第八節 ― 木肌の鏡ノ客
無面原の奥で、白い木が鳴った。
それは、枝が風に擦れた音ではなかった。
幹の内側から、薄い面が一枚、ゆっくりと目を覚ますような音だった。
イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱えたまま、その木を見た。
水はない。
鏡もない。
月も、雲に隠れている。
それなのに、白い幹の木目が、少しずつ滑らかになっていく。
木肌の縦筋がほどけ、節の黒いくぼみが薄まり、幹の一部だけが、磨かれた白漆のような光を帯びる。
そこに、白い半面が映った。
鏡ノ客。
エル=ネフリド。
アヤメが即座に刀へ手をかけた。
「また、あなたですか」
その声には警戒があった。
鏡水、《コトサダメ》の裏、濁った水桶、白い客席、灰皿。
どこにでも映る白い客。
助けるわけではない。
止めるわけでもない。
ただ、そこに映る。
だからこそ厄介だった。
ロウセツは、白い半面を見るなり顔をしかめた。
「趣味が悪いな、白面野郎」
エル=ネフリドは、笑わなかった。
白い半面には、目穴がない。
けれど、見ている。
イロハを。
ロウセツを。
サヨを。
そして、開かれたままの《ナギノオモテ》を。
サヨは逃げなかった。
ただ静かに、その白い半面を見つめている。
彼女はもう、この存在が救済者ではないことを知っていた。
冥祀社でエンジュが言ったように、これは弔う神ではない。
舞殿で示されたように、これは舞わせる神でもない。
映すだけのもの。
だが、映すだけだからこそ、逃げられないもの。
白い半面の表に、木目が揺れた。
そこに、幼いイロハの姿が映る。
灰面長屋の土間。
汚れた布。
割れた生面。
息の仕方を忘れたように膝を抱える子ども。
次に、若いロウセツの手が映る。
未完成の白い面。
無面原の木。
皇女の未在面の試作材。
焦げた生面の破片。
面師自身の面片。
それらが混ざり、ひとつの面になっていく。
《ナギノオモテ》。
イロハは、喉の奥が詰まるのを感じた。
エル=ネフリドの声が、木肌の奥から響く。
「あなたは救われたのですか」
その問いは、ひどく静かだった。
責めていない。
慰めてもいない。
ただ、問いだけが、白い木肌に置かれる。
「それとも、作り変えられたのですか」
イロハは即答できなかった。
風が吹く。
白い木々が、ほとんど音もなく揺れる。
救われた。
それは事実だ。
《ナギノオモテ》がなければ、自分はこの国で顔を持てなかった。
仮面籍のどこにも置かれず、灰面長屋の水桶に映らないまま、誰にも見られない子になっていたかもしれない。
ロウセツの手は、自分を救った。
けれど。
作り変えられた。
それも、おそらく事実だった。
皇女の未在面の試作材。
師匠の面片。
自分の失われた生面の破片。
それらを混ぜられ、自分は「息をする役」を与えられた。
その役を、自分は選んでいない。
幼い自分には、選ぶことも、拒むことも、知ることすらできなかった。
イロハは、白い半面を見返した。
怒りはある。
悲しみもある。
けれど、そのどちらも、問いへの答えにはならなかった。
「どちらかだけなら」
イロハは、ゆっくりと言った。
声は震えていた。
それでも、途切れなかった。
「楽だったんでしょうね」
ロウセツが、息を呑んだ。
サヨは、静かにイロハを見ている。
イロハは続けた。
「救われただけなら、師匠にありがとうって言えました」
胸の面箱が熱を持つ。
「作り変えられただけなら、怒ればよかった。恨めばよかった。こんな面いらないって言えたかもしれない」
でも。
そうではない。
「私は救われたんです」
イロハは言った。
「でも、選べなかった」
白い半面は動かない。
「私は作り変えられたのかもしれません」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
「でも、そのおかげで、今ここに立っています」
無面原の白い木肌に、その言葉が映る。
幼いイロハ。
現在のイロハ。
《ナギノオモテ》。
サヨの空の面箱。
ロウセツの若い手。
焦げた生面の破片。
それらが、どれかひとつにまとまらないまま、木肌の中で重なっている。
エル=ネフリドは笑わない。
慰めない。
裁かない。
ただ、イロハの答えを映した。
白い半面の上に、細い文字のような木目が浮かぶ。
救い。
改変。
未在。
生面ではない面。
選ばれなかった役。
これから選ぶ役。
サヨが、そっと言った。
「イロハ」
イロハは、サヨを見る。
「あなたは、今、初めて自分の面を見ているのですね」
その言葉に、イロハは息を止めた。
そうかもしれない。
これまで、自分は《ナギノオモテ》を持っていた。
守られていた。
使っていた。
隠していた。
けれど、見てはいなかった。
これは何なのか。
