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終節 ― 名喰月見台からの召命

 無面原を出る頃には、空の色が変わり始めていた。


 白い木々は背後に遠ざかっていく。

 面になる前のものたちは、何も言わない。

 ただ、イロハたちの背を見送るように、細い枝を静かに揺らしていた。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱えて歩いていた。


 蓋は閉じた。

 けれど、もう隠したわけではない。


 見た。

 見てしまった。


 無面原の木目。

 サヨの未在面と同じ空白。

 月痕に似た裂け目。

 ロウセツの面片。

 自分の失われた生面の破片。


 救いだった。


 罪だった。


 その両方を、同じ面の中に見た。


 足元の道は、帝都へ戻る道のはずだった。

 けれど、イロハにはそれが、来た時とはまるで違う道に思えた。


 無面原へ来る前の自分には、まだ戻れない。


 戻らない。


 サヨは、少し先を歩いている。


 白影宮の皇女。

 面のない皇女。

 自分の面になれたかもしれないものが、別の少女を救ったと知った皇女。


 その背は、驚くほど静かだった。


 責めるでもない。

 諦めるでもない。

 ただ、これから選ぶ者の静けさを持っていた。


 アヤメはその横を歩き、周囲を警戒している。

 ロウセツは少し後ろを、いつもより足取り重くついてきた。


 誰も、しばらく口を開かなかった。


 沈黙が、罰のように続く。


 いや、とイロハは思う。


 罰ではない。


 これは、まだ言葉にならないものを、急いで面にしないための沈黙だ。


 その時だった。


 道の向こうから、蹄の音が近づいてきた。


 乾いた土を蹴る音。

 急ぎの馬だ。


 アヤメがすぐに前へ出る。


「止まれ」


 低い声だった。


 馬は、イロハたちの少し手前で止まった。

 乗っていたのは、仮面籍庁の使いだった。


 灰白の外套。

 胸に典役院の小さな面紋。

 腰には封書筒。


 使いは馬から降りると、深く礼をした。


「白影宮御関係者、ならびに面師イロハ=ナギ殿で相違ございませんか」


 その言い方だけで、イロハの胸が冷えた。


 白影宮の名を伏せる余地もない。

 面師小路の路地裏に逃げる余地もない。


 仮面籍庁は、こちらがどこにいるのかを把握していた。


 アヤメの目が細くなる。


「何用です」


 使いは、感情を見せずに封書筒を取り出した。


「典役卿アリノリ=シジョウ様より、正式通達でございます」


 アヤメの指が、刀の柄に触れた。


 ロウセツの顔が、露骨に険しくなる。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱く腕に力を込めた。


 使いは、白く封じられた文を差し出す。


 封には、朱ではなく、灰白の印が押されていた。


 定役面コトサダメの印。


 アヤメがそれを受け取り、封を切る。


 読み始めた瞬間、その顔色が変わった。


「……サヨ様」


 サヨは静かに振り向く。


「何ですか」


 アヤメは、一度だけ言葉を呑んだ。

 けれど、隠さなかった。


「サヨ=ミカゲ様の役名保留審査を行う、とのことです」


 イロハの心臓が、強く鳴った。


 役名保留審査。


 仮面籍庁で告げられた言葉が、正式な形を持って戻ってきた。


 使いは、淡々と続ける。


「白影宮外公式儀礼参加停止に伴い、皇女御身柄の保護、および未登録役名の安定性確認を目的とした審査でございます」


 イロハは唇を噛んだ。


 保護。


 また、その言葉だ。


 ユラから舞台を取り上げた時も、ハルマサの戦面を封じた時も、仮面籍庁は乱れを防ぐためと言った。

 サヨを封じる時も、きっと同じ言葉を使う。


 守るため。

 安定させるため。

 王朝を乱さぬため。


 ロウセツが低く尋ねる。


「場所は」


 使いは答えた。


「名喰月見台にて」


 その名が出た瞬間、空気が変わった。


 アヤメの顔から血の気が引く。


「名喰月見台……」


 イロハは、アヤメを見る。


「知っているんですか」


 アヤメはすぐには答えなかった。


 ただ、文を握る手に力が入っている。


 ロウセツも黙っていた。


 いつものように茶化さない。

 悪態すらつかない。


 それだけで、その場所がただの儀礼場ではないとわかった。


「師匠」


 イロハは問う。


「名喰月見台って、何なんですか」


 ロウセツは、遠くを見るような目をした。


「……今は、言いきれねえ」


「師匠」


「知っている。だが、全部は知らねえ」


 その声は苦い。


「俺が宮廷にいた頃、名前だけは聞いた。月に関わる古い台だ。皇族面、役名保留、月見儀礼……そういうものが絡む時に使われる」


「月に関わる?」


 セイランがいれば、きっと記録を取っただろう。


 けれど今、ここにいるのはイロハたちだけだった。


 ロウセツは、使いの前で多くを語らない。


「詳しくは、現地で見るしかねえ」


 イロハは、それが本音でもあり、隠し事でもあると感じた。


 使いは、さらに告げる。


「審査には、典役卿アリノリ=シジョウ様が臨席されます。定役面コトサダメを用いた正式判定となります」


 アヤメが鋭く言った。


「サヨ様を裁くつもりか」


 使いは頭を下げる。


「裁きではございません。保護審査でございます」


「同じことを、言葉だけ変えている」


 アヤメの声には怒りがあった。


 だが、使いは反応しない。


 役所の者は、怒りを受け取らない。

 ただ、通達を届ける。


 それがさらに腹立たしかった。


 サヨは文を見つめていた。


 表情は静かだ。


 けれど、イロハにはわかる。


 その静けさは、何も感じていない静けさではない。


 自分の役が、自分のいない場所で定められようとしている。


