↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/126

第六節 ― 仮面籍庁の使い

 戸が開くと、朝の光が工房の土間まで差し込んだ。


 その光の中に、黒い面が三つ立っていた。


 仮面籍庁、検面方。


 帝都カミザにおいて、面の登録、破損、継承、剥奪を検める役人たちである。彼らの面は、表情を持たない。怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ、目の部分だけが細く空いており、そこから人ではなく帳面が覗いているように見える。


 先頭に立つ男は、黒漆の検面をつけ、額に銀の細線を一本入れていた。中位以上の検面官だ。後ろには記録役がひとり、封箱を持った若い役人がひとり。


 彼らは工房の中へ入る前に、まず軒先の割れた小面を見た。


 それから、ロウセツを見た。


「ロウセツ=カガミ」


 検面官の声は、よく磨かれた板のように平らだった。


「旧宮廷御面師。現、面師資格剥奪者。無認可修復行為の常習として、仮面籍庁に記録あり」


 ロウセツは軽く頭を掻いた。


「久しぶりだな。俺の経歴紹介から始まる客は」


「客ではない」


「じゃあ、押し売りか」


「検分である」


 検面官は一歩、工房へ入った。


 その瞬間、ユラが白化面を抱く手に力を込めた。セイが彼女の前へ立つ。イロハは作業台の横に移動し、面と役人のあいだへ半身を入れた。


 検面官の目が、イロハの腰の面師札に向いた。


「イロハ=ナギ」


「はい」


「中級面師。登録あり。ただし所属工房は正規認可を受けていない。師事先、ロウセツ=カガミ。資格剥奪者との継続的作業関係あり」


 言葉のひとつひとつが、針のようだった。


 イロハは唇を結んだ。


 中級面師の札は、確かに彼女の努力で得たものだ。試験を通り、型を覚え、祈面と職面の修復許可も一定範囲で認められている。


 けれど、この工房は正規の工房ではない。


 師匠は資格を剥奪されている。


 その事実を突かれると、イロハの足元は少しだけ揺らぐ。


 どれだけ腕があっても、制度の帳の上では、彼女は常に灰色だった。


「届け出なき祈面修復の疑いで、検分を行う」


 検面官は言った。


「対象面を提示せよ」


 ユラが一歩下がった。


「これは、わたしの面です」


 検面官の黒い目穴が、少女へ向く。


「氏名」


「ユラ=シラビョウ。ウズメの舞殿、見習い神楽師です」


 記録役が巻紙を開いた。


「シラビョウ家、仮面籍あり。生面登録あり。職能補助面登録なし。ウズメ舞殿所属、見習い舞手。奉納演目補助登録……」


 そこで、記録役の筆が止まった。


 彼は巻紙を覗き込み、眉をひそめる。


「呼び笑い一節担当、記載が薄い」


「薄い?」


 セイが思わず声を上げた。


「昨日までは、そこにきちんと書かれていたはずです。ユラは今年の月迎えで――」


「発言を求めていない」


 検面官はセイを遮った。


「帳の記載が薄い場合、役の確定性は低い。祈面の異常によって登録役に混濁が生じた可能性がある」


「混濁じゃありません」


 イロハは言った。


 検面官が彼女を見る。


「何か」


「ユラさんは舞えます。さっきも一節を通しました。役は完全には消えていません」


「仮置きを行ったのか」


 その一言で、工房の空気が凍った。


 イロハは息を詰めた。


 ロウセツが、わずかに目を細める。


 検面官は淡々と続けた。


「届け出なき仮置きは、祈面修復規定に抵触する。まして白化の疑いがある面に対し、無認可工房内で仮の役を置く行為は、面籍汚染を招く危険がある」


「汚染……?」


 ユラの声が震えた。


 自分の面を抱いている少女の前で、その言葉を使う冷たさに、イロハの腹の奥が熱くなる。


「汚染ではありません」


「では何と呼ぶ」


「まだ残っている役を、通しただけです」


「登録外の役を通した時点で、仮面籍庁の検分対象となる」


「登録が薄れているのは、月痕のせいです」


 言った瞬間、ロウセツがわずかに顎を引いた。


 しまった、とイロハは思った。


 だがもう遅い。


 検面官の黒い面が、ほんの少し傾いた。


「月痕」


 記録役の筆が止まる。


 封箱を持つ若い役人が、無意識に箱の蓋へ手をかけた。


「今、月痕と言ったか」


 ロウセツが割り込んだ。


「うちの弟子は比喩が好きでな。若い面師はすぐ詩人ぶる」


「ロウセツ=カガミ。発言を許可していない」


「許可されなきゃ喋れねえ面なら、俺はとっくに死んでる」


「資格剥奪者の軽口は記録しない」


「ありがたいねえ。記録されたら照れるところだ」


 検面官はロウセツを無視し、ユラへ向き直った。


「対象面を提出せよ」


 ユラは首を振った。


「嫌です」


「提出せよ」


「これは、わたしの面です」


「現在、その面は祈面としての機能に異常を起こしている。持ち主の手元に置けば、役の混濁が進行する恐れがある。仮面籍庁で封印し、登録状態を確認する」


「封印したら、舞はどうなるんですか」


 ユラの声はかすれていた。


「白化が確認された場合、該当祈面は使用停止。持ち主の舞役は一時保留となる」


「保留……」


「演目上、代替舞手の登録を推奨する」


 ユラの顔が白くなった。


 セイが前に出る。


「待ってください。ユラは舞えます。さっき確かに――」


「仮置きによる一時的反応は、正式な舞役復帰の証明にならない」


「でも、本人はここにいるんです。役を失いかけて苦しんでいるんです。まず助けるべきでしょう」


「我々の職務は救済ではない」


 検面官は言った。


「登録の保全である」


 その言葉が、工房の板床に冷たく落ちた。


 救済ではない。

 登録の保全。


 イロハは拳を握った。


 わかっていた。


 仮面籍庁は、面を人のために見るのではない。帳のために見る。役が正しく登録されているか、面が適切に管理されているか、制度に異常がないか。それを確かめるのが彼らの役だ。


