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伯爵に成り上がった婚約者に「用済みだ」と切り捨てられましたが、彼の功績も財産も健康も、支えていたのはわたくしでした  作者: 鷹居鈴野


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急使

 雨の音が、屋敷の窓を叩いていた。夜半を過ぎても止む気配のないその雨の中を、駆けてきた者があった。


「――辺境伯へんきょうはく様! ヴェスターラント王国より、急使にございます!」


 執務室に駆け込んできた従者の声に、父が椅子から立ち上がった。私も、稽古の汗を拭う手を止めて、その場に急いだ。廊下を渡るあいだも、雨は容赦なく屋根を叩き続けていた。


 泥まみれの急使が、震える手で書状を差し出した。指先はかじかみ、外套の裾から滴り落ちた雨水が、絨毯に小さな染みを作っていく。父がそれを開き、目を通していく。蝋燭の灯りに照らされたその顔が、みるみる険しくなっていった。


「――大規模な賊軍の侵攻を受けている。ヴェスターラント国境の防衛線が、複数箇所で突破されつつあると」


「賊軍……やはり」


「背後には、ザイデルン帝国の影があるとみられる、とも記されている。両国の同盟に基づき、正式に援軍を要請する、と」


 部屋の空気が、一気に張り詰めた。


 この数ヶ月、私たちが追い続けてきた鷲の紋章の商会。その先にいる存在が、ついに、はっきりとした形で牙を剥いた。


 私は、拳を握りしめた。手のひらに、稽古でできた剣だこの感触が残っている。三ヶ月前までは、剣を握ることすらできなかった手だ。それが今、震えることなく、拳の形を保っていた。


「……父上」


 私は、静かに口を開いた。


「私が参ります」


 父は、しばらく無言で私を見つめていた。稽古で鍛え直したこの三ヶ月、彼は私の成長を、誰よりも近くで見てきたはずだった。それでも、娘を戦場に送り出すことへの逡巡が、その目には確かにあった。握りしめた拳が、机の上でかすかに震えているのに、私は気づいていた。


「……イレーネ」


「はい」


「行けるか」


 その問いに、迷いはなかった。


 もう、身分を隠す必要はない。誰かの陰に隠れて、名も告げずに立ち回る必要もない。


 辺境伯家の娘として。


 治療師として。


 そして――かつて自分の手で積み上げたものが、今どうなっているのかを、この目で確かめる者として。


 三年前、この手で描いた水路が、今、誰かを守る盾になっているのか。それとも、誰かの牙に踏み荒らされようとしているのか。それを確かめる資格が、私にはあった。


「――喜んで」


 私は、迷うことなく、そう答えた。


 窓の外では、雨が、まだ降り続いていた。けれど、私の胸の内に、迷いという名の曇りは、もはや一片も残っていなかった。

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