 しかも、名喰月見台という、月に関わる場所で。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直した。


「サヨ様」


 声をかけると、サヨがこちらを見た。


 その目は、逃げていなかった。


 イロハは言う。


「まだ、面は作れません」


 正直な言葉だった。


 今、サヨの面を完成させることはできない。


 無面原で真実を見た。

 《ナギノオモテ》を開けた。

 サヨの未在面に必要なものが、少しだけ見えた。


 けれど、まだ足りない。


 サヨが何者として立ちたいのか。

 イロハがどこまで彫ってよいのか。

 何を置き、何を余白として残すのか。


 何も定まりきっていない。


 だから、作れない。


 作ってはいけない。


 でも。


「でも」


 イロハは続けた。


「彫らせてはいけない人たちに、あなたの役を決めさせるわけにはいきません」


 アヤメが、はっとイロハを見る。


 ロウセツも目を細めた。


 イロハはサヨを見つめる。


「アリノリ様は、きっと正しく決めようとします」


 それが怖かった。


 悪意で奪われるなら、まだ抗いやすい。


 けれど、アリノリは正しさで封じる。

 役名がないから保留する。

 不安定だから止める。

 制度にないから認めない。


 そして、定められないものを、王朝のために封じる。


「サヨ様の役は、まだ定まっていません」


 イロハは言った。


「でも、定まっていないことを理由に、誰かが封じていいものじゃありません」


 サヨは、ゆっくりと頷いた。


「では、行きましょう」


 その声には、ためらいがなかった。


 アヤメがすぐに言う。


「危険です」


「はい」


「名喰月見台がどういう場所か、まだわかりません」


「だからこそ、行きます」


「サヨ様」


「わたしが、何者として立つのかを」


 サヨは、文を持つアヤメの手元を見た。


「わたしのいないところで決められないために」


 その言葉に、アヤメは口を閉じた。


 止められない。


 止めることは、守ることではなくなる。


 そう気づいた顔だった。


「……お供します」


 アヤメは深く頭を下げた。


「どこへでも」


 サヨは小さく頷く。


「ありがとう」


 イロハは、ロウセツを見る。


「師匠」


「行くんだろ」


「はい」


「止めても無駄か」


「はい」


 ロウセツは、深く息を吐いた。


「まったく、面倒な弟子に育てちまった」


 その言い方には、少しだけいつもの軽さが戻っていた。


 けれど、目は笑っていない。


「俺も行く」


 アヤメが眉を寄せる。


「資格剥奪者を名喰月見台へ入れられる保証はありません」


「入れねえなら外で待つ。外で待てねえなら忍び込む」


「堂々と言わないでください」


「お前さんが止めても無駄だろ」


 アヤメは一瞬、言葉に詰まった。


 イロハは、ほんの少しだけ息を吐く。


 笑えるほどではない。


 けれど、胸の奥の硬さがわずかに緩んだ。


 使いは、形式通りに頭を下げる。


「出頭は明晩。月見台開門は酉の刻。遅参なきよう」


 明晩。


 猶予はほとんどない。


 面はまだ作れない。

 サヨの役も、まだ定まりきっていない。

 イロハ自身の面の答えも出ていない。


 それでも、行かなければならない。


 定められる前に。


 封じられる前に。


 イロハは、空を見上げた。


 雲の向こうに、月がある。


 今夜の月齢は、満月ではないはずだった。

 けれど、これまで何度も見てきた。


 箱の中の満月。

 鉄鉢の満月。

 方位盤の満月。

 面の内側に棲む、暦にない月。


 名喰月見台では、何が映るのだろう。


 月は、何を喰うのか。


 あるいは、何を喰われたことにして映すのか。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱に手を置いた。


 まだ着けない。


 まだ使わない。


 けれど、もうただの隠し箱ではない。


 自分が何によって立ってきたのかを知るための箱。

 そして、サヨに同じことをしないための戒め。


 サヨが、隣へ来る。


「イロハ」


「はい」


「怖いですか」


 イロハは少し考えた。


「怖いです」


 嘘はつかなかった。


「でも、行きます」


 サヨは頷く。


「わたしも怖いです」


 その言葉に、イロハはサヨを見る。


 サヨは静かに微笑んだ。


「でも、行きます」


 二人はしばらく、同じ空を見上げた。


 面のない皇女。


 生面ではない面で立ってきた面師。


 二人は、まだ完成していない。


 まだ役名にも、面にも、完全な答えにもなっていない。


 だからこそ、名喰月見台へ向かわなければならない。


 誰かに定められる前に。


 自分たちで、まだ定まらないまま立つために。


 道の先で、帝都カミザの屋根が見え始めていた。


 白木の回廊。

 黒漆の門。

 朱塗りの舞台。

 そして、そのさらに奥。


 名喰月見台。


 月を見上げるための台なのか。

 名を喰わせるための台なのか。

 それとも、喰われたことにされた役を映すための台なのか。


 まだ、誰も答えを知らない。


 イロハは歩き出した。


 サヨが続く。

 アヤメがその横を守る。

 ロウセツが後ろからついてくる。


 無面原の白い木々は、もう見えない。


 けれど、イロハの胸の中には、まだ白い木目が残っていた。


 面になる前のもの。


 役になる前のもの。


 それを、誰かに勝手に彫らせてはならない。


 そう思った時、どこか遠くで、音のない鈴が鳴った気がした。


 始まりの舞でもない。

 終わりの送りでもない。


 まだ名のない一歩を、見届けるための音だった。

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