 けれど目の前に、泣きそうな神楽師がいる。


 舞台に立とうとして膝から崩れた少女がいる。


 自分の面を奪われれば、何を失ったのか確かめる道さえ閉ざされる少女がいる。


 それを帳の都合で封じるのか。


「登録が何ですか」


 イロハの声が低く出た。


 ロウセツが視線だけで制したが、止まらなかった。


「帳に線が薄くなったからって、その人の役がなかったことになるんですか。舞えなくなった本人を前に、代替舞手の登録を推奨するって、それが検面方の仕事ですか」


 検面官は、わずかに沈黙した。


 怒ったのではない。


 イロハの感情を、記録すべき異常反応として見ている沈黙だった。


「中級面師イロハ=ナギ」


 彼は平板な声で言った。


「面師の職分を誤解している」


「誤解?」


「役は個人の感情によって保持されるものではない。家、職、神前、そして仮面籍によって承認される。持ち主が望むか否かは、登録上の役の維持とは別問題である」


「別じゃありません」


「別である」


 検面官は断じた。


「この国において、役とは制度である。制度から外れた役は、無役に等しい」


 イロハの喉が詰まった。


 無役。


 その言葉は、彼女の古い傷を正確に踏んだ。


 灰面長屋の隅。

 誰の帳にも載っていない子。

 生面を失い、家の役もなく、職の役もなく、ただ呼ばれれば振り向くだけの存在。


 無役。


 その言葉を、役人は何の痛みもなく使う。


「……無役でも、人はいます」


 イロハは絞り出すように言った。


 検面官は答えた。


「制度上は存在が不安定である」


 その冷たさに、イロハは言葉を失った。


 怒りはある。

 けれど、その怒りを制度の言葉で返せない。


 彼女は中級面師だ。腕はある。面を見る目もある。けれど正規工房に属していない。師匠は資格剥奪者。自分の面の由来すら、完全には説明できない。


 正面から言い争えば、ユラの面だけでなく、この工房ごと押さえられる。


 それがわかるから、悔しいほど強く出られない。


 ロウセツが、軽い調子で割って入った。


「まあまあ、お役人様。若い弟子が熱くなりましてね。こいつは腕は悪くねえが、口の漆がまだ乾いてねえんです」


「ロウセツ=カガミ。対象面を提出せよ」


「出したら、どう扱う」


「封箱に納め、仮面籍庁へ移送する。白化または不正修復が確認されれば、持ち主の舞役を一時凍結。面は調査完了まで返却不可」


 ユラの体が震えた。


「返ってこないんですか」


「調査次第である」


「どのくらい」


「定めはない」


 その答えに、ユラの目からまた涙が落ちた。


 定めはない。


 役所の言うその言葉は、たいてい「戻らない」に近い。


 ロウセツの口元から、笑みが消えた。


「その面は今、封じると死ぬぞ」


「面に生死はない」


「あるんだよ。わからねえやつが検面なんぞしてるから、白くなる」


 検面官の後ろにいた若い役人が、わずかに身を固くした。


 先頭の検面官は動じない。


「資格剥奪者の私見は不要である」


「資格があった頃から、俺の私見はよく当たってたぜ」


「その私見により禁じられた面を作り、処分を受けた者の発言として記録しておく」


 工房の空気が張り詰めた。


