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第十節 ― それは救いだった。それは罪だった

 イロハは、《ナギノオモテ》を白布の上に置いたまま、ゆっくりとロウセツへ向き直った。


 面箱の蓋は閉じていない。


 白い面は、まだそこにある。


 隠されず、着けられず、ただ見られている。


 それは、今のイロハ自身のようだった。


 救われた子ども。

 選べなかった弟子。

 面師になった少女。

 そして今、自分の面を初めて見た者。


 ロウセツは、何も言わなかった。


 言い訳をしようともしない。

 軽口も叩かない。

 いつものだらしない師匠の顔ではなく、ひとつの面を作ってしまった面師として、そこに立っていた。


 イロハは、師匠の目を見た。


 怒りはあった。


 胸の奥に、熱いものがまだ残っている。


 どうして言わなかったのか。

 どうして選ばせなかったのか。

 どうして自分の面を、自分より先に師匠が決めてしまったのか。


 悲しみもあった。


 ずっと信じていたものが、別の形を持っていた。

 自分の生面だと思っていたものが、普通の生面ではなかった。

 自分は自分の始まりを、知らずに生きてきた。


 けれど、それだけではなかった。


 あの灰面長屋で。


 役人の問いに誰も答えられず、どこにも置かれなかった幼い自分。

 その子どもへ、ロウセツは面を与えた。


 息をするための面を。


 それは、たしかに救いだった。


「師匠」


 イロハは言った。


 声は震えていたが、逃げてはいなかった。


「師匠は、私を救いました」


 ロウセツの顔が、わずかに歪んだ。


 イロハは続ける。


「それは、なかったことにしません」


 白い木々の間を、風が抜ける。


「《ナギノオモテ》がなかったら、私はこの国で顔を持てなかったかもしれない。誰の子でもなく、どの家にも置かれず、灰面長屋の水桶に映らないまま、消えていたかもしれない」


