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第六節 ― 生面ではない面

 イロハは、胸の面箱から手を離せなかった。


 救われたこと。


 選べなかったこと。


 そのふたつが、同じ面の中に入っている。


 無面原の白い風は、ひどく静かだった。

 誰もイロハを責めない。

 誰もロウセツを庇わない。


 だからこそ、問いは逃げ場を失って、まっすぐ胸の奥から出てきた。


「じゃあ」


 イロハは言った。


「《ナギノオモテ》は、私の生面じゃないんですか」


 ロウセツは、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、イロハの心をさらに冷たくする。


 答えが決まっている問いほど、人はすぐに答えられないのかもしれない。

 答えた瞬間に、長く隠してきたものが形を持ってしまうから。


 ロウセツは、白い切り株のそばに立ったまま、面師の手を握りしめていた。


 その手は、古い傷だらけだった。


 木を削り、漆を塗り、面を直し、役を繋いできた手。

 幼いイロハへ、《ナギノオモテ》を与えた手。

 そして、イロハに選ばせなかった手。


「生面の形はしている」


 ようやく、ロウセツが言った。


「仮面籍にも、生面として通した」


「通した?」


 イロハの声が尖る。


「私の生面として、役所に?」


「ああ」


「でも、本当は違う」


 ロウセツは目を伏せた。


「普通の生面じゃない」


 その一言で、イロハの胸にあった何かが、音もなく崩れた。


 普通の生面ではない。


 薄々、わかっていた。

 はじめての白化面を診た時から。

 白影宮の空の面箱が《ナギノオモテ》に反応した時から。

 サヨが「わたしのものに似ています」と言った時から。


 それでも、どこかで思っていた。


 これは自分の面だと。

 自分をこの国に置いてくれた、自分の生面なのだと。


 けれど今、ロウセツは言った。


 普通の生面ではない、と。


「じゃあ、何なんですか」


 イロハは問い詰める。


「私は、何をつけて生きてきたんですか」


 ロウセツは、ひどく疲れた顔で答えた。


「お前をこの世に置くための面だ」


「それは、どういう意味ですか」


「家の根を写した面じゃない。血筋を写した面でもない。お前がどこから来たかを示す面でもない」


 ロウセツの声が、わずかに掠れる。


「お前が、これから息をできるように作った面だ」


 イロハは、面箱を抱く腕に力を込めた。


「それって」


 声が震えた。


「それって、生面じゃないじゃないですか」


 ロウセツは否定しなかった。


 否定してくれなかった。


「生面は、家の面です」


 イロハは言った。


「家の根を示す面です。自分がどこに生まれて、どこに置かれるのかを示す面です。私、そう教わりました。師匠に」


「ああ」


「なのに、これは違うんですか」


「ああ」


「じゃあ、どうして言わなかったんですか!」


 声が、無面原に響いた。


 白い木々は揺れない。


 誰の顔でもない節が、ただ静かにこちらを向いている。


「どうして、ずっと黙ってたんですか。私はずっと、これが私の生面だと思ってた。師匠が私にくれた、私の面だって。私がこの国で、イロハ=ナギとして生きていい証だって」


 イロハは、面箱を胸に押しつけた。


「違ったんですか」


「違わねえ」


 ロウセツが言った。


 イロハは顔を上げる。


 ロウセツの目は、逃げていなかった。


「お前がイロハ=ナギとして生きていい証だった。それは違わねえ」


「でも、生面じゃなかった」


「普通の生面じゃなかった」


「同じことです!」


「同じじゃねえ!」


 ロウセツの声が、初めて荒くなった。


 けれど、その荒さは怒りではなかった。


 痛みだった。


「同じじゃねえんだ、イロハ。あれがなかったら、お前は仮面籍のどこにも置けなかった。灰札どころじゃねえ。面を持たねえ子として、誰の目にも映らなくなってたかもしれねえ」


「だからって」


「わかってる」


 ロウセツは、遮るように言った。


 そして、すぐに声を落とした。


「わかってる。だから、俺は正しくねえ」


 イロハは息を呑んだ。


 ロウセツは、白い切り株の前に立ったまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「俺は悪人のつもりじゃなかった。お前を利用しようとしたわけでもない。サヨ様の面を奪って、お前に与えてやろうなんて思ったわけでもない」


 サヨは黙って聞いている。


「ただ、あの時は、お前を生かしたかった」


 ロウセツの声は、ひどく静かだった。


「今、息ができていない子に、まず息をさせたかった」


 イロハの胸が痛む。


 その言葉は、嘘ではない。


 だから、苦しい。


「だったら」


 イロハは言った。


「だったら、あとで言ってくれればよかったじゃないですか」


 ロウセツは黙る。


「私が大きくなってからでもよかった。面師になってからでもよかった。白化面に関わる前でもよかった。サヨ様の面に関わる前でもよかった。どうして、私が自分で気づくまで黙ってたんですか」


 ロウセツの表情が歪む。


「言えば」


 その声は、小さかった。


「お前は、自分が救われたことまで疑うと思った」


 イロハは、何も言えなかった。


 ロウセツは続ける。


「お前は優しい。自分が生きるために誰かのものを使ったと知れば、まず自分を責める。サヨ様の面材だったと知れば、自分が奪ったと思う。俺の面片が入っていると知れば、自分の役が自分のものじゃないと思う。失われた生面の破片まで混ざっていると知れば、自分が何者なのか、余計にわからなくなる」