 禁じられた面。


 イロハの手が、また腰の鍵へ触れそうになる。


 ロウセツは目だけでそれを止めた。


「記録するなってさっき言ったじゃねえか」


「必要な発言は記録する」


「都合のいい耳だ」


 検面官は封箱を持つ役人へ合図した。


「対象面を収容せよ」


 若い役人が前へ出る。


 ユラは面を抱え込んだ。


「嫌です」


「拒否はできない」


「嫌です!」


 その声は、初めてはっきりと工房に響いた。


「これは、わたしの舞です。わたしが何を忘れたのか、やっと少しだけわかったんです。持っていかないで」


 若い役人は一瞬、動きを止めた。


 その隙に、イロハはユラの前へ出た。


「この面は、まだ検分できる状態ではありません」


「退け」


「退きません」


「中級面師の権限では、仮面籍庁の封印命令を拒否できない」


「それでも、今渡したら戻せなくなる」


「戻す必要があるかどうかは、登録状態を見て判断する」


「登録じゃなくて、本人を見てください!」


 叫んだ瞬間、工房の中が静まり返った。


 イロハ自身も、自分の声に驚いた。


 検面官は、黒い面の奥から彼女を見ている。


 その視線は、冷たい。

 正しい形をしている。

 だからこそ、余計に残酷だった。


「イロハ=ナギ」


 検面官は言った。


「君自身の仮面籍にも不審点があることを、こちらは把握している」


 ロウセツの表情が変わった。


 イロハの息が止まる。


「中級面師資格は有効。しかし生面の由来に、戦災消失後の再登録処理がある。師事先は資格剥奪者。現在の面師札も、監査対象となりうる」


 視界の端で、白い月がちらついた。


 怒りが、一瞬で冷やされる。


 それは脅しだった。


 ユラの面を守ろうとすれば、自分の仮面籍を掘り返される。


 《ナギノオモテ》の由来を問われる。


 師匠の罪まで、ふたたび帳に引き出される。


 イロハは言葉を失った。


 悔しい。


 悔しいのに、言えない。


 制度の前では、自分の足元もまた不安定なのだと思い知らされる。


 ロウセツが、静かに一歩前へ出た。


「おい」


 その声は低かった。


「弟子を脅すなら、俺を通せ」


「資格剥奪者に仲介権はない」


「腕は残ってる」


「資格がない」


「目も残ってる」


「登録がない」


「なら、お前らには何が残ってる」


 ロウセツの言葉に、検面官の周囲の空気が少しだけ硬くなった。


 その時だった。


 工房の外から、別の足音が近づいた。


 軽い足音ではない。


 しかし役所の足音とも違う。


 静かで、迷いがなく、床板に触れる前から空気を切るような歩き方。刀を持つ者の足音だ。けれど武家の粗さはない。宮中の廊下を歩き慣れた者の、抑えた歩幅。


 戸口に影が差した。


「その面に、手を触れないでいただきたい」


 声は若い女のものだった。


 検面官が振り返る。


 工房の入り口に、ひとりの少女が立っていた。


 白に近い薄灰の羽織。内側には濃い紫の袴。腰には細身の刀。襟元には、白羽の紋をあしらった小さな宮中札が下がっている。髪は高く結われ、目元は涼しい。年はイロハとそう変わらないように見えるが、立ち方が違った。


