表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
93/108

第八節 ― 木肌の鏡ノ客

 無面原の奥で、白い木が鳴った。


 それは、枝が風に擦れた音ではなかった。

 幹の内側から、薄い面が一枚、ゆっくりと目を覚ますような音だった。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱えたまま、その木を見た。


 水はない。


 鏡もない。


 月も、雲に隠れている。


 それなのに、白い幹の木目が、少しずつ滑らかになっていく。


 木肌の縦筋がほどけ、節の黒いくぼみが薄まり、幹の一部だけが、磨かれた白漆のような光を帯びる。


 そこに、白い半面が映った。


 鏡ノ客。


 エル=ネフリド。


 アヤメが即座に刀へ手をかけた。


「また、あなたですか」


 その声には警戒があった。

 鏡水、《コトサダメ》の裏、濁った水桶、白い客席、灰皿。


 どこにでも映る白い客。


 助けるわけではない。

 止めるわけでもない。

 ただ、そこに映る。


 だからこそ厄介だった。


 ロウセツは、白い半面を見るなり顔をしかめた。


「趣味が悪いな、白面野郎」


 エル=ネフリドは、笑わなかった。


 白い半面には、目穴がない。

 けれど、見ている。


 イロハを。

 ロウセツを。

 サヨを。

 そして、開かれたままの《ナギノオモテ》を。


 サヨは逃げなかった。


 ただ静かに、その白い半面を見つめている。


 彼女はもう、この存在が救済者ではないことを知っていた。

 冥祀社でエンジュが言ったように、これは弔う神ではない。

 舞殿で示されたように、これは舞わせる神でもない。


 映すだけのもの。


 だが、映すだけだからこそ、逃げられないもの。


 白い半面の表に、木目が揺れた。


 そこに、幼いイロハの姿が映る。


 灰面長屋の土間。

 汚れた布。

 割れた生面。

 息の仕方を忘れたように膝を抱える子ども。


 次に、若いロウセツの手が映る。


 未完成の白い面。

 無面原の木。

 皇女の未在面の試作材。

 焦げた生面の破片。

 面師自身の面片。


 それらが混ざり、ひとつの面になっていく。


 《ナギノオモテ》。


 イロハは、喉の奥が詰まるのを感じた。


 エル=ネフリドの声が、木肌の奥から響く。


「あなたは救われたのですか」


 その問いは、ひどく静かだった。


 責めていない。


 慰めてもいない。


 ただ、問いだけが、白い木肌に置かれる。


「それとも、作り変えられたのですか」


 イロハは即答できなかった。


 風が吹く。

 白い木々が、ほとんど音もなく揺れる。


 救われた。


 それは事実だ。


 《ナギノオモテ》がなければ、自分はこの国で顔を持てなかった。

 仮面籍のどこにも置かれず、灰面長屋の水桶に映らないまま、誰にも見られない子になっていたかもしれない。


 ロウセツの手は、自分を救った。


 けれど。


 作り変えられた。


 それも、おそらく事実だった。


 皇女の未在面の試作材。

 師匠の面片。

 自分の失われた生面の破片。

 それらを混ぜられ、自分は「息をする役」を与えられた。


 その役を、自分は選んでいない。


 幼い自分には、選ぶことも、拒むことも、知ることすらできなかった。


 イロハは、白い半面を見返した。


 怒りはある。


 悲しみもある。


 けれど、そのどちらも、問いへの答えにはならなかった。


「どちらかだけなら」


 イロハは、ゆっくりと言った。


 声は震えていた。

 それでも、途切れなかった。


「楽だったんでしょうね」


 ロウセツが、息を呑んだ。


 サヨは、静かにイロハを見ている。


 イロハは続けた。


「救われただけなら、師匠にありがとうって言えました」


 胸の面箱が熱を持つ。


「作り変えられただけなら、怒ればよかった。恨めばよかった。こんな面いらないって言えたかもしれない」


 でも。


 そうではない。


「私は救われたんです」


 イロハは言った。


「でも、選べなかった」


 白い半面は動かない。


「私は作り変えられたのかもしれません」


 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。


「でも、そのおかげで、今ここに立っています」


 無面原の白い木肌に、その言葉が映る。


 幼いイロハ。

 現在のイロハ。

 《ナギノオモテ》。

 サヨの空の面箱。

 ロウセツの若い手。

 焦げた生面の破片。


 それらが、どれかひとつにまとまらないまま、木肌の中で重なっている。


 エル=ネフリドは笑わない。


 慰めない。


 裁かない。


 ただ、イロハの答えを映した。


 白い半面の上に、細い文字のような木目が浮かぶ。


 救い。

 改変。

 未在。

 生面ではない面。

 選ばれなかった役。

 これから選ぶ役。


 サヨが、そっと言った。


「イロハ」


 イロハは、サヨを見る。


「あなたは、今、初めて自分の面を見ているのですね」


 その言葉に、イロハは息を止めた。


 そうかもしれない。


 これまで、自分は《ナギノオモテ》を持っていた。

 守られていた。

 使っていた。

