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第一節 ― 名を喰う台

 名喰月見台は、帝都カミザの北東、古い石垣の上にあった。


 白影宮よりも高く、天帝宮よりは低い。


 都を見下ろすには近すぎて、空へ届くには低すぎる。

 その中途半端な高さが、かえって不気味だった。


 そこは、月を見るための場所だと聞かされていた。


 けれど、門をくぐった瞬間、イロハは思った。


 違う。


 ここは、月を眺める場所ではない。


 月に、何かを差し出す場所だ。


 白い石段が、ゆるやかに上へ続いている。


 一段一段はよく磨かれていた。

 足を置くたび、石の冷たさが草履の裏から伝わってくる。

 白木の回廊の清らかさとも、ミナ=クラの冥祀社の灰白とも違う。


 ここにある白は、洗われた白だった。


 何かを削り落とし、汚れも傷も、泣き声までも拭い去って、表面だけを整えたような白。


 サヨは黙って石段を上っていた。


 公式参詣ではない。

 けれど、仮面籍庁の通達によって呼ばれた以上、もはや私的な外出でもなかった。


 アヤメは一歩後ろに控えている。


 いつもなら、サヨより半歩前へ出る。

 だが今日は違った。

 名喰月見台へ上がるのは、サヨ自身でなければならない。


 それを知っているからこそ、アヤメは前へ出ない。


 イロハは、その背中を見ながら、自分の面箱を抱え直した。


 面はまだ作れない。


 無面原の木片は、ロウセツが持っている。

 《ナギノオモテ》は、イロハの腰の面箱の中にある。

 どちらも、まだ使うものではなかった。


 今ここにあるのは、完成した答えではない。


 それでも、来た。


 サヨの役を、サヨのいない場所で決めさせないために。


 石段の上に出ると、月見台が見えた。


 円形の台だった。


 白い石を組み合わせて作られ、継ぎ目には銀のような細い線が走っている。

 遠くから見れば、月の輪郭を地上へ写したようにも見える。


 台の四方には、細い柱が立っていた。


 そこから幾筋もの白い紐が垂れている。


 月紐。


 イロハは、そう呼ばれるものを初めて見た。


 絹のように細く、白髪のように淡い。

 風もないのに、わずかに揺れている。

 その先には、まだ何も結ばれていない小さな札掛けがあった。


 役名札を吊るすためのものだと、アヤメが小声で教えた。


「本来は、月の下で役名を清めるための儀礼具です」


「本来は?」


 イロハが問い返すと、アヤメは唇を引き結んだ。


「……今は、保留役名を示す札を掛けることにも使われます」


 保留。


 その言葉が、白い紐の揺れと重なって見えた。


 台の中央には、黒い皿が置かれている。


 水盤ではない。


 漆黒の皿だった。

 厚く、浅く、底には濡れたような艶がある。

 砕いた月石を漆に混ぜて固めたものだと、ロウセツが低く言った。


「水を使わずに月を映すための皿だ」


 イロハは、皿の底を見た。


 まだ夜は浅い。

 空に昇った月は、満月ではない。


 それなのに、黒皿の底には、丸い光がかすかに滲んでいた。


 はっきりとは映っていない。

 けれど、そこに何かが出ようとしている。


 イロハの胸が重くなる。


 面箱の中に浮かんだ満月。

 鉄鉢の水面に出た満月。

 方位盤の式面の内側に現れた満月。


 また同じだ。


 空の月ではない。


 映る場所に棲む月。


 台の奥には、古い面棚があった。


 棚は半円形に並び、ひとつひとつの区画に白布がかけられている。

 どの面も直接は見えない。

 けれど、布の下に何かがあることだけはわかる。


 使われなくなった皇族面。

 役名を預けられた者の面。

 定まらぬまま封じられた儀礼面。


 そういうものが納められているのだろう。


 けれど、不思議なことに、棚からは冥祀社のような終わりの静けさを感じなかった。


 死者の面ではない。


 終わった面でもない。


 それらは、眠っているというより、起こされないように伏せられている。


 その中央だけ、棚が空いていた。


 いや、棚ではない。


 座だった。


 白い石で作られた小さな空座。

 面を置くための台座にも見える。

 人が座るには小さすぎる。

 だが、ただの物置にしては、あまりにも儀礼的だった。


 イロハは、その空座を見て息を止めた。


 空の面箱。


 白影宮の中央の棚。


 サヨのために用意されているのに、サヨの面だけがない場所。


 それと、同じ気配がした。


「ここに」


 サヨが静かに言った。


「わたしを置くのですね」


 誰もすぐには答えられなかった。


 アヤメの顔が強張る。

 ロウセツは口を開きかけて、閉じる。


 イロハは、空座を見たまま言った。


「サヨ様を置く場所じゃありません」


 サヨが、イロハを見る。


 イロハは、言い直した。


「サヨ様の役を、置かせる場所です」


 白い月紐が、ふ、と揺れた。


 まるで、その言葉を聞いたように。


 名喰月見台は、美しい場所だった。


 白い石。

 黒い皿。

 月紐。

 古い面棚。

 中央の空座。


 すべてが整っている。


 乱れたものは何もない。

 汚れもない。

 欠けた面も、泣いている子どもも、煤けた職面も、灰札を貼られた灰面もない。


 だからこそ、怖かった。


 灰面長屋のように、欠けたものが見えている場所ではない。

 冥祀社のように、終わったものを終わったものとして扱う場所でもない。


 ここでは、欠ける前に整えられる。

 終わる前に預けられる。

 乱れる前に封じられる。


 美しいまま、処分される。


 イロハは、そう直感した。


 ここは、面を眠らせる場所ではない。


 役を、月に預ける場所だ。


 そして、一度預けられた役が、必ず戻ってくるとは限らない。


 背後で、役人たちの足音が聞こえた。


 仮面籍庁の者たちだ。


 灰白の装束。

 整った足取り。

 手には札箱。

 顔には礼儀正しい無表情。


 彼らは怒鳴らない。

 武器も抜かない。

 ただ、所定の位置へ立つ。


 それだけで、月見台は裁きの場へ変わっていった。


 イロハは、サヨの横顔を見た。


 サヨは、空座を見つめている。


 怖くないはずがない。


 けれど、その足は下がらない。


 やがて、月紐の向こうから、ひとりの男が現れた。


 白金と墨黒の宮廷装束。

 黒に銀糸の混じる髪。

 手には、白漆の面箱。


 典役卿アリノリ=シジョウ。


 彼は、台の入口で深く礼をした。


「サヨ=ミカゲ様。ならびに白影宮の皆様。面師イロハ=ナギ殿」


 声は低く、柔らかい。


 そこには敵意がなかった。


 だから、イロハはさらに身構えた。


 アリノリは穏やかに続ける。


「名喰月見台へ、よくお越しくださいました」


 歓迎の言葉。


 けれどイロハには、それがこう聞こえた。


 よく、月へ預けられに来ました、と。

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