……」


「嘘ではございません。……つまり」


 私は、彼女の目を、まっすぐに見据えた。


「あなたが見下していた『地味な女』の作った品を、あなたは誰よりも熱心に、崇めていらしたということですわ」


「それに、もうひとつ。……生みの親とは遠縁で、処方の相談にも乗って差し上げている、と。あちこちの令嬢がたに、そう吹聴していらしたそうですわね」


 オデットの顔が、さらに強張った。


「生憎、わたくしには、あなたのような遠縁はおりませんの。処方の相談も、いただいた覚えは、一度としてございませんわ」


 オデットは、よろめいた。


 自分が「田舎の武門の娘」と嗤おうとしたその女こそが、彼女が心酔してきた化粧品の生みの親だった。彼女が纏っている美しさそのものが、見下していた相手の手から生まれたものだった。


 (噓よ。噓に決まっている。だって、わたくしは――)


 オデットの喉から、声にならない音が漏れた。その屈辱は、身分の逆転よりも、さらに深く、彼女の芯を抉ったに違いない。


「……それから、もうひとつ」


 私は、静かに付け加えた。


「フェリクス様の事業を支えていた資金の大半は、このレーヌ・ブランシュの収益から出ておりました。その名義は、本日付で、すべて私に戻っております。加えて、フェリクス様が方々に作られた借財も、これから順に、私が回収させていただきますわ。……あなたが今お召しのそのドレスも、その宝石も。伯爵はくしゃく位という肩書きだけが残った明日、いったい何でお支払いになるおつもりかしら」


「な……!」


 オデットの顔が、恐怖に歪んだ。


「わ、わたくしの、ドレスも……宝石も……あの方の、資産から……」


「ええ、存じておりますとも」


 私は、彼女の耳元で鈍く光る耳飾りに、目をやった。


「その耳飾り、宝飾店ヴェルニエの新作でしたわね。仕立てのドレスも、月に何着も新調していらしたとか。……全部、私が育てた事業の収益から、出ていたお金でしたのよ、オデット様」


「そんな……」


「バカにしていた女の財布で、贅沢三昧をなさっていたということですわ」


 オデットは、その場に、崩れ落ちるように膝をついた。


 絹の裾が、大理石の床に広がる。誰も、動けずにいた。ただ、フェリクスの乾いた咳だけが、その沈黙を裂いていた。


 やがて、誰からともなく、囁きが広がっていく。「では、あの噂の化粧品も……」「まさか、あの令嬢が……」。オデットが崇め、誰もが求めた美の背後にいたのが、この場で最も貶められていた女性だったという事実は、瞬く間に、広間中を駆け巡った。

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