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序節 ― 月見台への召命

 舞台へ上がる者は、みな名を持っているとは限らない。


 役を与えられて立つ者もいれば、役を奪われぬために立つ者もいる。


 では、まだ名のない者が中央へ進む時、観客は何を見るのか。


 顔か。

 血筋か。

 空白か。


 それとも、最初の一歩か。


 ――その問いに答えるための舞台が、帝都カミザには古くからあった。


 名喰月見台。


 月を見上げるための台だと、人は言う。


 だが、月を見上げる場所は、ときに、月へ何かを差し出す場所にもなる。


 名を。

 役を。

 まだ定まらない者の息を。


 無面原から戻る道で受け取った封書は、灰白の印で閉じられていた。


 定役面コトサダメの印。


 イロハは、その封を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。


 仮面籍庁からの正式通達。


 サヨ=ミカゲの役名保留審査を、名喰月見台にて行う。

 名目は、皇女の御身を守るための保護審査。

 月喰い現象による影響を避け、未登録役名の安定性を確認するため。


 言葉は丁寧だった。


 けれど、イロハにはわかった。


 これは守るための審査ではない。


 封じるための儀式だ。


 役名がない者を、役名がないまま王朝の外へ置く。

 面がない者を、面がないことを理由に舞台から降ろす。

 未在の役を、未在であるうちに閉じる。


 アリノリ=シジョウは、きっとそうする。


 怒りではなく、正しさで。


「明晩、酉の刻」


 アヤメが封書の文面を読み上げた。


 声は平静だったが、指先がわずかに強張っている。


「名喰月見台、開門。サヨ=ミカゲ様、白影宮関係者、面師イロハ=ナギ殿、臨席を命ずる……」


「命ずる、ですか」


 イロハは、思わず呟いた。


 サヨは、その言葉に少しだけ目を伏せた。


 白影宮の皇女であるはずの彼女が、呼ばれるのではなく、命じられている。


 役名がないから。

 面がないから。

 王朝儀礼の中に、彼女を正しく置く場所がないから。


 ロウセツは、封書を横目で見て、低く吐き捨てた。


「いい面してやがる。保護、保護ってな。人を箱に入れる時ほど、連中は優しい言葉を使う」


 その声には、古い怒りがあった。


 宮廷を追われた面師の怒り。

 かつて皇女の未在面に触れ、幼いイロハへ《ナギノオモテ》を与えた者の痛み。


 イロハは、胸に抱えた面箱を見下ろした。


 蓋は閉じている。


 けれど、もう隠しているわけではない。


 あの中には、自分の救いと罪が眠っている。

 自分が選べなかった始まりがある。


 だからこそ、サヨには同じことをしたくなかった。


「サヨ様」


 イロハは顔を上げた。


「まだ、面は作れません」


 サヨは、静かにイロハを見た。


「はい」


「一晩で作れるものでもありません。今作れば、きっと間違えます」


「はい」


「でも」


 イロハは、言葉を切った。


 無面原の白い木々。

 《ナギノオモテ》の内側にあった空白。

 師匠の黒い傷。

 自分の失われた生面の欠け。


 それらが、まだ胸の中でざわめいている。


 だからこそ、今はっきりと言えることがあった。


「彫らせてはいけない人たちに、サヨ様の役を決めさせるわけにはいきません」


 サヨの瞳が、かすかに揺れた。


 アヤメが息を呑む。


 ロウセツは何も言わなかった。


 イロハは続ける。


「アリノリ様は、きっと正しいです」


 それが一番怖かった。


「サヨ様を傷つけようとしているわけじゃない。王朝を乱さないため、月喰いを広げないため、みんなを守るために、役名保留という形を取るんだと思います」


 けれど。


「でも、それはサヨ様に息を止めろと言うのと同じです」


 サヨは、ゆっくりと目を閉じた。


 白影宮で、面がないまま生きてきた皇女。


 人が忘れた役を覚えていた。

 失われた役を見届けた。

 終わった役を送った。

 まだ名のない一歩を踏んだ。


 その彼女に、王朝は言う。


 定まるまで、待て。

 危ういから、動くな。

 役名がないから、立つな。


 保護という名で。


「イロハ」


 サヨが静かに言った。


「わたしは、逃げません」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


 アヤメが思わず一歩前に出る。


「サヨ様。名喰月見台がどういう場所か、まだわかっておりません。アリノリ=シジョウが《コトサダメ》を用いるなら、無理にでも役名を定められる可能性があります」


「ええ」


「保護審査とは名ばかりです。実際には、白影宮へ封じる口実かもしれません」


「ええ」


「ならば、行くべきではありません」


 アヤメの声は硬かった。


 護衛として、当然の言葉だった。


 危険な場所へ主人を向かわせない。

 封じられるとわかっている儀式へ、連れていかない。

 それが守る役だ。


 だが、サヨは首を横に振った。


「アヤメ」


「はい」


「わたしが行かなければ、わたしのいないところで、わたしの役が決められます」


