辺境伯令嬢、参る
ヴェスターラント国境の砦が見えてきたのは、出立から六日目の朝だった。
六日間、馬上で過ごした身体は、鎧の重みにも、鞍の軋みにも、すっかり慣れていた。三ヶ月前の自分なら、半日と保たなかっただろう。
砦の周囲には、賊軍との交戦の跡が生々しく残っていた。焼け落ちた櫓、破られた柵、疲弊した守備兵たち。ヴェスターラントの防衛線は、確かに限界に近づいていた。焦げた木の匂いが、まだ風に混じっている。
辺境伯家の旗を掲げた軍勢が近づくのを見て、砦の守備兵たちが色めき立った。まず、彼らを驚かせたのは、その旗そのものだった。
「アイゼンヴァルト家の……援軍か!」
グレンヴァルト王国の辺境を代々守る、武門の名家。その旗が、この危急の時に現れたのだ。守備兵たちの顔に、安堵と、そして戸惑いが浮かんだ。
砦の門前で、私は馬を止めた。
出迎えに現れたのは、憔悴しきった守備隊長だった。彼は、援軍の指揮官が兜を目深にかぶった、思いのほか小柄な人物であることに、いぶかしげな視線を向けていた。
私は、ゆっくりと兜を脱いだ。
三年ぶりに、この国の空気に、素顔をさらす。
首元には、もう『霞の首飾り』はない。三年前、この国で「地味な治療師見習いのイレーネ」として過ごしていた頃とは、まるで別人の――辺境伯令嬢としての、本来の姿で。
風が、頬を撫でた。何ひとつ隠すもののない頬を。それだけのことが、これほど心もとなく、それでいて、これほど清々しいものだとは、思っていなかった。三年間、鈍い灰色の石の下に押し込めてきた顔を、この国の誰かに再びさらす日が来るとは――旅立ったあの夜の自分は、想像もしていなかった。
守備隊長が、絶句した。
「……イレーネ、殿?」
彼は、私を知っていた。フェリクスの陰に隠れていた、あの目立たない女として。けれど今、目の前にいる女が、記憶の中の「イレーネ」と同じ人物だとは、にわかには信じられない様子だった。
「ご無沙汰しております」
私は、馬上から静かに微笑んだ。
「グレンヴァルト王国、辺境伯アイゼンヴァルト家の長女、イレーネ・フォン・アイゼンヴァルト。援軍として参りました」
守備隊長は、しばし言葉を失っていた。
あの、後ろ盾もない、地味な治療師見習いが。フェリクスに捨てられ、この国を去ったはずの女が。今、隣国の名門辺境伯家の令嬢として、軍を率いて戻ってきた。
かつての私なら、これほど衆目を集める場で名乗りを上げることさえ、恐ろしかっただろう。けれど今は、違う。誰に何を言われようと、もう俯く理由はない。
「――さあ、状況をお聞かせください。時間が惜しゅうございます」
私は馬を降り、砦の中へと歩を進めた。
*
その一報は、その日のうちに、早馬で王都へと届けられた。
「ローデンヴァルト伯爵の元婚約者が、実は隣国の辺境伯令嬢だった」――と。
王宮の広間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになったという。
誰もが顔を見合わせ、誰もが同じ疑問を口にした。地味で、目立たず、フェリクスの陰に隠れていたとしか記憶にない、あの女が。なぜ、隣国の名門令嬢なのか。なぜ、その正体を、三年も隠していたのか。
そして、その報せは――当然、ローデンヴァルト伯爵家の耳にも、届くことになった。
フェリクスが、その報せをどんな顔で受け止めたのか。それを知るのは、もう少し、先のことになる。




