第五節 ― 転用された救い
ロウセツは、しばらく何も言わなかった。
無面原の白い風が、彼の外套の裾を揺らしている。
足元には、面になれなかった木片が散っていた。
そのひとつひとつが、まだ語られていない罪の欠片のように見えた。
「戦があった」
やがて、ロウセツは言った。
その声は、白い木々の間へ落ちていくように低かった。
「帝都の外れが焼けた。大きな戦じゃねえ。歴史書に太く残るような戦でもねえ。ただ、そこに住んでいた連中には、世界が終わるのに十分な火だった」
イロハは、胸の面箱を抱えたまま、動けなかった。
焼けた家。
血のついた布。
誰も迎えに来ない道。
その断片が、胸の奥でばらばらに揺れる。
「灰面長屋へ運ばれてきた子どもがいた」
ロウセツは続けた。
「名は、辛うじて覚えていた。イロハ。たぶん、それだけは誰かが何度も呼んだんだろうな。けれど家は焼けた。家の生面は割れた。仮面籍に置く場所もなかった」
イロハは、自分の指が冷たくなっていくのを感じた。
それは、自分の話だ。
知っていたはずなのに。
戦災孤児だったことも。
生面を失っていたことも。
ロウセツに拾われたことも。
けれど、それは今まで、遠い昔話のようだった。
ロウセツが話すたびに、その遠い話が、今の自分の足元へ戻ってくる。
「役人が来た」
ロウセツの口元が、苦く歪んだ。
「役人は悪人じゃなかった。あいつらも決まりに従っていただけだ。けどな、決まりは時々、人を殺すより静かに、人をどこにも置かなくする」
アヤメが、わずかに目を伏せた。
仮面籍庁の白札。
黒札。
灰札。
彼女も、その意味を知っている。
ロウセツは、淡々と続けた。
「役人は聞いた」
風が止まった気がした。
「この子は、どの家の面を持つ」
イロハの耳に、別の声が重なった。
古い声。
紙をめくる音。
筆先が止まる音。
誰かが困ったように息を吐く音。
「誰の子として登録する」
白い原の景色が、少し遠のく。
イロハの目の前に、灰面長屋の土間が見えた。
汚れた布にくるまれた幼い自分。
膝を抱え、顔を上げられずにいる子ども。
「何の役で置く」
その問いに、誰も答えなかった。
誰も。
イロハは唇を開いた。
けれど声は出なかった。
胸の面箱が熱い。
熱いのに、身体の芯は冷えていく。
「その時、俺は思っちまった」
ロウセツは言った。
「皇女の面は、まだ作れない」
サヨが静かに顔を上げる。
ロウセツはサヨを見ない。
見れば、言葉が続かなくなると知っているようだった。
「だが、この子は今、息ができていない」
イロハの胸が詰まった。
幼い自分が、そこで息をしていなかったわけではない。
生きていた。
泣いていた。
震えていた。
でも、この国では、面がなければ顔がない。
家の生面がなければ、どの家の子か定まらない。
職面を持つ年齢でもない。
祈面を持つ立場でもない。
仮置きする家もない。
名だけでは、足りなかった。
イロハという名だけでは、この国で息をする場所がなかった。
「師匠」
イロハの声は、かすれていた。
「それで、何をしたんですか」
ロウセツは、白い切り株を見た。
皇女の未在面になるはずだった材の跡。
「転用した」
短い言葉だった。
アヤメが息を呑む。
サヨは、表情を変えなかった。
けれど、袖の中で握られた指が、わずかに白くなっていた。
「皇女の未在面の試作材を、使った」
ロウセツは、まっすぐに言った。
「サヨ様の面になるかもしれなかった材だ。まだ役は定まっていなかった。顔も決まっていなかった。だが、既存の型に縛られないだけの空白があった」
イロハは一歩、後ろへ下がった。
足元の木片が、かすかに鳴る。
「それを、私に」
「ああ」
「私の、生面に」
「普通の生面じゃない」
ロウセツの声は低い。
「だが、お前をこの世に置くための面にはできると思った」
イロハは、胸の面箱を見る。
《ナギノオモテ》。
自分の面。
ずっと、自分の生面だと思っていたもの。
役のない子どもだった自分に、師匠が与えてくれた救い。
でもそれは。