 ミツの顔が、ふと脳裏に浮かんだ。


 面がないと、店の人が目を合わせてくれない。

 借り物の面をつけると、誰の子かわからないと言われる。


 幼い自分も、あの子と同じだった。


 サヨも、同じ痛みを別の場所で抱えていた。


「だから、救いだったんです」


 イロハは言った。


 そして、少しだけ息を吸った。


「でも、私に選ばせませんでした」


 ロウセツは目を伏せた。


 否定しなかった。


 できるはずがなかった。


「それも、なかったことにはしません」


 イロハの声は、少しずつ強くなっていく。


「師匠は、私がどう受け止めるかを先に決めた。私が傷つくだろうって、私が自分を責めるだろうって、私が救われたことまで疑うだろうって」


 ロウセツの指が、かすかに動く。


「たぶん、当たっています」


 イロハは苦く笑った。


「私は今、全部疑っています。救われたことも、自分の面も、自分が何者なのかも」


 その言葉に、アヤメの表情が揺れた。


 サヨは黙って聞いている。


 イロハは、ロウセツから目を逸らさなかった。


「でも、それを疑うかどうかは、私が選びたかった」


 ロウセツは、何も言えない。


「知って、傷ついて、それでも持つかどうか。師匠を許せるかどうか。この面を自分のものにするかどうか。そういうことを、私は自分で選びたかったんです」


 無面原の白い木々が、静かに立っている。


 面になる前のものたち。


 まだ誰にも選ばれていないものたち。


 それらの前で、イロハは初めて、自分の選べなかった始まりを言葉にしていた。


「すまなかった」


 ロウセツが言った。


 それは、あまりにも短い言葉だった。


 けれど、今の彼には、それ以外に言える言葉がなかったのかもしれない。


 イロハは、すぐには頷かなかった。


 許す、とも言わなかった。


 許さない、とも言わなかった。


 そのどちらかへ急いでしまえば、また何かを雑に定めてしまう気がした。


「今は、受け取れません」


 イロハは言った。


 ロウセツが顔を上げる。


「謝られても、まだどうすればいいのかわかりません」


「ああ」


「でも、聞きました」


 イロハは、《ナギノオモテ》へ視線を落とす。


「逃げずに、聞きました」


 それだけは、今の自分にできたことだった。


 ロウセツは深く息を吐いた。


「お前は、強くなったな」


「強くなったんじゃありません」


 イロハは首を振る。


「もう、知らないままではいられなくなっただけです」


 その言葉に、サヨが静かに頷いた。


 イロハは、今度はサヨへ向き直る。


 サヨは、白い面を見るでもなく、ロウセツを見るでもなく、イロハを見ていた。


 その目は、答えを急がせない。

 けれど、逃げることも許さない。


 イロハは、少しだけ背筋を伸ばした。


「サヨ様」


「はい」


「私は、サヨ様の面を作りたいです」


 アヤメが、わずかに息を呑む。


 ロウセツも、イロハを見る。


「でも」


 イロハは続けた。


「師匠が私にしたことと、同じことはしません」


 言葉にすると、胸の奥で何かが定まった。


「サヨ様を救いたいからって、私が勝手に役を置く面にはしません」


 サヨの瞳が、静かに揺れる。


「王朝に認めさせるためだけの面にも、しません」


 イロハは、仮面籍庁を思い出した。


 アリノリ=シジョウ。

 定役面コトサダメ

 白札と黒札。

 役名保留候補。


 あの場所では、サヨの存在は「安定しているかどうか」で測られた。


 けれど、面はそのためだけにあるのではない。


「仮面籍庁に見せるための面じゃありません」


 イロハは言った。


「白影宮に飾るためだけの面でもありません」


 胸の奥に、舞台板の音が蘇る。


 とん。


 サヨが踏み出した一歩。


 ユラの鈴が、かすれて鳴った音。


 冥祀社で、《ヒドメ》から足音が消えた静けさ。


 始まる役。

 終わる役。

 戻してはいけない役。

 まだ彫ってはいけない面。


 すべてが、今ここへ繋がっている。


「サヨ様の面には」


 イロハは、慎重に言葉を選んだ。


「サヨ様が選ぶ余白が必要です」


 サヨは黙っている。


 イロハは続ける。


「役を与えるためだけじゃなく、勝手に定められた役をほどく余白も。誰かが『皇女とはこうあるべきだ』って置いた形に、閉じ込められない余白も」


 ロウセツが、低く呟いた。


「仮置きと、仮解きか」


 イロハは頷いた。


「はい」


 失われた役を、ほんのひとときだけ面へ戻す仮置き。


 役を喰われた者たちに、もう一度立つための足場を渡す手だった。


 けれど、役は戻せばよいとは限らない。


 長く残りすぎた役が人を縛り、死者の足をこの世へ留めることもある。冥祀社で《ヒドメ》に施したように、役を終わらせ、静かにほどいてやらなければならないこともある。


 サヨの未在面には、その両方が必要なのだ。


 ただ役を作るだけでは足りない。


 役を選び直せること。

 押しつけられた役を脱げること。

 失われた一歩を守ること。

 終わった役を見送ること。


 それらが同じ面の中に入らなければ、サヨを救ったことにはならない。


 イロハは、《ナギノオモテ》を見た。


 救済と改変が混ざった面。


 自分を立たせた面。


 その面の痛みを知ったからこそ、サヨの面をどう作ってはいけないかがわかった。


「サヨ様の面は」


 イロハは言う。


「サヨ様を、この国に正しく置くためだけの面ではありません」


 サヨが、わずかに目を見開く。


「では、何のための面ですか」


 イロハは、すぐには答えなかった。


 完全な答えは、まだない。


 今ここで、サヨの面を完成させることもできない。


 けれど、最初に刃を向けるべき場所だけは、ようやく見え始めていた。


「サヨ様が」


 イロハは言った。


「自分で一歩を選んだ時、その一歩が喰われず、消されず、誰かに別の役名で上書きされないようにするための面です」


 白い木々の間を、柔らかな風が抜けた。


「そして」


 イロハは続ける。


「もし、その役を終える時が来たら、ちゃんと脱げる面です」


 その言葉に、サヨの表情が変わった。


 痛みと、驚きと、ほんのわずかな安堵が混ざった顔だった。


 面を持つことは、固定されることだと思っていた。


 皇女の面を持てば、皇女として定められる。

 王朝に認められる代わりに、王朝の形に閉じ込められる。


 でも、イロハが言っている面は違った。


 立つための面。


 選ぶための面。


 そして、脱ぐこともできる面。


「そんな面が」


 アヤメが低く言う。


「作れるのですか」


 イロハは正直に答えた。


「わかりません」


 ロウセツが小さく笑いかけたが、今度は軽口にしなかった。


 イロハは続ける。


「でも、作り方を間違えたらいけないことは、わかりました」


 サヨは、ゆっくりと頷いた。


「なら、わたしも選びます」


 イロハはサヨを見る。


「わたしの面を、誰かに作ってもらうだけではなく」


 サヨは、無面原の白い木々を見た。


「わたしが何者として立ちたいのかを、わたし自身も考えます」


 アヤメが、静かに頭を下げた。


「どこへ立たれるとしても、お守りします」


「それも、あなたが選んでください」


 サヨが言う。


 アヤメは一瞬、言葉を失う。


 サヨは穏やかに続けた。


「わたしを守る役を、あなたに押しつけたくありません」


 アヤメの目が揺れた。


 ――あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です。


 かつてサヨがそう告げた言葉は、アヤメを救った。


 だが今、サヨは自ら与えたその役さえ、アヤメの手へ返そうとしている。


 守る者にも、選ぶ余白を。


「……私は」


 アヤメは、少しだけ俯いた。


「選びます」


 そして、はっきりと言った。


「あなたを守ることを」


 サヨは、静かに微笑んだ。


「ありがとう」


 イロハは、そのやり取りを見ながら思った。


 サヨの面は、サヨだけの面では終わらないのかもしれない。


 サヨが自分の役を選び始める時、その周りにいる者たちもまた、与えられた役を選び直すことになる。


 それは、王朝にとって危険な面だ。


 アリノリなら、きっと封じようとする。


 ――定まらぬ役は、封じるべきです。


 あの声が、耳の奥に蘇る。


 けれど、イロハはもう知っている。


 定まらないことは、必ずしも乱れではない。


 まだ選べるということだ。


 ロウセツが、ゆっくりとイロハへ近づいた。


 だが、手は伸ばさない。


 昔のように、勝手に面を与えることはしない。


「イロハ」


「はい」


「お前が作るなら、俺は手を出さねえ」


 イロハは驚いて師匠を見た。


 ロウセツは、苦く笑う。


「口は出すかもしれねえ」


「それは、いつもですね」


「悪かったな」


 ほんの少しだけ、いつもの師匠の声が戻った。


 けれどすぐに、ロウセツは真顔になる。


「だが、決めるのはお前とサヨ様だ」


 イロハは、静かに頷いた。


「はい」


 その時、《ナギノオモテ》の内側にあった細い光が、もう一度だけ揺れた。


 イロハはそれを見た。


 救いだった。


 罪だった。


 その両方を抱えた面が、今、次の面のために何かを告げている。


 イロハは、白布をそっと戻した。


 今度は、隠すためではない。


 見たものを、丁寧に包むためだった。


 面箱の蓋を閉じる。


 かちり、と音がした。


 それは封印ではなかった。


 次に開ける時を、自分で選ぶための音だった。

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