終節 ― 空の面箱
白影宮は、音の少ない宮だった。
帝都カミザの奥。天帝宮の華やかな舞殿や、政務の声が行き交う回廊から離れた場所に、その宮はあった。高い塀に囲まれ、白砂の庭と黒松の影を抱き、昼であるのにどこか夜の匂いを残している。
宮車が止まった時、イロハはまず、風の音が違うと思った。
面師小路の風は、木粉と漆と人の声を運ぶ。役面市の鈴、職人の呼び声、荷車の軋み、子どもの足音。そこでは、誰もが何かの役を持ち、その役が音になっていた。
だが白影宮の風は、何も運ばない。
ただ、白い砂の上を滑り、黒松の針葉を揺らし、池の水面に映る空を少しだけ乱していく。
アヤメは先に降り、宮車の簾を上げた。
「こちらへ」
イロハは道具袋を抱え直し、車を降りた。
門は美しかった。
白木の柱に、黒漆の横木。金具は控えめで、朱はほとんど使われていない。天帝宮の正面門のような威圧はなく、むしろ静かな離宮の趣がある。だが、その静けさは穏やかさではなかった。
誰かを守るための静けさ。
あるいは、誰かを隠すための静けさ。
門番の女官が、アヤメの宮中札を見て一礼した。イロハには一瞬、訝しむような視線が向けられたが、何も言わずに道を開ける。
白影宮の中へ入ると、廊下には面を飾る棚が並んでいた。
客を迎えるための礼面。
女房たちの役面。
御簾を上げる者の仕面。
香を替える者の小さな職面。
庭の月見池を清める者の水面。
夜の祈りに用いる細い祈面。
どれも丁寧に手入れされている。
塵ひとつない。
紐は整えられ、面箱には札が付けられ、棚の間隔も正しい。
けれど、イロハはすぐに違和感を覚えた。
多すぎるのではない。
少なすぎるのでもない。
中心がない。
宮に仕える者たちの面はある。
廊下に立つ者、庭を掃く者、香を焚く者、御簾を守る者。周囲の役は整えられている。
だが、この宮の主の面が見当たらない。
まるで、舞台の脇役たちの面だけが並び、主役の面だけが最初から用意されていないようだった。
アヤメは、イロハの視線に気づいた。
「わかりますか」
「……ここには、宮の中心になる面がない」
アヤメは小さく頷いた。
「白影宮に初めて入った者の多くは、美しい宮だと言います。静かで、整っていて、何も欠けていないと」
「欠けています」
イロハは言った。
「大きく」
その言葉に、アヤメは何も返さなかった。
廊下を進む。
白砂の庭に面した回廊は、磨かれた板が月光を待つように淡く光っていた。まだ昼だというのに、庭の池には薄い月の影が沈んでいるように見える。水面は静かで、黒松の影と白い空だけを映している。
その池を見た瞬間、イロハの視界の端で、また白い月がちらついた。
仮置きの代償として残った残像。
だが、ここではそれが強くなる。
まるで白影宮そのものが、月の気配を閉じ込めているようだった。
「大丈夫ですか」
アヤメが尋ねた。
「大丈夫です」
「顔色が悪い」
「面師は、面を見る前から顔色をよくしておくものではありません」
「そういうものですか」
「たぶん」
アヤメは少しだけ眉を寄せた。
「あなたは、変わった方ですね」
「師匠ほどではありません」
「それは安心しました」
冗談とも本音ともつかない声だった。
やがて、ふたりは奥の間へ着いた。
御簾が下りている。
その前に、黒漆の面箱が置かれていた。
ただし、閉じられてはいない。
蓋は横に置かれ、箱の内側がこちらへ向けられている。白絹が貼られた内底には、薄い傷が浮かんでいた。
写し布で見たものより、ずっと生々しい。
細い弧状の噛み跡。
月光で焼かれたような白い裂け目。
そこに面はない。
ないはずなのに、痕だけがある。
イロハは足を止めた。
喉が乾く。
この傷は、ユラの白化面の内側にあったものと似ている。けれど深さが違う。ユラの面は、役を喰われた面だった。まだ持ち主がいて、面があり、舞の一節が残っていた。
だがこの箱は違う。
ここには、喰われた面そのものが存在しない。
イロハは、箱の前に膝をついた。
「触れても?」
アヤメは少しだけ迷った。
