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第三節 ― 無面原

 無面原は、森ではなかった。


 木々は寄り添っていない。

 互いを隠さず、守らず、白い間隔を空けて立っている。


 朝の光が、幹の表面を薄く照らしていた。

 けれど、その白さは明るいものではない。磨かれた白木の清らかさでも、白影宮の回廊のような品のある白でもない。


 何も塗られていない白。


 まだ名を与えられていない白。


 役を待つ前の、木そのものの白だった。


 枝は少なく、葉もまばらだった。

 風が吹いても、葉擦れの音はほとんどしない。代わりに、幹の奥で乾いた小さな音が鳴る。まるで、彫られるのを待つ木が、内側からわずかに身じろぎしているようだった。


 幹には、ところどころ人の顔のような節がある。


 目のように見える黒いくぼみ。

 口のように裂けた筋。

 鼻筋にも見える縦の木目。


 けれど、どれも顔ではない。


 顔になりかけて、まだ顔になることを許されていないもの。


 イロハは、その木々の前で足を止めた。


 胸の面箱が、熱を持っている。


 帰ってきた、と言われている気がした。


 けれど、イロハにはそんなことを思いたくなかった。


 ここが自分の帰る場所だなんて、思いたくなかった。


「……変な場所ですね」


 声が出た。


 思っていたよりも、小さな声だった。


 ロウセツは振り返らない。


「そうだな」


「森じゃない」


「森になる前に、役を取られた場所だからな」


 イロハは、その言葉の意味をすぐには受け取れなかった。


 サヨが一歩、白い木々の方へ進む。


 アヤメがすぐに手を伸ばしかけたが、サヨは振り返らずに首を横に振った。


「大丈夫です」


 その声は静かだった。


 サヨは、白い幹を見上げた。


 白影宮の面棚を見る時とも、冥祀社の記憶棚を見る時とも違う目だった。


 それは、まだ何者にもなっていないものを見る目だった。


「ここは、面の墓ではありませんね」


 サヨは言った。


 ロウセツが、ようやく彼女を見る。


「ああ」


 彼は短く答えた。


「面になる前の場所だ」


 サヨは、その言葉を胸の奥で受け止めるように、わずかに目を伏せた。


「面になる前……」


「生面も、職面も、祈面も、戦面も。面は彫られた時から役を背負う。けど、ここの木はまだ背負っていない」


 ロウセツは、足元に落ちていた木片を拾った。


 手のひらほどの大きさ。

 片側だけが滑らかに削られ、反対側は荒い木肌のままだ。


「だから、危ない」


「危ない?」


 アヤメが聞き返す。


「何にでもなれる木は、何にでもされる木でもある」


 ロウセツは木片を地面へ戻した。


「本人より先に、役を置ける。まだない役を作れる。言い換えれば、誰かが勝手に、その人間の立ち方を決められる」


 イロハの指が、面箱の縁を強く掴んだ。


 勝手に。


 その言葉だけが、胸の中でひどく大きく響いた。


 地面には、削られなかった木片が無数に散っていた。


 面になれなかったもの。

 彫られかけて捨てられたもの。

 目だけ彫られて、口のないもの。

 輪郭だけ取られて、役名を持たなかったもの。


 イロハは、足元のひとつを拾った。


 軽い。


 けれど、妙に冷たい。


 それは顔の輪郭にも見えた。

 額から頬へかけての線。顎に当たる部分のわずかな丸み。目を彫るはずだった場所には、薄い下書きのような傷が残っている。


 だが、何の表情もない。


 怒りも、笑みも、祈りも、眠りもない。


 白化面とは違う。


 あの白は、喰われた白だった。

 ユラの舞面にも、ハルマサの戦面にも、セイランの式面にも、月が噛んだような冷たい痕があった。


 だが、この白は違う。


 喰われる前の白。


 まだ、何も与えられていない白。


「これも、面になるはずだったんですか」


 イロハが尋ねる。


 ロウセツは木片を見た。


「なるかもしれなかった」


「ならなかったんですね」


「ああ」


「どうして」


「役が来なかった」


 ロウセツは淡々と答えた。


「面師が決められなかったのか。依頼人がいなくなったのか。役所に止められたのか。使う前に怖くなったのか。それぞれだ」


 イロハは木片を見る。


 役が来なかった。


 その言葉が、木片だけのことに聞こえない。


 灰面長屋の子どもたち。

 ミツ。

 生面を失い、家もなく、仮面籍のどこにも置けなかった子。


 そして、サヨ。


 皇女でありながら、この国に皇女として立つ役が用意されなかった人。


 イロハは、木片を手の中で包んだ。


 これは、誰かになれなかったものだ。


 だが、本当に「なれなかった」のだろうか。


 誰にも決められなかったから、ここに残されたのか。

 それとも、誰かに決められずに済んだから、まだここにいられるのか。


 わからなかった。


「イロハ」


 サヨの声がした。


 イロハは顔を上げる。


 サヨは、一本の白い木の前に立っていた。


 幹には、面のような節があった。

 目の位置にふたつの黒いくぼみ。

 口に見える細い裂け目。

 その下に、まだ彫られていない頬のようななだらかな木目。


 サヨはそこへ手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。


「この木は、見ているのですか」


 ロウセツは答えない。


