第七節 ― サヨの面になれたもの
面箱の蓋は、ひどく軽かった。
それなのに、イロハの指には、まるで石の扉を押し開けるような重さがあった。
かちり、と小さな音がする。
封じ紐がほどける。
蓋の隙間から、白い気配が漏れた。
光ではない。
匂いでもない。
けれど、そこにあるものが、まだ誰かの顔になる前の木でできているのだと、無面原の白い木々が一斉に知らせてくるようだった。
アヤメが息を詰める。
ロウセツは、目を逸らさなかった。
逸らす資格がないとでも言うように。
サヨは、静かにイロハの隣へ歩み寄った。
「触れても、よいですか」
イロハは一瞬、面箱を抱きしめそうになった。
これは自分の面だ。
ずっと、そう思ってきた。
けれど今は、その言葉だけで守ることができない。
イロハは、震える指で面箱を少しだけ傾けた。
「……はい」
蓋が、さらに開く。
中に納められていた《ナギノオモテ》は、朝の光を受けても、ただ白くは見えなかった。
白木の地。
淡く凪いだ額。
目元には、まだ表情になりきらない余白。
頬から顎にかけて、どこか風を受け流すような線がある。
生面のように見える。
けれど、普通の生面ではない。
家の根を示す重さがない。
血筋へ繋がる古さもない。
職面のような定まった役もない。
そこにあるのは、ただ、消えかけた子どもをこの世へ置くために、急いで結ばれた白い呼吸だった。
サヨは面に直接触れなかった。
指先を、面の少し上で止める。
その仕草は、冥祀社で《ヒドメ》を見送った時に似ていた。
生者の手で、死者の役へ踏み込みすぎないように。
今もまた、彼女はイロハの面へ踏み込みすぎない距離を選んでいた。
サヨの指先が、わずかに震える。
「……似ています」
彼女は呟いた。
イロハは息を止める。
「白影宮の、空の面箱に残っていた気配に」
面箱の中で、白い面は沈黙している。
だが、その沈黙はただの静けさではなかった。
木目の奥に、細い月痕のような線がある。
それは白化面にあった噛み跡とは違う。
月に喰われた痕ではない。
むしろ、月を映さないように、誰かが必死で閉じた痕のようだった。
サヨは、目を細める。
「この木目……わたしの面箱の底に、夜だけ浮かぶ輪郭と同じです」
「サヨ様」
イロハの声はかすれていた。
「それは、つまり」
言葉が続かなかった。
自分の面が、サヨの面箱と同じものを持っている。
わかっていたはずなのに。
ロウセツの口から、皇女の未在面の試作材を転用したと聞いたはずなのに。
それでも、サヨが目の前でそれを感じ取ると、逃げ場がなくなる。
サヨは、イロハを責める目をしていなかった。
だから余計に、苦しかった。
「あなたの面は」
サヨは言った。
声は静かだった。
「わたしの面になれたかもしれないもの」
イロハは、呼吸を忘れた。
無面原の白い木々が、遠ざかる。
その言葉は、刃のようだった。
けれど、サヨは刃として差し出したのではなかった。
ただ、そこにある事実を、事実として置いた。
イロハは、面箱を抱く指に力を込める。
「私……」
声が出ない。
奪ったのではない。
サヨはそう言ってくれるだろう。
でも、その前に、自分が思ってしまう。
自分がここに立っていることと、サヨが面を持てなかったことは、まったく無関係ではない。
その事実が、胸の奥で重く沈む。
サヨは、続けた。
「でも」
その一言に、イロハは顔を上げる。
「あなたを、ここに立たせたものでもあるのですね」
イロハの視界が揺れた。
責める言葉ではなかった。
慰める言葉でもなかった。
それは、二つの事実を同じ場所へ置く言葉だった。
サヨの面になれたかもしれないもの。
イロハをこの世に立たせたもの。
どちらか片方にすれば、楽だった。
奪われたのだと言えば、サヨは怒れる。
救いだったのだと言えば、イロハは泣ける。
ロウセツの罪だと言えば、二人は傷ついた自分を少しだけ外へ置ける。
けれど、サヨはそうしなかった。
「奪われたとは思いません」
サヨは言った。
ロウセツが、わずかに顔を歪める。
イロハは何も言えない。
「あなたは、子どもでした。何も選べなかった。わたしも、自分の面を選べなかった。だから、あなたを責めることは違います」
