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第一節 ― 師匠の沈黙

 面師小路の朝は、いつもより少し遅れて目を覚ました。


 細い路地には、昨夜干された面材の匂いが残っている。白木、漆、砥粉、古い布、乾ききらない膠。商いの声がまだ立ち上がる前の時間、店先の面たちは薄い布をかけられ、眠るように軒下へ並んでいた。


 イロハは、その路地を黙って歩いた。


 胸には、《ナギノオモテ》の面箱。

 懐には、冥祀社から持ち帰った白布。


 そのどちらも、軽くはなかった。


 サヨは少し後ろを歩いている。


 女房姿に身を隠してはいるが、その静けさは隠しきれない。白影宮にいる時とは違い、彼女は町の匂いの中で少しだけ異物のようだった。けれど、昨夜の冥祀社を経たあとでは、その異物感さえ、彼女自身の役を探すための影のように見えた。


 アヤメはさらに後ろで、周囲を見ている。


 表情は変わらない。だが、袖の下の手はいつでも刀へ届く位置にあった。


 裏工房の戸は、半分だけ開いていた。


 中から、木を削る音はしない。


 珍しいことだった。


 ロウセツ=カガミの工房は、朝が早い。本人がだらしなく見えても、面だけは夜明け前から起きている。削る音、磨く音、漆を混ぜる音。そうした小さな音が、いつも路地の奥から漏れていた。


 けれど今日は、静かだった。


 イロハは戸口で立ち止まった。


「師匠」


 返事はすぐに来た。


「おう」


 軽い声だった。


「冥祀社帰りの顔じゃねえな。死人でも背負ってきたか」


 いつもの調子。


 いつもの、煙に巻く声。


 工房の奥で、ロウセツは片膝を立てて座っていた。手には煙管。膝のそばには、修理待ちの古面がひとつ置かれている。


 何も知らない顔をしている。


 それが、イロハにはひどく腹立たしかった。


 ロウセツはサヨとアヤメの姿を見て、片眉を上げる。


「おやまあ。朝っぱらからずいぶん物々しい。白影宮の姫君まで、こんな煤けた工房へようこそ」


 アヤメの目が鋭くなる。


「軽口は控えていただきたい」


「怖いねえ。護衛殿は朝から刃みたいだ」


 ロウセツは笑った。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 イロハが笑わなかったからだ。


 いつもなら、呆れたように言い返す。

 怒るにしても、どこかに甘えが混じる。

 師匠の軽口を、軽口として受け取るだけの余地があった。


 今は違う。


 イロハは工房の中央へ進み、懐から白布を取り出した。


 そして、作業台の上に広げる。


 白布に残った細い木目が、朝の光の中で淡く浮かんだ。


 ロウセツの煙管が、止まった。


 ほんの一瞬。


 けれどイロハは見逃さなかった。


「師匠」


 イロハは言った。


「《ナギノオモテ》は、何で作ったんですか」


 工房の空気が変わった。


 壁に掛けられた古面。

 棚の奥で乾いている職面。

 半分だけ削られた祈面。

 欠けた生面。


 それらが一斉に、息を潜めたように思えた。


 ロウセツは答えない。


 煙管を口元へ運ぼうとして、やめた。


 灰皿の縁へ、静かに置く。


「……どこで、それを」


「冥祀社です」


 イロハは白布から目を離さなかった。


「《ヒドメ》の役解きをしました。終わった役を戻さずに、ほどきました。その時、この木目が布に残りました」


 ロウセツは黙っている。


「エンジュさんが言いました。無面原の木に似ているって」


 その名を聞いた瞬間、ロウセツの目の奥から、いつものだらしない笑みが完全に消えた。


 煙管も、軽口も、眠そうな目つきも。


 何かを知っている者の顔。


 そして、知られたくなかった者の顔。


 イロハは、胸の面箱を強く抱いた。


「これは、私の生面なんですよね」


 声が震えた。


 それでも、言った。


「師匠が、そう言ったんですよね」


 ロウセツは視線を伏せた。


 それだけで、イロハの胸の奥に冷たいものが落ちた。


「答えてください」


 工房の外では、面師小路がようやく動き始めている。


 遠くで戸を開ける音がした。

 誰かが水を撒く音。

 子どもの声。

 店先の面を並べる小さな物音。


 けれど、この裏工房だけは、別の場所のように静かだった。


 アヤメが一歩前に出る。


「ロウセツ=カガミ。白影宮の依頼にも関わることです。答えていただきます」


 その声は硬い。


 ロウセツは、アヤメを見なかった。


 彼が見ていたのは、イロハだった。


 いや。


 イロハの胸に抱かれた面箱だった。


 サヨは何も言わない。


 ただ、見ていた。


 責めるでもなく、庇うでもなく。

 そこにあるものを、消さずに見る目。


 その視線が、かえって逃げ場をなくす。


 ロウセツは、深く息を吐いた。


「……お前に、それを聞かれる日が来るとは思ってた」


「なら、どうして今まで言わなかったんですか」


「言えば、お前は自分の足元を疑う」


「もう疑っています」


 イロハの声が、鋭くなった。


「以前、ミツの面に役を置こうとして、怖くなりました。私が置く役は本当にその子のものなのかって。そして、《ヒドメ》を戻さないって決めました。終わった役を無理に戻すのは救いじゃないって、やっとわかりました」


