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第二節 ― 地図に載らぬ道

 帝都カミザは、中心から離れるほどに、音の質が変わっていく。


 白木の回廊が続く内郭では、足音さえ磨かれている。

 黒漆の門の前では、役人の声も、女房の衣擦れも、どこか儀礼の中に収まっている。

 朱塗りの舞台の近くでは、鈴の音、太鼓の皮を張る音、舞袖をたたむ音が、朝の空気に細く混じる。


 けれど、ロウセツが先導する道は、そのどれからも少しずつ外れていった。


 面師小路を抜け、役面市の端を過ぎる。

 仮面籍庁へ向かう大通りを避け、古い水路沿いの細道へ折れる。

 さらに進むと、店先に整然と並んでいた面箱は見えなくなり、代わりに、軒下へ乱雑に吊るされた古布や、修理途中の桶、片方だけ残った草履が目につくようになった。


 やがて、灰面長屋の外れへ出る。


 イロハは、そこで一度足を止めそうになった。


 欠け面横丁。

 古い井戸。

 物干し紐に吊るされた灰面。

 子どもたちが踏んでいた、小さな舞台板。


 昨日までの出来事が、まだ土の匂いの中に残っている気がした。


 ミツは、今朝も水を汲みに来ただろうか。


 あの子の顔は、今日は少しでも水面に映っただろうか。


 サヨも、同じことを思ったのかもしれない。

 女房姿のまま、灰面長屋の奥を静かに見ていた。


 だがロウセツは止まらない。


「こっちだ」


 その声は低かった。


 ふだんの彼なら、灰面長屋の古面商にでも軽口を飛ばしていたはずだ。

 けれど今日は、誰にも声をかけない。


 それが、イロハにはかえって不気味だった。


 灰面長屋を越えると、帝都の輪郭は急に薄くなる。


 役所の札が減る。

 番所の提灯が古くなる。

 道端の石に刻まれた区画名も、半ば苔に埋もれて読めなくなる。


 ここまで来ると、帝都カミザでありながら、帝都ではないようだった。


 人が住んでいないわけではない。

 小さな畑もある。

 古い面材を乾かす小屋もある。

 炭を焼く煙も、遠くに細く上がっている。


 けれど、そこにあるものは、どれも正式な顔を持っていない。


 道はある。

 だが、道の名が見えない。

 家はある。

 だが、門札が古く、役名が剥がれている。

 祠もある。

 だが、どの神を祀るものか、表の札が白く擦れている。


 アヤメが周囲を見回した。


「こんな場所が、帝都の台帳にあるのですか」


 声には警戒が混じっていた。


 護衛としての警戒だけではない。

 王朝の内側で生きてきた者として、台帳に収まらない場所そのものを測りかねている声だった。


 ロウセツは、振り返らずに答える。


「あるにはある」


「曖昧な答えですね」


「曖昧な場所だからな」


 アヤメの眉がわずかに寄る。


 ロウセツは、ようやく足を緩めた。


「台帳には、別の名で載ってる。古面材保管地だの、旧御面庫予備林だの、面材乾燥区だの、その時々で名が変わる。だが、正しい名では載っていない」


「正しい名とは」


 サヨが問う。


 ロウセツは少しだけ黙った。


 道の先には、低い丘が見えている。

 その向こうに、白っぽい木の梢が、朝の光にかすかに浮かんでいた。


「無面原だ」


 イロハは、その名を聞いて胸の奥がきしむのを感じた。


 何度聞いても、初めて聞いたように怖い。


 それなのに、ずっと前から知っていたようにも思える。


 ロウセツは続けた。


「役所が管理する正式な面材林じゃない。御面庫の面材台帳にも、まともには載っていない。載せたくねえんだろうな。あそこは、役に分ける前の木がある場所だから」


「役に分ける前……」


 イロハが呟く。


 ロウセツは頷いた。


「普通の面材は、使い道が先に決まっている。生面に向く木、職面に向く木、祈面に向く木、戦面に向く木。木にも、だいたいの役がある」


 彼は、道端に落ちていた枯れ枝を拾い、すぐに捨てた。


「だが、無面原の木は違う」


「どう違うのですか」


 アヤメが問う。


「役がまだない」


 その答えは短かった。


 けれど、十分だった。


 イロハの胸に抱えた面箱が、またかすかに熱を持つ。


 サヨが、それに気づいたように視線を落とした。


 ロウセツは見ないふりをした。


「古い面師だけが知ってる。知っていても、口にはしない。無面原の木は、便利すぎる。危うすぎる。まだない役を作れる木なんてものを、役所がまともに知ったらどうなると思う」