サヨの指先が、《ナギノオモテ》の上の空気をなぞる。
「けれど」
声が少しだけ低くなる。
「何もなかったことにもできません」
その言葉に、無面原の風が止まったように思えた。
イロハは、胸の奥を直接触れられた気がした。
何もなかったことにはできない。
救われたことも。
選べなかったことも。
サヨの面になれたかもしれない材を、自分が抱いて生きてきたことも。
ロウセツが罪と救いを同じ手で彫ったことも。
どれも消えない。
サヨは、静かに面から手を引いた。
「わたしは、自分にないものを、あなたから奪い返したいわけではありません」
イロハは、サヨを見る。
「では」
「見たいのです」
サヨは答えた。
「わたしの役が、誰かの手で保留され、誰かの手で作られかけ、誰かの手で止まり、そして別の誰かを救った。その流れを、なかったことにせず見たいのです」
イロハは、言葉を失った。
サヨの声は、泣いていなかった。
けれど、その強さは、泣くよりも痛かった。
「その上で」
サヨは続ける。
「わたしは、自分の役を選びたい」
アヤメが、静かに目を伏せた。
彼女はきっと、サヨを守りたいのだ。
白影宮の中で。
制度から。
月から。
そして、こんな真実からも。
けれど今、サヨは守られるだけの場所から、一歩外へ出ている。
第7話の稽古板で踏み出した一歩が、今ここで、別の形を取っている。
サヨは、奪い返さない。
誰かを責めることで、自分の面を取り戻そうとしない。
ただ、事実を見届け、その上で選ぼうとしている。
それは、まだこの国にない皇女の姿だった。
イロハは、《ナギノオモテ》を見る。
自分の面。
けれど、普通の生面ではない面。
サヨの未在面になれたかもしれないもの。
自分をこの世に置いたもの。
その白い面の内側には、まだイロハが知らない空白がある気がした。
「サヨ様」
イロハは、ようやく言った。
「私は、この面をどう思えばいいのか、まだわかりません」
「はい」
「師匠を許せるかも、わかりません」
「はい」
「サヨ様に、何て言えばいいのかも」
声が詰まる。
「わかりません」
サヨは頷いた。
「今は、それでよいと思います」
「よいんですか」
「すぐに定める必要はありません」
サヨは、かすかに微笑んだ。
「定められないまま残すことにも、意味があるのだと、あなたが教えてくれました」
イロハは、息を呑む。
白影宮で。
空の面棚を見て、自分は言った。
面を失った棚ではない。
面を待っている棚です。
その言葉が、今、自分へ返ってきた。
イロハは面箱の蓋に手を置く。
閉じることもできた。
このまま見なかったことにすることも、たぶんできる。
でも、もうそれは選ばない。
「この面を」
イロハは言った。
「もう一度、私のものにできるかどうか、考えます」
ロウセツが顔を上げる。
イロハは、師匠を見た。
「師匠がくれたからじゃなく」
胸が痛む。
でも言う。
「師匠が私を置いたからじゃなく」
《ナギノオモテ》の白い額に、朝の光が落ちる。
「私が、これを持って生きると選べるかどうか」
ロウセツは何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
イロハへ。
サヨへ。
そして、たぶん、かつて選ばせなかったすべてのものへ。
その時、白い木々の奥で、かすかな音がした。
面箱ではない。
木が鳴った。
イロハは振り向く。
無面原の奥に立つ白い木のひとつ。
その幹の節が、ほんのわずかに光ったように見えた。
サヨも同じ方を見る。
「呼んでいます」
彼女は言った。
「何を」
アヤメが問う。
サヨは少し考え、静かに答えた。
「まだ彫られていないものを」
イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を閉じなかった。
開いたまま、白い木々の奥を見る。
サヨの面になれたかもしれないもの。
自分をここに立たせたもの。
その二つを抱えたまま、次へ進まなければならない。
イロハは、面箱を胸に抱いた。
今度は、隠すためではなかった。
見届けるためだった。