「皇女様のお許しを」
その言葉のあと、御簾の向こうから、静かな声がした。
「よい」
柔らかい声だった。
高すぎず、低すぎず、まだ少女の響きを残している。けれどその声には、誰かに守られているだけの幼さはなかった。長い間、何かを見続けてきた者の静けさがある。
アヤメが膝をついた。
「サヨ様。イロハ=ナギをお連れしました」
「ご苦労さま、アヤメ」
御簾が、ゆっくりと上がった。
その向こうに、少女が座っていた。
サヨ=ミカゲ。
白影宮の皇女。
年はイロハと同じくらいに見える。月白の衣を重ね、上から淡い薄墨色の羽衣をかけている。黒髪は長く、肩から背へ静かに流れていた。飾りは少ない。金も朱もほとんどない。ただ、髪に挿された小さな白羽の簪だけが、光を受けて淡く揺れている。
美しい少女だった。
だが、その美しさには、どこか欠けたところがあった。
顔立ちが欠けているのではない。
衣が足りないのでもない。
むしろすべてが整いすぎている。
けれど、彼女の前には面がない。
皇女としての面が。
神前に立つための面が。
この宮の中心となるはずの面が。
だから、その姿はどこか、まだ舞台へ上がる前の空白のように見えた。
サヨは静かにイロハを見た。
「あなたが、白い面を見た面師?」
イロハは頭を下げた。
「イロハ=ナギと申します。中級面師です」
「中級」
「はい」
「宮廷面師ではないのね」
「違います」
「では、ここへ来るのは怖かったでしょう」
思いがけない言葉だった。
イロハは顔を上げかけ、途中で止めた。
「……少し」
「正直ね」
サヨの口元に、ごく淡い笑みが浮かんだ。
その笑みは、ユラの舞に戻った笑みとは違う。人をからかうものでも、神を迎えるものでもない。自分の空白を知っている者が、相手の怯えを責めずに受け止める笑みだった。
イロハは、少しだけ息をしやすくなった。
サヨは、空の面箱へ視線を落とした。
「これを見て」
「はい」
イロハは白布を指に巻き、面箱の内側へそっと触れた。
冷たい。
ユラの面に触れた時よりも、さらに冷たい。
木でも漆でも絹でもない。
そこにないはずの面の、内側へ触れているような冷たさだった。
触れた瞬間、視界が白く弾けた。
月。
近い。
あまりにも近い。
白影宮の庭。夜。水面に映る月。黒漆の面箱。誰も入れていないはずの箱の中に、白い光が満ちる。光は牙のように曲がり、箱の内側へ噛みつく。
だが、噛まれる面はない。
ないのに、何かがある。
まだ形を得ていない役。
誰にも演じられていない皇女の顔。
この国のどの帳にも記されていない、けれど確かに求められている面。
それを、月が喰っている。
イロハは息を呑み、手を離した。
白い残像が、今度は消えない。
まばたきをしても、月が残る。
白い噛み跡が残る。
そして、その噛み跡の奥に、一瞬だけ見えた。
白い面。
まだ完成していない面。
顔を持たない皇女のために作られるはずだった、未在の面。
その輪郭が、イロハの胸の奥に沈んでいる何かと重なった。
腰の鍵が、熱を持ったように感じる。
《ナギノオモテ》。
黒い小箱の奥で眠る、師匠が自分に与えた面。
イロハは反射的に道具袋を押さえた。
サヨが、それを見た。
その目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「あなた」
静かな声だった。
「面を持っているのね」
イロハの肩が強張った。
「面師ですから」
「生面?」
「……そう聞いています」
同じ答えを、つい先ほどアヤメにもした。
だが、サヨの前で口にすると、その曖昧さがひどく頼りなく聞こえた。
サヨは、じっとイロハの腰元を見ている。
面そのものは見えていない。箱も見せていない。鍵に触れただけだ。
それなのに、サヨは何かを感じ取っている。
「見せて」
アヤメがすぐに顔を上げた。
「サヨ様」
「だめ?」
サヨはアヤメへ視線を向けた。
「ロウセツ=カガミから、今日は開けるなと言われています」
イロハが先に答えた。
アヤメが少しだけ驚いたように彼女を見る。