サヨの面になるかもしれなかった材だった。
サヨは、ゆっくりとイロハを見た。
イロハは、その目を見返せなかった。
「……私」
声が震える。
「私が、サヨ様の面を」
「違います」
サヨが言った。
静かな声だった。
「奪ったのではありません」
イロハは顔を上げる。
サヨは、痛みをこらえているような顔をしていた。
けれど、その声に嘘はなかった。
「あなたは子どもでした」
その言葉に、イロハの胸がひどく痛んだ。
子どもだった。
何も選べなかった。
それは、確かにそうだ。
でも、だからといって、何も起きなかったことにはならない。
ロウセツは、サヨに深く頭を下げた。
「申し開きはしません」
アヤメが鋭く言う。
「申し開きで済む話ではありません」
「ああ」
ロウセツは頷いた。
「済まねえ」
イロハは、ロウセツを見る。
「それだけじゃ、ないんですよね」
ロウセツの顔が、わずかに強張る。
イロハにはわかった。
まだある。
まだ、語っていないことがある。
白布の木目。
《ナギノオモテ》の熱。
エンジュが言った無面原の木。
そして、ロウセツが工房で持っていた小さな箱。
「試作材だけじゃない」
イロハは言った。
「私の面には、ほかにも何か入ってるんですね」
ロウセツは、懐へ手を入れた。
面師小路の裏工房から持ってきた、小さな箱を取り出す。
古い箱だった。
黒漆はところどころ剥げ、角は削れている。
けれど、蓋には古い封じ紐がかけられていた。
ロウセツは、その紐を解く。
中には、小さな欠片がいくつか入っていた。
黒ずんだ面片。
朱の薄く残った木片。
焦げた白い破片。
それらは、どれも小さかった。
けれど、イロハには、それがただの破片ではないとわかった。
「ひとつは、俺の面片だ」
ロウセツは言った。
アヤメが眉をひそめる。
「自分の面を?」
「そうだ」
「なぜ」
「無面原の木だけじゃ、幼い子をこの世に留めるには不安定すぎた。役がなさすぎる。空白が大きすぎる。だから、面師の手癖を入れた。俺が、この子をここへ置くと決めた証として」
イロハは、言葉を失った。
ロウセツの面片。
それはつまり、師匠の役の欠片を、自分の面に混ぜたということだ。
自分は、師匠の手で救われただけではない。
師匠の役の一部を、面の内側に抱えて生きてきた。
「もうひとつは」
ロウセツの声が、さらに低くなる。
「お前の失われた生面の破片だ」
イロハの視界が揺れた。
白い木々の原が、遠くなる。
「残って、いたんですか」
「ほんの少しだけな」
ロウセツは、焦げた白い破片を見つめた。
「焼け跡から拾った。家の面だったか、お前個人の生面だったか、もう判別もできなかった。だが、お前に繋がるものだった」
「それを」
「混ぜた」
ロウセツは、目を逸らさなかった。
「無面原の木。皇女の未在面の試作材。俺の面片。お前の失われた生面の破片。それらを合わせて、《ナギノオモテ》を作った」
イロハは、動けなかった。
風が吹く。
白い木々が、ほとんど音もなく揺れる。
面箱が熱い。
今まで、その熱に守られてきたのかもしれない。
寒い日も。
不安な夜も。
自分がどの家の子でもないことを思い出しそうになった時も。
《ナギノオモテ》は、そこにあった。
自分はこの面によって、顔を持てた。
面師小路で生きられた。
中級面師になれた。
ユラの舞を、カンナの香を、ハルマサの抜刀を、セイランの読む役を、サヨの未在を見られるようになった。
救われた。
たしかに救われた。
その事実は、消えない。
けれど。
イロハは、胸の面箱を見た。
これは、自分が選んだ役ではなかった。
幼い自分は、何も知らなかった。
無面原の木を使うことも。
皇女の未在面の材を転用することも。
ロウセツの面片を混ぜることも。
失われた生面の破片を組み込むことも。
何も知らずに、この面を自分のものとして抱いてきた。
「役がないなら」
ロウセツは、かすれた声で言った。
「あの時は、そう思った」
イロハは顔を上げる。
ロウセツの顔は、ひどく疲れて見えた。
