幕間・フェリクス視点
フェリクス・ローデンヴァルトは、執務室の帳簿を前に、頭を抱えていた。
インクの染みが、指の腹に薄く残っている。何度も同じ列を指でなぞり、何度も同じ数字を足し直した跡だった。数ヶ月前まで、順調そのものだった資金繰りが、今では見る影もない。収入は目に見えて減り、支出だけが膨らんでいく。原因を探ろうにも、担当していた会計係はいない。測量士も、資材の仕入れ担当も、まるで示し合わせたように、ここ数ヶ月でごっそりと去っていった。
「なぜだ……」
誰も、はっきりとした理由を語らなかった。ただ「一身上の都合で」とだけ残して、静かに姿を消していった。手紙の一通も、詫びの言葉ひとつも残さずに。
思えば、あの者たちを雇い入れたのも、給金を決めたのも、すべてイレーネが取り仕切っていた。フェリクス自身は、詳細をよく知らないまま、ただ事業が回っていく様を見ていただけだった。帳簿の隅々まで、彼女の几帳面な筆跡が残っている。今その筆跡を目で追うたび、自分がこの数字の意味すら満足に読み解けないことに、苛立ちが募った。
――イレーネが、いなくなってから。
その考えが浮かぶたび、フェリクスは首を振って打ち消した。関係あるはずがない。自分の事業は、自分の才覚で築いたものだ。伯爵位も、王からの信任も、この手で摑み取った。あの日、彼女に告げた言葉は、間違ってなどいなかったはずだ――婚約者としての務めを果たしたに過ぎない、と。あれ以上でも、あれ以下でもない。そう、幾度も己に言い聞かせた。
それだけではなかった。
ここ数ヶ月、胸の奥に、時折鈍い痛みが走るようになった。息が詰まり、脂汗が滲む発作。宮廷医師団に何度診せても、原因ははっきりしない。「過労でしょう」とだけ言われ、休息を勧められるが、休んだところで良くなる気配もない。
昔から、多少胸が苦しくなることはあった。だが、これほど頻繁ではなかった。ここ最近まで、なぜかずっと、体調は悪くなかったはずなのに。
朝の茶を、変えたせいだろうか。
ふと、そんな考えがよぎった。婚約中、イレーネが毎朝淹れてくれていた、あの少し苦い茶。「体にいい」とだけ言われて、深く考えもせず飲んでいた。今は、誰もそれを淹れてはくれない。台所の女中に似たものを淹れさせてみたこともあったが、味も香りも、どこか違う気がして、結局続かなかった。
まさか、あれが。
その考えを、フェリクスはまた、無理やり打ち消した。ただの茶だ。あんなものが、体調と関係あるはずがない。関係があるとすれば、それは――認めたくない何かを、認めることになる。ペンを握る指に、無意識に力がこもった。
*
追い打ちをかけるように、領地の代官から、新たな報告が届いた。書斎の扉が慌ただしく叩かれ、代官は返事も待たずに踏み込んできた。
「旦那様。領地の外れで、魔獣に襲われる領民が続出しております。至急、討伐隊の編成を」
「討伐隊……? そんなもの、これまで誰が」
問いかけて、フェリクスは言葉に詰まった。
誰が、今まで、この領地の魔獣を退治していたのか。彼は、その答えを知らなかった。ただ「近頃、魔獣が少ない」と、漠然と喜んでいただけで、その裏で誰が何をしていたのかなど、考えたこともなかった。婚約していた三年の間、夜に彼女の姿が見えないことがあっても、「体調が優れないのだろう」とだけ思い、深く尋ねはしなかった。今にして思えば、あの不在にはいつも、妙に規則性があった気がする。だが、それを今さら結びつけて考えるのは――あまりにも、都合が悪すぎた。
「……編成しろ。金がかかっても構わん」
「はっ。ですが、腕の立つ討伐者は、なかなか見つからず」
代官が下がったあと、フェリクスは執務室にひとり、取り残された。窓の外はすでに暮れかけ、机の端で冷めきった茶が、湯気ひとつ立てずに沈黙している。
金繰りも、体調も、領地の平穏も――何もかもが、少しずつ、狂い始めている。三年かけて積み上げてきたはずのものが、指の間から、砂のようにこぼれ落ちていく。
「あの女がいなくなってから……」
呟いた言葉が、静かな部屋に、虚しく響いた。口にした瞬間、自分でもその一言に驚いた。ずっと避け続けてきた繋がりを、とうとう自分の口から漏らしてしまった。慌てて、その言葉を打ち消すように、かぶりを振る。
違う。偶然が重なっているだけだ。三年連れ添った婚約者が去った直後というだけで、何もかもを結びつけるのは、あまりにも短絡が過ぎる。オデットとて、いずれこの屋敷を、以前と同じように整えてくれるはずだ。……そのはずだった。
帳簿の数字を、もう一度見直す。何度計算し直しても、赤字は膨らむばかりだった。
これまで一度も裏切ったことのなかった帳簿の数字が、初めて、彼を裏切っていた。それでもフェリクスは、その数字の向こうに立つ、たったひとつの答えからだけは、頑なに目を逸らし続けていた。