「師匠が?」
「はい」
「なぜ」
サヨの問いに、イロハは息を整えた。
「月が、まだ見ているからだと」
白影宮の奥に、沈黙が落ちた。
庭の水面が、かすかに揺れる。
サヨはその言葉を怖がらなかった。むしろ、ずっと知っていたことを誰かがようやく口にしたように、静かに目を伏せた。
「やっぱり」
彼女は小さく言った。
「見ているのね」
「皇女様は、月を見たことがあるのですか」
イロハが尋ねると、アヤメがわずかに身を固くした。
だがサヨは答えた。
「毎夜、見ています」
「空の月を?」
「いいえ」
サヨは、空の面箱を見た。
「箱の中の月を」
イロハの背筋に、冷たいものが走った。
「この箱に、月が映るんですか」
「映るのではないわ」
サヨはゆっくりと言った。
「中に、あるの」
イロハは言葉を失った。
白影宮の池。空の面箱。そこに浮かぶ月。喰われる未在の面。
この宮では、月は空から見下ろしているだけではない。箱の内側に入り込み、まだない役へ歯を立てている。
「皆は、わたしの面がないと言う」
サヨは静かに続けた。
「でも、ないのではないと思うの」
「では、どこに」
「喰われている」
その一語は、イロハの胸を強く打った。
サヨは、ロウセツと同じ言葉を使った。
壊れたのではない。
紛失したのでもない。
喰われた。
「わたしには、少しだけ覚えがあります」
サヨは、自分の手を見た。
白い指。細い手首。どんな舞の型にも、まだ完全には結ばれていない手。
「わたしが何の役として生まれたのか。誰も言わない。帳にもない。宮廷面師も知らないふりをする。でも時々、夢で面を着けている自分を見るのです」
「どんな面ですか」
イロハは思わず尋ねた。
サヨは少し考えた。
「白い面」
イロハの喉が詰まる。
「でも、白化した面とは違います。何もない白ではなくて、まだ何にでもなれる白。月ではなく、夜明けの前の白」
その言葉に、イロハの腰の鍵がまた熱を持った気がした。
《ナギノオモテ》。
無面原の木。
まだ役を持たない素材。
師匠が与えた、禁じられた面。
サヨはイロハを見つめていた。
そして、ゆっくりと言った。
「その面は……わたしのものに似ています」
イロハの心臓が、一瞬止まったように感じた。
アヤメが息を呑む。
「サヨ様」
「見えてはいないわ」
サヨは静かに言う。
「けれど、わかるの。あなたのそばにある面は、わたしが夢で見る面と似ている」
イロハは立ち上がりかけて、止まった。
手が震える。
「違います」
自分でも驚くほど早く、否定していた。
「これは、師匠が私にくれた面です。私の生面だと」
言いながら、声が揺れた。
生面だと聞いている。
そう聞いているだけだ。
自分は、その由来を知らない。
ロウセツは言わなかった。
聞いてもはぐらかした。
今日、白化面を見てようやく、皇女の面箱と関わりがあるかもしれないと知ったばかりだ。
その面は、わたしのものに似ています。
サヨの言葉が、胸の奥で繰り返される。
もしそうなら、自分は何を持っているのか。
自分をこの世に立たせてくれた面が、皇女の未在面に似ているなら。
自分の役は、誰の役なのか。
「イロハ=ナギ」
サヨが名を呼んだ。
その呼び方は、役人のものとも、客のものとも違った。
名を確かめる呼び方だった。
「あなたは、その面で立っているのね」
イロハは答えられなかった。
立っている。
確かにそうだ。
師匠の工房で働き、中級面師として札を持ち、客の面を直し、役を仮置きする。そうして自分は生きている。
けれど、その足場の下に何があるのかは知らない。
「怖い?」
サヨが尋ねた。
イロハは唇を噛んだ。
「怖いです」
正直に言うしかなかった。
サヨは微笑んだ。
「わたしも」
その言葉で、イロハは初めて皇女を遠い人ではなく、ひとりの少女として見た。
面を持たない皇女。
役を与えられないまま、宮の奥に置かれている少女。
周囲の者の欠けた役を、ひとりだけ覚えてしまう少女。
そして自分もまた、かつて役を持たなかった子だった。