 誰かに守られるためではなく、誰かの前に立つための姿勢。


 アヤメ=シラハ。


 白影宮付き近習にして、皇女サヨ=ミカゲの護衛役。


 検面官は一瞬だけ沈黙した。


「白影宮の方か」


 アヤメは静かに宮中札を掲げた。


「白影宮預かりの件により、仮面籍庁の通常検分を差し止めます」


 工房の空気が変わった。


 ユラは何が起きたのかわからない顔で、アヤメを見ている。セイも息を呑んだまま動けない。


 イロハは、ただその少女を見た。


 白影宮。


 その名は、帝都の奥にある離宮の名だった。


 皇女の住まう場所。


 ロウセツの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。


 アヤメは工房の中へ一歩入った。


 白化面を見た。


 ユラを見た。


 そして最後に、イロハを見た。


 その視線は、検面官のものとは違った。


 冷たくはある。

 だが、人を帳として見ている冷たさではない。


 何かを確かめる目だった。


「あなたが、イロハ=ナギですね」


 イロハは喉の奥が乾くのを感じた。


「……はい」


「その面を見たのは、あなたですか」


「はい」


「月痕を?」


 ロウセツがわずかに息を止めた。


 検面官が反応する。


「白影宮は、月痕の報告を把握しているのですか」


 アヤメは検面官へ向き直った。


「その問いに答える権限は、私にはありません」


「ならば、通常検分を続行する」


「できません」


 アヤメの声は静かだった。


「この件は、白影宮の異常と照合されます。対象面は仮面籍庁ではなく、白影宮預かりの参考面として扱います」


「正式な差し止め状は」


 アヤメは袖から折り畳まれた書状を取り出した。


 黒漆ではなく、白い封紙。そこには白羽の紋と、月影を象った印が押されていた。


 検面官が受け取り、目を通す。


 黒い面の下で、彼の表情は見えない。


 だが、沈黙が長くなった。


 やがて彼は書状を返した。


「白影宮の要請であれば、本件の封印は保留する」


 ユラの肩から、少し力が抜けた。


 だが検面官は続けた。


「ただし、対象面および持ち主の役状態は、仮面籍庁の監視下に置く。無断使用、無断修復、追加の仮置きは禁止する」


 イロハが言い返そうとした瞬間、アヤメが先に言った。


「白影宮の立ち会いのもとであれば?」


 検面官は少しだけ沈黙した。


「再申請を要する」


「承知しました」


 アヤメはさらりと受け止めた。


 そのやり取りの速さに、イロハは悔しさとは別の驚きを覚えた。


 制度の言葉で、制度を止めている。


 自分にはできなかったことを、この少女は迷いなくやっている。


 検面官は最後にロウセツを見た。


「ロウセツ=カガミ。無認可工房への監査は、後日改めて行う」


「茶くらい出すぜ」


「不要だ」


「いい茶じゃないからな」


 検面官は反応しなかった。


 次にイロハを見る。


「イロハ=ナギ。中級面師としての立場を忘れぬように」


 その言葉は、忠告ではなく釘だった。


 役所の三人は、黒い面を揃えて工房を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 工房に残った者たちは、しばらく誰も動かなかった。


 ユラが白化面を抱いたまま、深く息を吐く。


 セイが彼女の肩に手を置いた。


 ロウセツは煙管を取り出そうとして、やめた。


 イロハは、アヤメを見ていた。


 白影宮から来た少女は、黒い役人たちが去った戸口に立ったまま、静かにこちらを向く。


「助かりました」


 イロハは言った。


 だが、アヤメは礼を受け取らなかった。


「まだ助かっていません」


 その声は冷静だった。


「この面と同じ異常が、白影宮でも起きています」


 ユラが顔を上げる。


 ロウセツの目が細くなる。


 イロハの視界の奥で、白い月がまたちらついた。


 アヤメは続けた。


「イロハ=ナギ。白影宮へ来てください」


「私が?」


「はい」


「誰の面を直すんですか」


 アヤメは少しだけ沈黙した。


 それから言った。


「直す面は、ありません」


 イロハは眉をひそめる。


「どういう意味ですか」


 アヤメの視線が、白化面からイロハへ移る。


「皇女様には、初めから面がないのです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。