 アヤメは言葉を失った。


「それは、守られることではありません」


 サヨは続ける。


「わたしは、保留されるために行くのではありません」


 風が吹く。


 遠くに帝都カミザの屋根が見えていた。

 白木の回廊。

 黒漆の門。

 朱塗りの舞台。

 そして、その奥に、月を待つ古い台。


 サヨは、その方角を見た。


「わたしが、何者として立つのかを、わたしのいないところで決められないためです」


 アヤメは、唇を噛んだ。


 前へ出るべきか。

 止めるべきか。

 守るべきか。

 退くべきか。


 その迷いが、一瞬だけ彼女の中で揺れた。


 だが、アヤメはやがて深く頭を下げた。


「では、お供します」


 サヨは小さく頷いた。


「ありがとう」


 イロハは、そのやり取りを見ていた。


 以前の夜、サヨはアヤメの役を呼び戻した。

 あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です、と。


 けれど今、サヨはアヤメをその役に閉じ込めようとはしない。


 アヤメ自身が選び直すのを待っている。


 それが、サヨという人なのだと思った。


 ロウセツが肩をすくめる。


「で、俺はどうする。資格剥奪者はお呼びじゃねえだろうが」


「師匠も来てください」


 イロハは即答した。


 ロウセツが片眉を上げる。


「お前、さっきまで俺に怒ってなかったか」


「怒っています」


「だよな」


「でも、来てください」


 イロハは、まっすぐに師匠を見た。


「サヨ様の未在面に関わった最初の面師は、師匠です。名喰月見台が何なのかも、少しは知っているはずです」


「全部は知らねえ」


「少しでもいいです」


「俺がいたら、仮面籍庁は余計に騒ぐぞ」


「騒がせればいいです」


 ロウセツは、一瞬だけ黙った。


 それから、苦く笑う。


「弟子が強くなりすぎると、師匠は肩身が狭いな」


「それは自業自得です」


「言うようになったじゃねえか」


 ロウセツはそう言ったが、拒まなかった。


 代わりに、無面原の方角へ一度だけ振り返る。


「あの台はな、イロハ」


 彼は低く言った。


「面を作る場所じゃねえ」


「では、何の場所ですか」


「役を、月へ預ける場所だ」


 イロハは眉をひそめる。


「預ける?」


「そう言われていた。少なくとも、俺が宮廷にいた頃はな」


 ロウセツの声は重かった。


「だが、預けるってのは便利な言葉だ。返す気がある時も、ない時も使える」


 イロハの背筋が冷える。


 名喰月見台。


 月へ預ける場所。


 戻ってくるのか。

 それとも、戻らないのか。


 サヨは静かに聞いていた。


 自分の役が、そこへ預けられようとしている。

 定まるまで、守るために。

 けれど、その「定まるまで」はいつまでなのか。


 誰が、返すと決めるのか。


 その答えは、封書には書かれていない。


 夕暮れが近づいていた。


 今夜を越えれば、明晩には名喰月見台へ向かわなければならない。


 面はまだない。


 あるのは、無面原の木片。

 《ナギノオモテ》の真相。

 サヨ自身の一歩。

 そして、イロハがもう同じ過ちを繰り返さないと決めたことだけ。


 イロハは言った。


「準備しましょう」


 アヤメが頷く。


「白影宮へ戻ります。名喰月見台へ向かうなら、最低限の護衛と支度が必要です」


「仮面籍庁に妨げられない程度に、ですか」


「妨げられても進める程度に、です」


 アヤメの声には、静かな決意があった。


 サヨは、少しだけ微笑んだ。


 ロウセツはぼやく。


「物騒な姫様と護衛だな」


「師匠も十分物騒です」


「俺はただの元面師だ」


「ただの元面師は、無面原の木で禁忌の面を作りません」


「今日の弟子は刺してくるな」


「まだ足りません」


 ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。


 けれど、その緩みもすぐに夜へ沈んでいく。


 帝都の向こうに、月が昇り始めていた。


 暦では、満月ではない。


 それでもイロハは、これまでの出来事を思い出す。


 箱の中の満月。

 鉄鉢の水面に映った満月。

 方位盤の内側に出た満月。

 定役面の裏で震えた白い半面。

 濁った水桶に映らなかった顔。

 灰皿に浮かんだ鏡ノ客。

 無面原の木肌に映った問い。


 月は、空だけにあるのではない。


 映る場所があれば、そこに現れる。


 ならば、名喰月見台では何が映るのか。


 サヨの空白か。

 王朝の正しさか。

 アリノリの恐れか。

 それとも、喰われたことにされた名のほうか。


 イロハには、まだわからない。


 けれど、逃げない。


 サヨも逃げない。


 アヤメも引かない。

 ロウセツも、今度は隠れない。


 イロハは《ナギノオモテ》の面箱に手を置き、静かに息を吸った。


 息はできる。


 今度は、自分でそう答えた。


 そして、サヨが自分の息で立てるように。


 まだ名のない面へ、最初の線を入れる時が近づいていた。

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