 隠していた。


 けれど、見てはいなかった。


 これは何なのか。

 自分は何を与えられ、何を奪われ、何を選ばずに生きてきたのか。


 今、初めて見ている。


 アヤメは刀から手を離さなかったが、抜きはしなかった。


「白面」


 彼女は低く言う。


「あなたは、これを見せて何をさせたいのです」


 エル=ネフリドは、少しだけアヤメの方へ向いたように見えた。


「何も」


 その声は、木の内側から響いた。


「私は何もさせません」


「では、なぜ現れる」


「映ったからです」


 アヤメの眉が寄る。


「都合のよい答えですね」


「都合が悪いから、見えるのでしょう」


 その言葉に、ロウセツが舌打ちした。


「嫌な客だ」


 白い半面は、ロウセツへ向く。


 木肌に、今度はロウセツの姿が映る。


 若いロウセツ。

 宮廷の御面庫で古い皇女面を調べる姿。

 無面原の木を削る姿。

 泣く幼いイロハを前に、未完成の白い面を握りしめる姿。


 そして、今のロウセツ。


 逃げられなくなった面師。


「あなたは救ったのですか」


 エル=ネフリドは問う。


「それとも、奪ったのですか」


 ロウセツは苦く笑った。


「俺にも同じ質問かよ」


 白い半面は答えない。


 ロウセツは、しばらく黙っていた。


 そして、低く言った。


「どっちもだ」


 イロハは、師匠を見た。


 ロウセツはイロハを見ない。


 白い木肌に映る自分自身を、苦々しく見つめている。


「救った。そう思わなきゃ、あの時の俺は手を動かせなかった」


 彼の声は、いつもの軽さを失っていた。


「だが、奪った。選ぶ機会を。真実を知る時間を。お前が自分の面を自分で見る権利を」


 無面原の白い風が、彼の言葉を運ぶ。


「だから、俺は正しくない」


 イロハの胸が、また痛んだ。


 師匠にそう言わせたかったのか。


 わからない。


 でも、聞かなければならなかった。


 エル=ネフリドは、今度はサヨへ向いた。


 アヤメが半歩前に出る。


「サヨ様に問う必要はありません」


 サヨは、静かにアヤメを制した。


「よいのです」


 白い半面の表に、サヨの姿が映る。


 白影宮の空の面棚。

 黒漆の空の面箱。

 箱の中に浮かぶ満月。

 面のない皇女。

 稽古板の端で踏み出した一歩。

 冥祀社で終わった役を見送った声。


「あなたは奪われたのですか」


 エル=ネフリドは問う。


「それとも、残されたのですか」


 サヨは、長い沈黙のあとに答えた。


「まだ、わかりません」


 その答えは、弱さではなかった。


「わたしの面になれたかもしれないものは、イロハをここに立たせました。そのことで、わたしは面を持たないまま残されました」


 彼女は、《ナギノオモテ》を見る。


「それを奪われたと言うこともできるのでしょう」


 イロハの胸が締めつけられる。


 けれどサヨは、続けた。


「けれど、面がなかったからこそ、わたしはまだ誰かに定められずにいます」


 白い木々が、静かに立っている。


「それを残されたと言うことも、できるのかもしれません」


 エル=ネフリドは、やはり笑わない。


 ただ、サヨの答えを木肌に映す。


 奪われたもの。

 残されたもの。

 面のない痛み。

 面のない余白。


 イロハは、サヨの横顔を見た。


 彼女は強い。


 でも、その強さは傷つかない強さではない。

 傷ついたまま、答えを急がない強さだった。


 白い半面が、再びイロハへ向く。


「彫る者」


 エル=ネフリドの声が、静かに落ちる。


「あなたは、次に何をしますか」


 イロハは、《ナギノオモテ》を見る。


 自分を救った面。


 自分を選ばせなかった面。


 サヨの面になれたかもしれないもの。


 これから自分が、もう一度自分のものにするかもしれない面。


 答えは、まだ出ていない。


 けれど、次に何をするかは、少しだけ見えていた。


「見ます」


 イロハは言った。


「もっと、ちゃんと見ます」


 エル=ネフリドは黙っている。


「この面も。師匠がしたことも。サヨ様の面も。私が何を彫ろうとしているのかも」


 イロハは、面箱の中の《ナギノオモテ》に手を伸ばした。


 触れる直前で、少しだけ指が止まる。


 怖い。


 でも、もう引かない。


「見ないまま救うのは、もう嫌です」


 その言葉が、無面原に落ちた。


 白い木肌の半面が、ほんのわずかに薄くなる。


 エル=ネフリドは、最後に言った。


「では、見なさい」


 木目が揺れる。


「面になる前のものを」


 白い半面は、音もなく消えた。


 そこには、ただ白い木肌だけが残った。


 水もない。

 鏡もない。

 月も雲の向こう。


 けれど、イロハはもう知っていた。


 映すものは、どこにでもある。


 逃げようとする心の中にさえ。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直し、無面原のさらに奥を見た。


 そこには、まだ彫られていない白い木が立っていた。


 面になる前のもの。


 役になる前のもの。


 そして、イロハ自身が次に見なければならないものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