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第四節 ― 皇女の未在面

 無面原の奥には、ひときわ白い木が一本立っていた。


 ほかの木々より大きいわけではない。

 枝ぶりが見事なわけでもない。

 けれど、その木の周囲だけ、草の色が薄かった。


 まるで、そこだけ役がまだ降りてこないまま、世界が息を止めているようだった。


 ロウセツは、その木の前で足を止めた。


「ここだ」


 イロハは胸の面箱を抱えたまま、その木を見上げる。


 幹には、顔のような節があった。


 けれど、ほかの木よりも整っている。

 目の位置、頬の線、額から顎へ落ちる流れ。まだ彫られていないのに、すでに面の輪郭を内側に隠しているように見えた。


 サヨは、その木の前で何も言わなかった。


 ただ、立っていた。


 アヤメは彼女の半歩後ろに控え、ロウセツからも、木からも目を離さない。


 風が吹く。


 白い木の枝先が、わずかに揺れた。


 鈴の音はしない。

 水の音もしない。

 それなのに、イロハには、どこか遠い面箱の蓋が開く音が聞こえた気がした。


 ロウセツは、木の幹へ触れなかった。


 手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れない。

 それは、恐れているようにも、礼を尽くしているようにも見えた。


「かつて、宮廷から依頼があった」


 ロウセツが口を開いた。


 その声は、いつもの師匠の声ではなかった。


 面師小路の裏工房で、古面を相手にぼやく声ではない。

 資格を剥奪されたモグリ面師の軽い声でもない。


 かつて宮廷の奥で、誰かの役を彫ることを許されていた者の声だった。


「皇女の面を作れ、と」


 サヨの指が、袖の中でわずかに動いた。


 けれど、彼女は黙っている。


「ただし、既存の皇女面ではない」


 ロウセツは続けた。


「古い皇女面を写せば済む話なら、俺のところには来ねえ。宮廷には、もっと正しい面師がいる。もっと品よく、もっと間違えず、もっと余計なことをしねえ連中がな」


 自嘲のように笑いかけたが、その笑みは形にならなかった。


「だが、その皇女には役がなかった」


 アヤメの眉が動いた。


「サヨ様には、皇女としての血筋があります」


「血筋はある」


 ロウセツは頷いた。


「だが、王朝儀礼上の役がなかった。台帳にない。面棚にない。御面庫に型がない。祝詞にも、座順にも、舞にも、方位にも、ぴたりと入る場所がない」


 サヨは静かに聞いていた。


 怒りはない。


 少なくとも、表には出さなかった。


 けれどその沈黙は、傷ついていない者の沈黙ではない。


 あまりにも長く、同じ事実を別の言葉で告げられ続けてきた人の沈黙だった。


 役がない。

 面がない。

 方位がない。

 台帳にない。

 判定不能。

 保留が妥当。


 いくつもの制度の言葉が、彼女の周りに薄い檻を作ってきた。


 今、ロウセツの口から語られているのは、その檻の始まりだった。


「俺は、まず御面庫を調べた」


 ロウセツは白い木を見上げたまま言う。


「古い皇女面。斎姫面。月見役面。御簾内儀礼面。帝の妹君が用いた面、皇女が幼年の祭礼でつける面、婚儀前に一度だけ使われる面、神前で声を出さずに立つための面」


 イロハは、それらの名を頭の中で思い浮かべようとした。


 どれも格式の高い面だ。

 町面師が簡単に触れられるものではない。


 ロウセツは、そんな面を見ていた。


 かつて、宮廷の奥で。


「だが、どれも違った」


「なぜですか」


 イロハは聞いた。


「皇女の面なら、皇女様に合うんじゃないんですか」


「合わなかった」


 ロウセツは短く答える。


「どれも、すでにある皇女のための面だったからだ」


 サヨが、ゆっくり顔を上げる。


 ロウセツは、初めてサヨをまっすぐ見た。


「サヨ=ミカゲ様。あなたは、既存の皇女として立つために生まれた方ではなかった」


 アヤメが一歩前に出かける。


「言葉を慎んでください」


「慎んでこれだ」


 ロウセツの声は低かった。


「これは侮辱じゃねえ。事実だ」


 サヨが小さく首を振る。


「よいのです、アヤメ」


「ですが」


「聞かなければなりません」


 アヤメは唇を引き結び、半歩だけ下がった。