 代わりに、イロハが答えた。


「見ているように、見えるだけです」


 言ってから、自分でもその言葉が信じられなかった。


 本当にそうだろうか。


 この場所の木々は、ただの木なのか。


 まだ面ではない。

 まだ役ではない。

 けれど、何かを待っている。


 その待つ気配が、視線のように感じられる。


 アヤメが周囲を見回した。


「落ち着きませんね」


「護衛殿でも怖いか」


 ロウセツが言う。


「怖いというより、不快です」


「正しい感覚だ」


 ロウセツは白い木々を眺めた。


「ここは、王朝の秩序には馴染まねえ。面があって役があるんじゃない。役が来る前の面材が、ずっと立ってる場所だからな」


 アヤメは眉を寄せた。


「だから、台帳に正しく載せないのですか」


「載せたら、定めたくなる」


 ロウセツは言った。


「この木は生面用。この木は職面用。この木は祈面用。この木は皇族面用。そうやって分けた瞬間、無面原じゃなくなる」


 サヨが静かに目を伏せる。


「定めれば、安心できます」


「ああ」


「でも、定めたことで失われるものもあるのですね」


 ロウセツは、その言葉には答えなかった。


 イロハは足元へ目を落とす。


 削りかけの木片の中に、ひとつだけ妙なものがあった。


 それは、他の木片よりも少し滑らかだった。

 輪郭が薄く整えられ、額から頬への線がどこか見覚えのある形をしている。


 イロハは膝をつき、それを拾う。


 指先が触れた瞬間、胸の《ナギノオモテ》の面箱が熱くなった。


「っ……」


 思わず手を離しかける。


 だが、木片は落ちなかった。


 手の中で、かすかに震えている。


 ロウセツが近づいてきた。


「それは」


 声が、わずかに変わった。


 イロハは顔を上げる。


「知ってるんですか」


 ロウセツは、すぐには答えなかった。


 いつものように、茶化さない。

 煙管もない。

 逃げる言葉もない。


 ただ、その木片を見ていた。


 まるで、ずっと前に捨てたはずのものを、今さら突きつけられたように。


「試し彫りの欠けだ」


「誰の」


 イロハは聞いた。


 その瞬間、風が止まった気がした。


 サヨも、アヤメも、ロウセツを見る。


 ロウセツは、白い原の奥を見た。


「皇女の未在面」


 イロハの手の中で、木片が急に重くなった。


 サヨの瞳が揺れる。


 けれど、彼女は声を荒げなかった。


 ただ、静かに言う。


「わたしの」


「正確には」


 ロウセツは苦い顔をした。


「お前さんのために作ろうとしていた面の、前段階だ」


 サヨは、木片を見る。


 イロハの手の中にある、顔になれなかった小さな白。


「前段階……」


「まだ、役を探っていた頃のものだ。皇女の面と言っても、既存の皇女面じゃなかった。台帳にもない。儀礼にもない。だから、面の形を決める前に、何度も木を削った」


 ロウセツの声は低い。


「これは、そのひとつだ」


 イロハは、木片を見つめる。


 サヨの面になれたかもしれないもの。


 そう思った瞬間、指先が冷たくなる。


 なぜ、これが自分の面箱に反応するのか。


 聞かなくても、答えは近づいている。


 でも、まだ聞きたくない。


 聞かなければならないのに、聞きたくない。


 サヨが、イロハの隣へ来た。


「触れてもよいですか」


 イロハは黙って木片を差し出した。


 サヨは両手で受け取った。


 その手つきは、壊れやすいものを扱うように慎重だった。


 木片を見つめるサヨの横顔は、悲しそうではなかった。


 ただ、不思議そうだった。


 まるで、自分になれたかもしれないものと、初めて対面しているように。


「何もありませんね」


 サヨは言った。


「怒りも、悲しみも、喜びも」


 イロハは頷く。


「まだ、何も彫られていないから」


「いいえ」


 サヨは首を横に振った。


「何も彫られていないのに、何かになれる気配だけがあります」


 その言葉に、イロハは胸を突かれた。


 それは、サヨのことでもあった。


 そして、自分のことでもあるのかもしれない。


 ロウセツは、無面原の奥へ視線を向けた。


「まだ入口だ」


 イロハは顔を上げる。


「この先に、何があるんですか」


「お前に見せなきゃならねえ木がある」


「私に?」


「ああ」


 ロウセツは、一度だけ《ナギノオモテ》の面箱を見た。


「その面の始まりだ」


 イロハの喉が、乾いた。


 サヨは木片をイロハへ返す。


「行きましょう」


 その声は穏やかだった。


 イロハは木片を受け取り、しばらく見つめたあと、そっと元の地面へ戻した。


 持っていくことはできないと思った。


 これは、まだ役になっていないものだ。

 自分が勝手に持ち去っていいものではない。


 白い木々の間を、ロウセツが歩き出す。


 イロハはその後を追う。


 一歩進むたびに、胸の面箱が熱を増した。


 白い幹の節が、こちらを見ているようだった。


 だが今度は、イロハは目を逸らさなかった。


 まだ何も与えられていない白。

 誰にも定められていない木。

 面になる前の場所。


 その奥に、自分の始まりがある。


 救いだったのか。


 罪だったのか。


 まだ答えは出ない。


 けれど、イロハはその白い原の中へ、足を踏み入れた。

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