 その言葉は、あまりにもイロハを知っていた。


 だから、腹が立った。


「そうやって、また決めたんですね」


 イロハは震える声で言った。


「私がどう思うかを、師匠が先に決めたんですね」


 ロウセツは目を閉じた。


 その瞬間、アヤメが一歩前に出た。


「ロウセツ=カガミ」


 声が低い。


 護衛としての声ではなかった。


 白影宮の者としてでもない。


 イロハの怒りを、横から受け止めた者の声だった。


「それは、イロハ殿のためと言いながら、イロハ殿に選ばせなかったということです」


 ロウセツは、アヤメを見た。


 アヤメは退かない。


「あなたは、イロハ殿を救ったのかもしれない。ですが、その後も真実を隠し続けた。救ったあとの生き方まで、あなたが決め続けた」


「……そうだな」


「否定しないのですか」


「できねえよ」


 ロウセツは、苦く笑った。


「できるわけがねえ」


 アヤメの目がさらに鋭くなる。


「あなたは、サヨ様には『本人が選んでいなかったから彫れなかった』と言った。ならば、なぜイロハ殿には選ばせなかった」


「さっきも言った。時間がなかった」


「最初は、そうでしょう」


 アヤメは言った。


「ですが、今までの年月すべてに、時間がなかったわけではありません」


 ロウセツは言葉を失った。


 無面原の風が、白い木々の間を抜ける。


 アヤメの言葉は正しかった。


 幼いイロハに選ばせることはできなかったかもしれない。

 火の後で、家も面も失った子どもに、無面原の木の危険を説明することなどできなかったかもしれない。


 けれど、その後は。


 何年もあった。


 イロハが面を覚えた日。

 初めて修理した面が持ち主に戻った日。

 中級面師の資格を得た日。

 自分の面について尋ねた日。


 言える時は、いくつもあったはずだった。


 ロウセツは、その全部を黙って通り過ぎた。


 イロハは、師匠を見た。


 悪人ではない。


 それはわかる。


 ロウセツは、自分を救ってくれた。

 自分を育ててくれた。

 面の扱いを教えてくれた。

 欠けた役を、壊れた面を、捨てられた古面を、雑に扱わない人だった。


 でも、正しくもなかった。


 イロハを守ろうとして、真実を隠した。

 真実を隠すことで、イロハが自分の役を選ぶ機会を奪った。


 それもまた、役を勝手に決める行為だった。


「師匠」


 イロハは言った。


 怒りはまだ消えていない。


 悲しみも、消えていない。


 でも、その奥に、別のものが少しずつ生まれていた。


 自分で決めたい、という意志。


「私は、救われたことをなかったことにはしません」


 ロウセツが顔を上げる。


「《ナギノオモテ》がなかったら、私はここにいなかったかもしれない。面師にもなれなかったかもしれない。ユラさんの面も、ハルマサさんの面も、サヨ様の空の面箱も、何も見られなかったかもしれない」


 イロハは、面箱を抱く手をゆっくり緩めた。


「でも、知らされなかったことを、なかったことにもしません」


 ロウセツは何も言わない。


「これは、私の生面じゃない」


 声に出すと、胸が裂けるようだった。


 でも、言わなければならなかった。


「でも、私をこの世に置いた面ではある」


 サヨが、静かに頷いた。


 イロハは続ける。


「だから、私はこの面を、もう一度見ます」


 ロウセツの目が揺れた。


「イロハ」


「師匠が決めた役としてじゃなく」


 イロハは、胸の面箱を見下ろした。


「私が、これから選ぶために」


 その言葉のあと、無面原のどこかで、小さな音がした。


 木が軋んだのか。

 面箱の中で、何かが鳴ったのか。


 わからなかった。


 けれど、サヨが顔を上げる。


「今、何かが応えました」


 アヤメも周囲を見る。


 ロウセツは、白い切り株のそばで動かない。


 イロハの面箱は、もう隠しきれないほど熱を持っていた。


「開けるのか」


 ロウセツが問う。


 その声には、恐れがあった。


 師匠の恐れ。


 自分が作ったものを、弟子が自分の意志で見ようとしていることへの恐れ。


 イロハは、面箱に手をかけた。


「はい」


 指先が震える。


 怖い。


 怖くないわけがない。


 この蓋を開ければ、自分が何でできているのかを、さらに見ることになる。

 救いか、罪か。

 生面か、未在面か。

 自分の役か、誰かに置かれた役か。


 それでも。


 イロハは、サヨを見た。


 サヨは静かにこちらを見ている。


 その目は、答えを押しつけない。


 ただ、見届ける目だった。


 アヤメは、刀に手を置いたまま頷く。


 守る、という無言の合図。


 ロウセツは、もう止めなかった。


 イロハは深く息を吸う。


 かつてロウセツが問うた。


 息はできるか。


 今なら、答えられる。


 できる。


 ただし、その息をどう使うかは、自分で選ぶ。


 イロハは、面箱の蓋へ指をかけた。

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