出陣
出立の支度は、慌ただしく整えられた。
辺境伯家の精鋭を率いての援軍。父は当主として国境の守りを離れられないため、指揮は私に任された。三ヶ月前まで剣も握れなかった娘に、である。無謀に思えるかもしれない。けれど父は、静かにこう言った。
「アイゼンヴァルトの血だ。それに――お前には、あの土地を知る者にしか分からないものが、見えるはずだ」
その言葉の意味を、私は正確に理解していた。
私は、ヴェスターラントの地形を知っている。あの国の水路を、道を、村の位置を――誰よりも詳しく知っている。なにしろ、その多くを、自分の手で描いたのだから。
三年前、焚き火を挟んでフェリクスに語って聞かせた設計図は、今も、寸分違わず私の頭の中にある。あの夜、彼に託した夢を、今度こそ、この手で守りに変える番だった。
*
出陣の朝、兄バルドゥインが、国境の警備の合間を縫って見送りに来てくれた。鎧の上から外套を羽織っただけの、慌ただしい格好だった。ここ数日、ろくに眠っていないのだろう、目の下には薄く隈が浮いていた。それでも、口ぶりだけは、いつもと変わらなかった。
「無茶はするなよ、と言っても、聞かないんだろうな」
「兄様ゆずりですもの」
「言うようになったな」
兄は笑ったあと、ふと真顔になって尋ねた。
「……あの、男爵上がりの伯爵とやらに、一言、伝えることはあるか」
フェリクスのことだ。私が三年を捧げ、そして捨てられた相手。
少し考えて、私は答えた。
「特には」
「特には、か」
「ええ」
「らしくないな。三年も尽くした男だろう」
兄の言葉に、私は静かに首を振った。
「三年、尽くしました。だからこそ、言葉より先に、見せるべきものがあるのです。……彼が積み上げたと思い込んでいるものの、本当の持ち主が、誰なのか」
兄は、しばらく私の顔を見つめたあと、にやりと笑った。
「怖い妹だ。……気をつけて行け」
「はい、兄様」
*
グレタとは、ヴェスターラント国境で合流する手筈になっていた。現地で聖医の診療網とレーヌ・ブランシュの事業を守り続けてきた彼女は、あの国の今の情勢を、誰よりもよく把握している。彼女の情報は、この戦いで、何よりの武器になるだろう。
辺境伯家の旗を掲げ、私は馬上の人となった。
空は高く晴れ渡り、風は西へと吹いていた。ヴェスターラントの方角へ。
三年前、身分を隠し、顔を隠し、俯くようにして越えた国境を、今度は――辺境伯令嬢イレーネ・フォン・アイゼンヴァルトとして、堂々と越えていく。
今度は、身分を隠さない。
この先に何が待ち受けているのか。三年前、置き去りにしてきたものと、どんな顔で向き合うことになるのか。まだ、分からなかった。けれど、もう、俯くことだけはしない。
私は、まっすぐに前を見据えて、馬の腹を蹴った。