自分は何を与えられ、何を奪われ、何を選ばずに生きてきたのか。
今、初めて見ている。
アヤメは刀から手を離さなかったが、抜きはしなかった。
「白面」
彼女は低く言う。
「あなたは、これを見せて何をさせたいのです」
エル=ネフリドは、少しだけアヤメの方へ向いたように見えた。
「何も」
その声は、木の内側から響いた。
「私は何もさせません」
「では、なぜ現れる」
「映ったからです」
アヤメの眉が寄る。
「都合のよい答えですね」
「都合が悪いから、見えるのでしょう」
その言葉に、ロウセツが舌打ちした。
「嫌な客だ」
白い半面は、ロウセツへ向く。
木肌に、今度はロウセツの姿が映る。
若いロウセツ。
宮廷の御面庫で古い皇女面を調べる姿。
無面原の木を削る姿。
泣く幼いイロハを前に、未完成の白い面を握りしめる姿。
そして、今のロウセツ。
逃げられなくなった面師。
「あなたは救ったのですか」
エル=ネフリドは問う。
「それとも、奪ったのですか」
ロウセツは苦く笑った。
「俺にも同じ質問かよ」
白い半面は答えない。
ロウセツは、しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「どっちもだ」
イロハは、師匠を見た。
ロウセツはイロハを見ない。
白い木肌に映る自分自身を、苦々しく見つめている。
「救った。そう思わなきゃ、あの時の俺は手を動かせなかった」
彼の声は、いつもの軽さを失っていた。
「だが、奪った。選ぶ機会を。真実を知る時間を。お前が自分の面を自分で見る権利を」
無面原の白い風が、彼の言葉を運ぶ。
「だから、俺は正しくない」
イロハの胸が、また痛んだ。
師匠にそう言わせたかったのか。
わからない。
でも、聞かなければならなかった。
エル=ネフリドは、今度はサヨへ向いた。
アヤメが半歩前に出る。
「サヨ様に問う必要はありません」
サヨは、静かにアヤメを制した。
「よいのです」
白い半面の表に、サヨの姿が映る。
白影宮の空の面棚。
黒漆の空の面箱。
箱の中に浮かぶ満月。
面のない皇女。
稽古板の端で踏み出した一歩。
冥祀社で終わった役を見送った声。
「あなたは奪われたのですか」
エル=ネフリドは問う。
「それとも、残されたのですか」
サヨは、長い沈黙のあとに答えた。
「まだ、わかりません」
その答えは、弱さではなかった。
「わたしの面になれたかもしれないものは、イロハをここに立たせました。そのことで、わたしは面を持たないまま残されました」
彼女は、《ナギノオモテ》を見る。
「それを奪われたと言うこともできるのでしょう」
イロハの胸が締めつけられる。
けれどサヨは、続けた。
「けれど、面がなかったからこそ、わたしはまだ誰かに定められずにいます」
白い木々が、静かに立っている。
「それを残されたと言うことも、できるのかもしれません」
エル=ネフリドは、やはり笑わない。
ただ、サヨの答えを木肌に映す。
奪われたもの。
残されたもの。
面のない痛み。
面のない余白。
イロハは、サヨの横顔を見た。
彼女は強い。
でも、その強さは傷つかない強さではない。
傷ついたまま、答えを急がない強さだった。
白い半面が、再びイロハへ向く。
「彫る者」
エル=ネフリドの声が、静かに落ちる。
「あなたは、次に何をしますか」
イロハは、《ナギノオモテ》を見る。
自分を救った面。
自分を選ばせなかった面。
サヨの面になれたかもしれないもの。
これから自分が、もう一度自分のものにするかもしれない面。
答えは、まだ出ていない。
けれど、次に何をするかは、少しだけ見えていた。
「見ます」
イロハは言った。
「もっと、ちゃんと見ます」
エル=ネフリドは黙っている。
「この面も。師匠がしたことも。サヨ様の面も。私が何を彫ろうとしているのかも」
イロハは、面箱の中の《ナギノオモテ》に手を伸ばした。
触れる直前で、少しだけ指が止まる。
怖い。
でも、もう引かない。
「見ないまま救うのは、もう嫌です」
その言葉が、無面原に落ちた。
白い木肌の半面が、ほんのわずかに薄くなる。
エル=ネフリドは、最後に言った。
「では、見なさい」
木目が揺れる。
「面になる前のものを」
白い半面は、音もなく消えた。
そこには、ただ白い木肌だけが残った。
水もない。
鏡もない。
月も雲の向こう。
けれど、イロハはもう知っていた。
映すものは、どこにでもある。
逃げようとする心の中にさえ。
イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直し、無面原のさらに奥を見た。
そこには、まだ彫られていない白い木が立っていた。
面になる前のもの。
役になる前のもの。
そして、イロハ自身が次に見なければならないものだった。




