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第九節 ― 《ナギノオモテ》を開ける

 蓋は、すでに開いていた。


 けれど、まだ本当に開けたわけではなかった。


 面箱の中には、白布がかかっている。

 その白布の下に、《ナギノオモテ》が眠っている。


 イロハは、それを知っている。

 何度も手入れをした。

 何度も持ち歩いた。

 何度も、自分のものだと信じて胸に抱いた。


 けれど今、白布の下にあるものは、いつもの面ではなかった。


 自分を救ったもの。

 自分を選ばせなかったもの。

 サヨの面になれたかもしれないもの。

 ロウセツの罪を含んだもの。


 それらすべてが、同じ白布の下で息を潜めていた。


 イロハは、白布の端へ指をかけた。


 ロウセツが低く言う。


「着けるな」


 イロハは、振り返らなかった。


「わかっています」


「今のお前が着けたら、面に引かれる」


「わかっています」


「これは、普通の生面じゃねえ」


 その言葉に、イロハの指が一瞬止まる。


 だが、もう逃げるためではなかった。


「だから、見ます」


 イロハは言った。


「着けるんじゃなくて、見ます」


 サヨが、そっと息を呑んだ。


 アヤメは何も言わず、ただ周囲へ気を配っている。

 白い木々の間から何かが現れても、すぐに動けるように。

 けれど、今ここで一番危ういものは外から来る敵ではない。


 面箱の中にある。


 イロハ自身の始まりが。


 白布が、ゆっくりとめくられる。


 朝の光が、《ナギノオモテ》へ落ちた。


 それは白い面だった。


 けれど、白化面の白ではない。


 ユラの舞面に走った、月に噛まれた冷たい白ではなかった。

 《ヒドメ》のような、燃え尽きた灰の白でもなかった。


 もっと前の白。


 何も決められていない白。

 何にでもなれるかもしれない白。

 そして、何にでもされてしまうかもしれない白。


 イロハは、息を止めた。


 表から見れば、《ナギノオモテ》は静かな面だった。


 凪いだ水面のような額。

 強く笑うわけでも、泣くわけでもない目元。

 幼い子どもにも、大人にも見える頬の線。

 顔を隠すというより、顔が崩れないように、そっと支えるための形。


 かつてのイロハは、この面を優しいと思っていた。


 今も、その印象は消えない。


 だからこそ、苦しかった。


 優しいものが、必ず正しいとは限らない。


 イロハは、面を持ち上げた。


 着けない。


 顔へは近づけない。


 ただ、両手で支え、内側を見る。


 その瞬間、胸の奥がきしんだ。


 内側には、いくつもの痕があった。


 まず目に入ったのは、無面原の木目だった。


 白布に残っていたものと同じ、細く、どこまでも分かれていくような木目。

 まるで、まだどの方向へ伸びるか決められていない道のようだった。


 その木目の奥に、空白がある。


 ただ削られていない余白ではない。

 何かが入るはずだった場所。

 しかし、まだ入っていない場所。


 イロハは、それを見た瞬間、サヨの空の面箱を思い出した。


 黒漆の箱。

 夜になると内側に浮かぶ満月。

 まだ彫られていない面の輪郭。

 置くべき役の線が見つからなかった、あの空白。


 同じだ。


 完全に同じではない。


 けれど、響き合っている。


 《ナギノオモテ》の内側には、サヨの未在面と同じ種類の空白があった。


「……サヨ様」


 イロハは、声を落とした。


「見えますか」


 サヨは面に近づきすぎない距離で、静かに頷いた。


「はい」


 その声は、とても小さかった。


「わたしの面箱に残っていたものと、似ています」


 イロハの手が震える。


 面を落としそうになり、慌てて支え直した。


 次に見えたのは、白い裂け目だった。


 月痕に似ている。


 だが、白化面に走っていた噛み跡とは違う。

 鋭い歯で喰われた痕ではない。

 むしろ、何かが内側から開きかけ、誰かが慌てて塞いだような裂け目だった。


 月が噛んだのではない。


 月へ映らないように、無理に閉じた痕。


 イロハは、指を伸ばしかけて止めた。


 触れたら、何かが戻ってくる気がした。


 幼い泣き声。

 白い木。

 ロウセツの手。

 役人の問い。

 息はできるか、という声。


 まだ触れてはいけない。


 でも、見なければならない。


 裂け目のそばには、黒い傷があった。


 細く、古く、漆の奥に沈んでいる。


 それは《ナギノオモテ》の木目とは違う。

 別の面から移された傷だ。


 イロハは、ロウセツを見た。


「これが、師匠の面片ですか」


 ロウセツは、短く頷いた。


「ああ」


 黒い傷は、どこか師匠の声に似ていた。


 軽口を叩く時の影。

 大事なことを言わずに済ませようとする時の濁り。

 それでも、壊れた面を捨てられない手の温度。


 イロハは、その黒い傷を見つめた。


 嫌だと思った。


 けれど、完全に拒めなかった。