 アヤメはすぐには答えなかった。


 だが、その顔には答えが出ていた。


 仮面籍庁。

 定役面コトサダメ

 白札、黒札、灰札。

 役を定め、保留し、封じる制度。


 そこへ、まだない役を生む木が渡れば。


「管理されるでしょうね」


 サヨが静かに言った。


「あるいは、封じられる」


 ロウセツは、かすかに笑った。


 だが、それはいつもの軽い笑いではなかった。


「姫君は話が早い」


 道は、さらに細くなっていく。


 草が足首に触れる。

 土は柔らかい。

 湿った木の匂いが、少しずつ濃くなる。


 イロハは歩きながら、息が浅くなるのを感じていた。


 ここは初めて来る場所のはずだ。


 けれど、足の裏が覚えているような気がする。


 白い木。


 ふと、そんな映像が浮かんだ。


 幹の白い木。

 枝の少ない木。

 顔のような節。

 目穴のような黒いくぼみ。


 イロハは瞬きをする。


 目の前にはまだ丘しかない。


 なのに、白い木の影が先に見えた気がした。


 次に聞こえたのは、泣き声だった。


 自分の声か。


 別の子どもの声か。


 わからない。


 細く、途切れ途切れで、息を吸うたびに痛むような泣き声。


 イロハは足を止めた。


「イロハ?」


 サヨが呼ぶ。


 イロハは顔を上げた。


「……今」


「何か見えましたか」


「白い木が」


 ロウセツの背中が、ほんの少し固まる。


 イロハは続けようとして、言葉を失った。


 次に浮かんだのは、白い布だった。


 いや、白かったのかどうかもわからない。

 血がついていた。


 小さな手。

 布に包まれた何か。

 割れた面の破片。

 焦げた家の匂い。


 そして、誰かの大きな手。


 ロウセツの手。


 若い。


 今よりもずっと若い手だった。


 その手が、泣いている子どもの前に差し出される。


 ――息はできるか。


 イロハは胸を押さえた。


 呼吸が詰まる。


 アヤメがすぐに近づいた。


「大丈夫ですか」


「……大丈夫、です」


 答えながら、イロハは自分の声が遠いことに気づく。


 自分は今、道に立っている。


 サヨが隣にいる。

 アヤメが支えようとしている。

 ロウセツが前にいる。


 でも、ほんの一瞬、別の場所にいた。


 焼けた家の前。

 誰も迎えに来ない道。

 自分が誰の子か、どの家の面を持つのか、誰にも言えなかった場所。


 ロウセツが、振り返らずに言った。


「近づいてる」


 イロハは顔を上げる。


「無面原に、ですか」


「ああ」


「どうして、記憶が」


「無面原の木は、役になる前のものを呼ぶ」


 ロウセツの声は低い。


「面になる前の木。役になる前の名。生面になる前の子ども。そういうものに、妙に近い」


 イロハは、その言葉を噛みしめた。


 生面になる前の子ども。


 役所では、そんな言い方をしない。


 子どもは、家の生面を継ぐ。

 家の面によって、この国に置かれる。

 家がなければ、仮置き。

 仮置きもなければ、灰面。


 けれどロウセツは今、「生面になる前の子ども」と言った。


 イロハは、自分がその言葉に含まれていることを理解した。


「師匠」


 ロウセツは返事をしない。


「私は、ここに来たことがあるんですか」


 長い沈黙。


 風が草を揺らす。


 遠くで鳥が鳴いた。


 ロウセツは、少しだけ首を傾けた。


「連れてきた」


 イロハは息を止めた。


「誰を」


「お前を」


 淡々とした声だった。


 けれど、その淡々さの奥に、ずっと隠してきた痛みがある。


「全部は、そこで話す」


 イロハは、もう何も聞けなかった。


 聞きたいことは山ほどある。


 いつ。

 なぜ。

 何のために。

 なぜ覚えていないのか。

 なぜ言わなかったのか。


 けれど、言葉にすると、足が止まりそうだった。


 だから歩いた。


 白い木の梢が、丘の向こうに少しずつ増えていく。


 その下へ近づくにつれ、《ナギノオモテ》の面箱は温かさを増した。


 サヨが隣を歩く。


「イロハ」


「はい」


「怖いですか」


 イロハは少し笑おうとした。


 うまくいかなかった。


「怖いです」


 素直に答えた。


「でも、見ない方がもっと怖いです」


 サヨは頷いた。


「わかります」


 その声は、とても静かだった。


 彼女もまた、面のない皇女として、見ないままにされてきた人だった。


 誰かが決めた保留。

 誰かが見なかった空白。

 誰かが作らなかった面。


 その先に何があるのか、彼女も見なければならない。


 アヤメは、二人の少し後ろを歩きながら、周囲を警戒している。


 けれどその背筋には、先ほどまでとは違う緊張があった。


 敵を探す護衛の緊張ではない。


 制度の外へ踏み込んでしまった者の緊張。


 彼女にとっても、ここは地図に載らぬ道なのだ。


 やがて、丘を越えた。


 朝の光が、前方へ広がる。


 そこに、白い木々が立っていた。


 森ではない。


 木々は密集していない。

 互いに距離を置き、ぽつり、ぽつりと原に立っている。

 葉は少なく、枝は細く、幹は白い。

 ところどころに、顔のような節がある。

 目穴のような暗いくぼみが、朝の光を吸い込んでいる。


 地面には、削られなかった木片が散っていた。


 輪郭だけが面のような木。

 口のない木。

 目だけが黒く残った木。

 半分だけ削られて、その先を誰にも決められなかった木。


 イロハは、足を止めた。


 胸の中で、何かが震えた。


 《ナギノオモテ》の面箱が、熱を帯びる。


 まるで、帰ってきた、と告げるように。


 ロウセツは、白い原を見つめて言った。


「ここが、無面原だ」


 イロハは、白い木々を見る。


 そこには、まだ誰の顔でもないものたちが立っていた。

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