 イロハは面箱を抱きしめた。


「じゃあ、これは何なんですか」


 その問いは、工房の奥へ深く沈んだ。


「私の役は、私のものなんですか」


 ロウセツは何も言わない。


 言えないのか。


 言わないのか。


 イロハにはもう、わからなかった。


 サヨが、静かに口を開いた。


「ロウセツ殿」


 その声に、ロウセツはようやくサヨを見る。


「わたしの面にも、関わるのですね」


 ロウセツの喉が、わずかに動いた。


 それが答えだった。


 アヤメの目がさらに険しくなる。


「やはり」


「待て」


 ロウセツは低く言った。


 今度は、軽口ではなかった。


「ここで全部しゃべっても、半分もわからねえ」


「逃げるつもりですか」


 アヤメが言う。


 ロウセツは首を振った。


「逃げられるなら、とっくに逃げてる」


 彼は立ち上がった。


 いつもより背が大きく見えた。


 いや、今までわざと小さく見せていたのかもしれない。

 だらしない町面師。

 資格を剥奪されたモグリ面師。

 路地裏で古面を直す変わり者。


 その仮面の奥に、かつて宮廷で面を扱っていた者の影が、わずかに見えた。


 ロウセツは作業台の白布を見下ろす。


 指を伸ばしかけて、触れなかった。


「この木目が出たなら、もう隠せねえ」


 イロハは唇を噛む。


「隠してたんですね」


「ああ」


 短い答えだった。


 否定しない。


 言い訳もしない。


 そのことが、かえって痛かった。


「どうして」


「お前を生かしたかった」


「それで全部許されると思ってたんですか」


「思ってねえよ」


 ロウセツの声が、少し荒れた。


 すぐに彼は目を伏せる。


「思ってねえ。ずっと」


 沈黙。


 工房の古い面たちが、その言葉を聞いている。


 ロウセツは、棚の奥へ歩いた。


 古い布をどけ、鍵のかかった小さな箱を取り出す。


 だが、開けなかった。


 ただ、手に持ったまま、イロハたちへ向き直る。


「ここじゃない」


「どこなら話すんですか」


 イロハの声は震えていた。


 怒りだけではない。


 怖さ。


 もし次の言葉で、自分が今まで立っていた場所が崩れるなら。


 それでも、聞かなければならない。


 ロウセツは言った。


「無面原へ行く」


 工房の外で、朝の風が路地を通り抜けた。


 軒下の面布がかすかに揺れる。


 イロハは、その名をもう一度胸の中で繰り返した。


 無面原。


 役が、まだ面になる前の場所。


 自分の面の始まりがあるかもしれない場所。


 サヨの未在面へつながる場所。


 アヤメが低く問う。


「そこへ行けば、説明すると?」


「説明で済むならな」


 ロウセツは答えた。


「見た方が早い。あそこに残ってるものは、言葉にすると嘘になる」


 サヨが静かに言う。


「わたしも参ります」


 アヤメが即座に振り向く。


「サヨ様」


「わたしの面に関わるのでしょう」


「危険です」


「危険でない場所にいたから、わたしの面は作られなかったのですか」


 アヤメは言葉を失った。


 サヨは、イロハを見た。


「イロハ。あなたが知るべきことなら、わたしも見届けます」


 イロハは、答えられなかった。


 見届ける。


 サヨはいつも、その言葉を恐れずに使う。


 喰われた役も。

 終わった役も。

 まだない役も。

 そして、誰かの手で始められてしまった役も。


 ロウセツは苦い顔をした。


「姫君まで連れてく気はなかったんだがな」


「では、わたしのいないところで、またわたしの面の話をするのですか」


 サヨの声は穏やかだった。


 しかし、その穏やかさの中に、譲らない硬さがあった。


 ロウセツはしばらく黙り、やがて肩を落とした。


「……似てきたな」


「誰にですか」


「知らなくていい」


 その答えに、サヨはわずかに目を細めた。


 イロハは、ロウセツの横顔を見る。


 また隠した。


 今、何かを隠した。


 けれど問い詰めても、ここでは出てこない。

 たぶんロウセツの言う通り、言葉だけでは足りないものがある。


 イロハは白布を畳んだ。


 木目の跡が、内側へ隠れる。


 けれど消えたわけではない。


 胸の面箱は、まだ熱を持っていた。


「行きます」


 イロハは言った。


 ロウセツが、少しだけ目を伏せる。


「今なら、まだ戻れるぞ」


「戻れる場所を、師匠が作ったんでしょう」


 イロハは静かに言った。


「なら、その場所が何でできているのか、見ます」


 ロウセツは何も返さなかった。


 ただ、小さな箱を懐へ入れ、壁に掛けていた古い外套を取る。


 その動作は、妙に手慣れていた。


 まるで、いつかこの日が来ると知っていて、何度も頭の中で支度をしていたかのように。


 工房を出る前、イロハは一度だけ振り返った。


 作業台。

 彫りかけの面。

 乾いた漆。

 欠けた古面。

 修理待ちの職面。


 ここは、イロハが面師として生きてきた場所だった。


 師匠に拾われ、面を覚え、役を直し、人を見てきた場所。


 そのすべてが、今、少し違って見える。


 嘘だったわけではない。


 けれど、全部を知らされていたわけでもない。


 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直した。


 救われたことまで疑いたくない。


 でも、疑わなければ、次へ行けない。


 ロウセツが戸を開ける。


 朝の光が、裏工房の中へ差し込んだ。


 その光に照らされて、白布の中の木目が、かすかに熱を返した気がした。

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