 サヨはロウセツを見る。


「わたしは、この国に存在しない役だったのですね」


 ロウセツはすぐには答えなかった。


 白い木の節が、朝の光の中で静かに陰を落としている。


「存在しない、とは言いたくなかった」


 やがて、彼は言った。


「まだ、なかった」


 その言葉に、サヨの表情がほんのわずかに揺れた。


 存在しない。


 まだ、ない。


 似ているようで、違う言葉。


 前者は閉じる。

 後者は、待つ。


 イロハは胸の奥が痛んだ。


 かつて白影宮で、自分は言った。


 面を失った棚ではない。

 面を待っている棚だ、と。


 今、その言葉の重みが、別の角度から戻ってくる。


 サヨの面は、紛失したのではなかった。

 最初から、なかった。

 けれど、それは存在できないという意味ではなかった。


 まだ作られていなかった。


 まだ、誰も彫れなかった。


 ロウセツは、白い木に背を向け、少し離れた場所にある切り株を示した。


 その切り株は古かった。


 表面は乾き、ところどころに細い亀裂が入っている。

 けれど中心の木目は、白布に浮かんだものとよく似ていた。


 イロハの胸の面箱が、強く熱を持つ。


「そこから、材を取った」


 ロウセツは言った。


「皇女の未在面のために」


 サヨは切り株を見つめた。


「わたしの面になるはずだった木」


「そうだ」


 ロウセツは認めた。


「いや、正確には、あなたの面になるかもしれなかった木だ。まだ形はなかった。顔もなかった。役名もなかった。ただ、既存の型では駄目だとわかっていた」


 彼は苦く笑った。


「だから、俺は馬鹿なことを考えた」


「馬鹿なこと?」


 イロハが問う。


「既存の役を写すんじゃなく、まだ存在しない役を作ろうとした」


 その言葉に、空気がわずかに震えた気がした。


 無面原の木々が、聞いている。


 まだ役になっていない木々が、ロウセツの罪の名を聞いている。


「普通の面師は、役を写す」


 ロウセツは言う。


「家の根を写す。職の形を写す。神前に立つ姿を写す。戦う時の覚悟を写す。死者を送る道を写す。何かがすでにあって、それを面に移す」


 彼は、白い木々を見渡した。


「だが、未在面は違う。写すものがない。なら、呼び出すしかない。まだない役を、木の中から起こすしかない」


 イロハは、自分の喉が渇いていくのを感じた。


 まだない役を呼び出す。


 それは、ウズメの舞殿で見たものに似ている。


 サヨが稽古板の端で踏み出した一歩。

 ユラが白札の外側で鳴らした、かすれた鈴。

 まだ役名にはならない動き。

 舞われることで、初めて世界に残るもの。


 けれど、ロウセツが語っているのは、舞ではない。


 面だ。


 誰かの顔へ、役を彫る行為。


 それは、もっと危うい。


「師匠は」


 イロハは言った。


「サヨ様に、役を作ろうとしたんですか」


「作るつもりだった」


 ロウセツは答える。


「だが、作れなかった」


 サヨが、静かに問う。


「なぜですか」


 ロウセツの目が、少しだけ暗くなる。


「あなたが、まだその役を選んでいなかったからです」


 敬語だった。


 ロウセツがサヨへ、初めてはっきりと敬意をこめた声で言った。


「俺には、見えなかった。王朝が望む皇女の役は見えた。白影宮が守りたい皇女の役も、仮面籍庁が定めたがる皇女の役も、天帝宮が都合よく置きたい皇女の役も、いくらでも見えた」


 彼は、唇を歪めた。


「だが、あなた自身が何者として立つのか。それが見えなかった」


 サヨは何も言わない。


「だから、彫れば押しつけになる。だが、彫らなければ、あなたは面を持てない」


 ロウセツは自嘲するように息を吐いた。


「そこで止まった」


 イロハは、白い木を見た。


 止まった面。


 作れなかった面。


 その未完成の材が、やがて自分の面に関わる。


 まだ語られていない次の部分が、もう近くまで来ている。


 けれど、今はサヨが先だった。


 サヨは、長い沈黙のあとに言った。


「わたしは、ずっと面がないのだと思っていました」


 風が、白い木々の間を抜ける。


「誰かが失くしたのだと思ったこともあります。誰かが隠したのだと思ったこともあります。わたしに面を与えないことで、白影宮に閉じ込めているのだと思ったこともあります」