 この傷は、自分の面に入り込んだ師匠の罪だ。

 同時に、幼い自分をこの世へ置こうとした師匠の手でもある。


 黒い傷の反対側に、小さな欠けがあった。


 そこだけ、木の色が古い。


 焦げたように黒ずみ、かすかに朱の名残がある。

 よく見なければわからないほど小さい。

 けれど、そこには古い家紋の一部のような線が残っていた。


 イロハは、息を詰めた。


「これが」


 声が震える。


「私の、失われた生面の破片……」


 ロウセツは答えなかった。


 答えなくても、わかった。


 イロハは、その欠けを見た。


 そこだけが、ほかのどの痕よりも遠かった。


 ロウセツの罪よりも。

 サヨの未在面の空白よりも。

 無面原の木目よりも。


 もっと遠い。


 自分がかつて持っていたかもしれない家。

 自分が覚えていない誰かの手。

 自分をイロハと呼んだ声。

 焼ける前の朝。


 けれど、それはもう完全な形では残っていない。


 欠けている。


 割れている。


 それでも、消えてはいなかった。


 イロハは、喉の奥で小さく息を飲んだ。


 涙が出そうだった。


 泣く理由が、ひとつではなかった。


 自分の生面の欠片が残っていたことが、悲しい。

 それを今まで知らなかったことが、悔しい。

 それが《ナギノオモテ》の中で、自分を支えていたことが、苦しい。


 サヨが、静かに言う。


「そこに、あなたがいたのですね」


 イロハは、返事ができなかった。


 自分がいた。


 確かにいた。


 ロウセツが作った面の中に。

 皇女の未在面の材の中に。

 師匠の面片の中に。


 ほんの小さく、欠けた形で、自分自身の生面が残っていた。


 だから、《ナギノオモテ》は完全な偽物ではなかった。


 けれど、純粋な自分の生面でもなかった。


 イロハは悟った。


 《ナギノオモテ》は、皇女の未在面そのものではない。


 サヨのためだけに作られた面ではない。

 イロハだけの生面でもない。

 ロウセツだけの罪でもない。


 無面原の木。

 未在面の空白。

 月に似た裂け目。

 師匠の面片。

 失われた生面の破片。


 救済と改変が混ざった面。


 それが、自分をここまで立たせてきた。


 イロハは、面を見つめたまま、呟いた。


「ひどい面ですね」


 ロウセツの顔が強張る。


 けれど、イロハは続けた。


「でも、優しい面です」


 その二つを、どちらかにできなかった。


 ひどい。


 誰にも選ばせず、いくつものものを混ぜて、人をこの世に置いた面。


 優しい。


 消えかけた子どもを、どうにか息ができる場所へ繋ぎ止めた面。


 イロハは、泣きそうに笑った。


「ずるいです」


 その言葉は、面に向けたのか、ロウセツに向けたのか、自分でもわからなかった。


 ロウセツは、何も言わなかった。


 白い木々が静かに立っている。


 アヤメは、イロハの手元を見つめたまま、低く言う。


「その面は、着けてはいけません」


「はい」


 イロハは頷いた。


「今は、着けません」


「今は?」


 アヤメが聞き返す。


 イロハは、面を見つめる。


 怖い。


 今でも怖い。


 けれど、さっきまでとは違う怖さだった。


 知らないから怖いのではない。

 少し見えてしまったから怖い。


 この面を着ければ、自分はもっと深く知ることになるのだろう。


 自分が何を失ったのか。

 何を与えられたのか。

 何を選べなかったのか。


 そして、これから何を選ぶのか。


「いつか」


 イロハは言った。


「私が、この面を自分のものとして見られるようになったら」


 言葉を選ぶ。


「その時は、着けます」


 ロウセツが目を閉じた。


 サヨは、静かに頷いた。


「その時は、あなたが選ぶのですね」


「はい」


 イロハは、《ナギノオモテ》を白布の上にそっと戻した。


「師匠が私を置くためじゃなく」


 白い面は、沈黙している。


「役所に認めさせるためじゃなく」


 無面原の白い木々が、聞いている。


「私が、私として立つために」


 その瞬間、《ナギノオモテ》の内側にある白い裂け目が、かすかに光った。


 月痕ではない。


 傷でもない。


 まだ名のない、細い入口のような光だった。


 サヨが息を呑む。


「今のは」


 イロハは、面を見つめる。


 何かが開きかけた。


 けれど、完全には開かなかった。


 それでいいと思った。


 今はまだ、すべてを開ける時ではない。


 ロウセツが、低く呟く。


「面が、待ってる」


 イロハは、白布を戻さなかった。


 面を隠さず、そのまま箱の中に置いた。


 見なかったことにはしない。


 けれど、まだ着けない。


 その間にいることを、自分で選んだ。


 イロハは、静かに息を吸った。


 息はできる。


 今度は、自分でそう答えた。

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