「まず、息をする役から作るしかなかった」
その言葉は、昔の救いの言葉だった。
幼いイロハにとっては、たぶん光だった。
でも今のイロハには、刃にも聞こえた。
息をする役。
それは、誰が作ったのか。
ロウセツだ。
自分ではない。
イロハは、口を開く。
何か言わなければならない。
怒りたいのか。
泣きたいのか。
感謝したいのか。
責めたいのか。
わからない。
何も、ひとつにはならない。
「師匠は」
ようやく声が出た。
「私を救いました」
ロウセツは黙っている。
「それは、わかっています」
声が震える。
「私、あのままだったら、どこにも置かれなかった。きっと、誰にも見られない子になってた。灰面長屋で、水にも映らないまま、消えていたかもしれない」
サヨが、静かにイロハを見る。
アヤメも、何も言わない。
イロハは、面箱を抱きしめる。
「でも」
喉が痛い。
「でも、それは、私が選んだ役じゃなかった」
ロウセツの目が伏せられた。
その沈黙が、肯定だった。
「どうして」
イロハは問いかけた。
「どうして、私に言わなかったんですか」
ロウセツは、すぐには答えない。
「言えば」
やがて、彼は言った。
「お前は、自分が生きていることまで疑うと思った」
「もう疑っています」
「だろうな」
「師匠」
イロハの声が少し強くなった。
「私は、疑いたかったんじゃありません」
ロウセツが顔を上げる。
「選びたかったんです」
白い原が、静まり返る。
「知らなかったら、選べないじゃないですか」
その言葉に、ロウセツの顔が痛みに歪んだ。
イロハは、初めてそれを見た気がした。
いつも軽口で隠していた顔。
だらしなさで隠していた後悔。
師匠としての優しさの奥にあった、勝手に救った者の罪。
「……そうだな」
ロウセツは言った。
「俺は、お前に選ばせなかった」
その声は、ひどく小さかった。
サヨが、一歩前に出る。
「ロウセツ殿」
彼は、サヨを見る。
「あなたは、わたしの面を彫れませんでした」
「ああ」
「それは、わたしがまだ選んでいなかったからだと、あなたは言いました」
「言った」
「では、なぜイロハには選ばせなかったのですか」
静かな問いだった。
怒鳴られるよりも、重かった。
ロウセツは答えられない。
サヨの声は責めていない。
けれど、逃げ道も与えなかった。
「……時間がなかった」
ロウセツは絞り出すように言った。
「あの子は、今、息ができていなかった。選ばせるには、まず生きていなきゃならなかった」
「はい」
サヨは頷く。
「それも、わかります」
イロハはサヨを見る。
サヨは、イロハを見ていた。
「救いだったことは、消えません」
その言葉に、イロハの胸が震える。
「でも、選ばせなかったことも、消えません」
ロウセツは目を閉じた。
イロハは、涙が出そうになった。
サヨは、どうしてこんなに正しく痛いことを言えるのだろう。
救いと罪を、どちらか片方にしない。
そのどちらも、同じ場所に置いて見る。
それは、面のない皇女だからできることなのかもしれなかった。
自分も、そう見なければならない。
《ナギノオモテ》を。
師匠を。
そして、自分自身を。
イロハは、胸の面箱に手を置いた。
熱はまだある。
けれど、少しだけ違う。
それはもう、隠された真実が暴れ出す熱ではなく、長いあいだ閉じられていたものが、開かれるのを待つ熱のようだった。
ロウセツは、箱の中の破片を見つめたまま、低く言った。
「お前がこの面を恨むなら、それでいい」
イロハはすぐには答えなかった。
恨む。
そうできたら、楽かもしれない。
けれど、自分はこの面で生きてきた。
この面で救われた。
この面で、誰かの欠けた役を見られるようになった。
恨むだけでは、足りない。
感謝するだけでも、足りない。
イロハは、白い原の中で立ち尽くした。
救われた。
たしかに救われた。
けれど、それは自分が選んだ役ではなかった。
その二つが、同じ胸の中でぶつかり合っている。
答えはまだ出ない。
でも、もう目を逸らすことはできなかった。