ふたりの間に、空の面箱があった。
そこには面がない。
けれど月痕がある。
喰われた役の痕がある。
サヨは、ゆっくりと箱の縁に手を置いた。
アヤメが止めようとしたが、サヨは首を振った。
「大丈夫。今は噛まれないわ」
「今は?」
イロハが聞く。
「昼だから」
サヨは微笑んだ。
その笑みは、あまりに静かで、かえって痛々しかった。
「夜になると、箱の中の月が起きます」
イロハは箱の内側を見た。
白い噛み跡が、昼の光の中でひっそりと沈んでいる。
今は眠っている。
けれど夜になれば、また起きる。
まだない面を喰い続けるために。
「面師イロハ」
サヨは姿勢を正した。
皇女としてではなく、依頼人として。
その声に、イロハの背筋も自然と伸びた。
「はい」
「わたしは、自分の面を知りません。誰も作ってくれなかったのか、作れなかったのか、それとも作られる前に喰われたのかもわかりません」
サヨは空の面箱を見つめる。
「でも、わたしはここにいます。名もあります。声もあります。覚えている役もあります。けれど、この国では、それだけでは足りないのでしょう」
イロハは何も言えなかった。
足りない。
この国では、名だけでは足りない。
声だけでも足りない。
存在しているだけでは、制度はその者を認めない。
面がいる。
役がいる。
神前で、この世で、誰かとして立つための器がいる。
サヨは、イロハを見た。
「面師イロハ」
その声は、先ほどよりも少しだけ震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「わたしの面を、作れますか」
白影宮の奥で、風が止まった。
庭の水面も、黒松の影も、御簾の縁も、すべてがその問いを聞いていた。
イロハは答えられない。
作れる、と簡単には言えない。
皇女の面など、本来なら宮廷面師が作るものだ。まして、初めから存在しない面。喰われ続ける未在の面。自分の《ナギノオモテ》と似ているかもしれない面。
それを作ることは、ただの修復ではない。
まだない役を、この世に呼ぶことだ。
師匠が昔、罪として問われたこと。
禁じられた面を作ること。
イロハの視界の端で、白い月がまたちらついた。
月が見ている。
ロウセツの声が、遠く耳の奥で蘇る。
自分の面箱は、今日は開けるな。
宮廷の面は、こっちを見返してくる。
見すぎるなよ。
けれど、サヨの前にある箱は空だった。
見返してくる面すらない。
それでも、そこには確かに誰かが待っている。
まだ役を与えられない少女が。
喰われた役を覚えている皇女が。
そして、かつて役を持たなかった自分自身が。
イロハは、ゆっくりと息を吸った。
「……今は、作れるとは言えません」
アヤメの目がわずかに動く。
サヨは、静かにその言葉を受け止めた。
イロハは続けた。
「でも、見ます。何が喰われているのか。何が残っているのか。あなたの面が、どこにあったはずなのか」
彼女は空の面箱を見た。
「それを見つけるところからなら、できます」
サヨの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
それは安堵というには小さく、希望というにはまだ弱い。
けれど、白影宮に初めて灯った小さな火のようだった。
「では、お願いします」
サヨは頭を下げた。
皇女が、路地裏の面師に頭を下げた。
アヤメが目を伏せる。
イロハは慌てて膝をつき、深く礼を返した。
空の面箱の内側で、白い月痕がかすかに光った。
まるで、そこにない面が、今のやり取りを聞いていたかのように。
昼の白影宮には、まだ月は出ていない。
けれどイロハは知っていた。
夜になれば、月はまた起きる。
そして、喰いかけの役を探すだろう。
皇女の面を。
イロハの面を。
まだこの国に存在しない、誰かの役を。
白影宮の庭で、風が戻った。
黒松が鳴り、池の水面が揺れ、御簾の端が淡く震える。
それはまるで、見えない舞台の幕が、ようやく上がり始めた音のようだった。
第一話 ― 白い面は月を覚えている
了