 彼女は、切り株を見つめる。


「けれど、ここに来て、少しわかりました」


 イロハはサヨを見る。


 サヨの横顔は、悲しげではあった。


 けれど、折れてはいなかった。


「わたしの面は、誰かが失くしたものではなかったのですね」


「はい」


 イロハが思わず答えていた。


 サヨは、かすかに頷く。


「まだ、誰も彫れなかった」


 その声には、痛みがあった。


 でも、ほんの少しだけ、救いもあった。


 失われたのではない。

 盗まれたのでもない。

 存在しないと決められたのでもない。


 まだ、誰も彫れなかった。


 なら、これから彫られる可能性がある。


 ただし、誰かが勝手に彫ってよいわけではない。


 イロハは、それを強く感じた。


 ロウセツも、同じことを思ったのかもしれない。


 彼は低く言った。


「だから、お前には言ったはずだ」


「何をですか」


 イロハが問う。


「皇女の面は、直す面じゃねえ。作る面だ」


 イロハは、白影宮での夜を思い出す。


 空の面箱。

 箱の中の満月。

 まだ彫られていない輪郭。

 そして、自分の《ナギノオモテ》に似た気配。


 あの時、自分は気づいた。


 サヨの面は、なくなった面ではない。

 まだこの国に作られていない面だ、と。


 けれど今、もう一つ知った。


 作るということは、ただ彫ることではない。


 本人がまだ選んでいない役を、こちらが先に置いてしまう危険と隣り合わせなのだ。


 サヨは、ロウセツへ静かに尋ねる。


「あなたは、わたしの役を作ろうとして、止まったのですね」


「ああ」


「そのことを、わたしは怒るべきなのでしょうか」


 ロウセツは答えに詰まった。


 アヤメが小さく息を呑む。


 サヨは続ける。


「面がなかったことで、わたしは多くの場所に立てませんでした。公式の祭礼にも出られず、役名も保留されました。わたしの役を覚えている人は、ほとんどいません」


 その声は穏やかだった。


 だからこそ、重かった。


「けれど、もしあなたがあの時、わたしの知らない役を彫っていたなら」


 サヨは、白い木を見上げた。


「わたしは今、自分の一歩を探すこともできなかったのかもしれません」


 イロハは息を止めた。


 ウズメの舞殿。


 サヨが踏み出した、舞でも神楽でもない、ただ前へ出る一歩。


 あれは、まだ面がなかったからこそ、誰にも定められずに残っていた一歩だったのかもしれない。


 面がないことは、痛みだった。


 でも、同時に、まだ選べる余白でもあった。


 サヨは怒らなかった。


 許したわけでもない。


 ただ、受け止めた。


 自分が「この国に存在しない役」として扱われていたことを。

 そして、それが「まだない役」として残されていた可能性を。


 ロウセツは、何も言えずに立っていた。


 イロハは、その横顔を見つめる。


 彼はサヨの面を彫れなかった。


 彫らなかった。


 それは、罪だったのか。

 救いだったのか。

 臆病だったのか。

 誠実だったのか。


 答えは、まだ出ない。


 だが、本当の痛みは、ここから先にあるのだと、イロハはわかっていた。


 ロウセツは、ゆっくりと切り株の前に膝をついた。


 その手が、乾いた白い木目をなぞる。


「この材は、ここで終わるはずだった」


 彼は言った。


「皇女の未在面としては、彫れなかった。だから、封じておくはずだった」


 イロハの胸の面箱が、強く熱を帯びた。


 サヨが、その熱に気づく。


 アヤメも。


 ロウセツは、目を閉じる。


「だが、終わらなかった」


 イロハは、無意識に一歩下がった。


「どういう、意味ですか」


 ロウセツは立ち上がる。


 その目には、もう逃げる色はなかった。


 あるのは、後悔だけだった。


「次は、お前の話だ」


 白い木々の間を、風が抜けた。


 面になる前のものたちが、静かにその言葉を聞いていた。

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