第七節 ― 白影宮からの使者
皇女様には、初めから面がないのです。
その言葉が落ちたあと、工房の中のすべての面が、いっせいに黙ったように思えた。
いや、もともと面は喋らない。
それでもイロハには、壁に吊るされた古面も、作業台の上の白化面も、棚の奥で眠る割れた職面も、一瞬だけ呼吸を止めたように見えた。
皇女に面がない。
それは、ただ珍しいという話ではない。
この国では、生まれた家の面がある。
職に就けば職面がある。
神前へ出るなら祈面がある。
宮廷に立つ者には官面があり、皇族には皇族の面がある。
まして皇女である。
天帝の血に連なり、王朝の演目の奥に座す者。
その面がないなど、ありえない。
面を紛失したのなら事件だ。
壊れたのなら大事だ。
盗まれたのなら、都中の門が閉じられる。
けれどアヤメは、そうは言わなかった。
初めから面がない、と言った。
「……初めから?」
イロハはようやく声を出した。
アヤメは頷いた。
「はい」
「皇女様の面が、作られていないということですか」
「少なくとも、現在の仮面籍には存在しません」
現在の、という言い方に、ロウセツの眉がわずかに動いた。
イロハはそれを見逃さなかった。
「仮面籍に存在しないだけなら、隠されている可能性もあります。宮廷の面は、一般の帳に載らないものもあるでしょう」
アヤメは冷静に答えた。
「その可能性も調べました。白影宮の内帳、天帝宮の旧式目録、御面庫の封印記録、祭祀台帳。確認できる限り、皇女サヨ=ミカゲ様に対応する皇女面はありません」
ユラが小さく息を呑む。
セイは、話の大きさについていけない顔をしていた。
無理もない。
つい先ほどまで、彼らの問題はひとりの神楽師の白化面だった。舞えるかどうか。役を失うかどうか。面を役所に奪われるかどうか。
それが今、皇女の面へ繋がっている。
帝都カミザの、もっとも奥にある空白へ。
「そんなこと、あるんですか」
ユラが震える声で言った。
「皇女様なのに……面がないなんて」
アヤメの表情は変わらない。
けれど、ほんの一瞬だけ、目の奥に痛みのようなものが走った。
「あるから、私はここへ来ました」
彼女はイロハを見る。
「あなたが、白化した神楽面の内側に月痕を見たと聞きました」
「誰から」
「面師小路には耳があります。ウズメの舞殿にも、仮面籍庁にも」
「つまり、監視されていたんですね」
「否定はしません」
アヤメはあっさりと言った。
イロハは思わず眉を寄せた。
「それで、私を信用しろと?」
「信用していただく必要はありません」
アヤメの声は硬い。
「私も、あなたをまだ信用していません」
セイが驚いたように彼女を見る。
ユラも面を抱えたまま息を詰めた。
イロハは、むしろ少しだけ安心した。
最初から信用していると言われるより、ずっとましだった。
「なら、どうして私を呼ぶんですか」
「あなたの診断が、白影宮で起きている異常と一致したからです」
アヤメは工房の奥へ視線を移した。
作業台の上の白化面。
月痕。
仮置きで一瞬だけ戻った舞。
そして、再び薄れていく役。
「白影宮では、三夜前から、空の面箱に痕が浮かんでいます」
イロハの背筋が冷えた。
ロウセツは煙管を取り出しかけた手を止めた。
「空の面箱に?」
「はい」
アヤメは袖の中から、小さな白布を取り出した。布そのものに何かが包まれているわけではない。おそらく記録用の写し布だ。彼女はそれを作業台の端へ広げた。
薄い墨線で、箱の内側が写し取られている。
黒漆の面箱。
内側に貼られた白絹。
その中央から左下へ走る、細い弧状の傷。
イロハは思わず一歩近づいた。
白化面の内側に見た噛み跡と、よく似ている。
ただし、こちらのほうが深い。
そして奇妙だった。
面が入っていない箱に、面の内側へつくはずの傷がある。
まるで、そこに存在していない面が、すでに喰われているかのように。
「これを見た宮廷面師は?」
イロハが尋ねると、アヤメは一瞬だけ口を閉じた。
「月光による漆の変質、と」
「嘘ですね」
「はい」
アヤメは即答した。
そのあまりの早さに、イロハは少しだけ彼女を見直した。
「では、仮面籍庁は?」
「空箱の傷であるため、登録上の異常とは認定していません」
「……面がないから?」
「面がないからです」
あまりに筋の通った、あまりに馬鹿げた答えだった。
イロハは拳を握った。
「でも、その箱は皇女様のものなんでしょう」
「はい」
「面がないこと自体が異常です」
「それを異常として認めれば、王朝は皇女様の役が存在しないことを認めることになります」
アヤメの声は静かだった。
だが、その静けさの下に、押し殺した怒りがある。
「だから、認めない」
ロウセツが低く言った。
アヤメは彼を見た。
「ご存じのようですね」
「年寄りは昔話が多い」
「昔話では済まない段階に来ています」
「おっかねえな、白影宮の近習は」
「あなたよりは正規の役を持っています」
「そいつは痛い」
ロウセツは笑ったが、その声には力がなかった。
イロハは二人のやり取りを見ていた。
アヤメは、ロウセツを知らないわけではない。
ロウセツも、白影宮の事情を知らないわけではない。
また、自分だけが知らない話がある。
その感覚が、胸の奥で小さく苛立ちに変わる。
「皇女様には、面がない」
イロハは確認するように言った。
「でも、面箱はある」
「はい」
「その空の面箱に、月痕が浮かんでいる」
「はい」
「そして、白化面と同じように、役が喰われている?」
アヤメは、少しだけ沈黙した。
「正確には、喰われたはずの役を、皇女様だけが覚えています」
イロハは眉をひそめた。
「どういうことですか」
「白影宮の中で、小さな役の欠落が起きています。女房が、自分がどの部屋付きだったかを一時的に忘れる。御簾を上げる役の者が、御簾の前で立ち止まる。庭の月見池を掃く者が、池に近づけなくなる。いずれも短時間で戻りますが、その間、周囲はその者の役を曖昧に思い出せなくなる」
ユラが面を抱く手を震わせた。
「私と同じ……」
「はい」
アヤメは彼女へ視線を向けた。
「あなたの件は、白影宮で起きている異常とよく似ています。ただし、あなたの面は実際に白化した。こちらより進行が深い」
「白影宮では、誰も白化していないんですか」
「まだ」
その一語が、重く落ちた。
まだ。
それは、いずれ起きるかもしれないという意味だった。
「皇女様は、その欠落を覚えているんですか」
イロハが尋ねる。
「はい」
「周りが忘れても?」
「はい」
「本人よりも?」
「時には、本人よりも」
アヤメの目が暗くなる。
「自分が何の役だったか忘れた女房に、皇女様が言うのです。あなたは昨日まで、東廊の香を替える役だった、と。池に近づけなくなった庭番に、あなたは月見池の水面を毎朝整えていた、と」
「皇女様だけが、喰われた役を覚えている……」
イロハは、作業台の白化面を見た。
ユラは、自分が何を失ったかわからず怯えていた。
周囲も、彼女の役を曖昧に忘れかけていた。
もしその場に、失われた役を覚えている者がひとりいたなら、どれほど救いになるだろう。
だが同時に、どれほど恐ろしいだろう。
みなが忘れていく中で、ひとりだけ覚えている。
誰にも信じられない。
けれど自分だけは、消えていく役の形を見てしまう。
「それは、皇女様が面を持たないことと関係があるんですか」
「わかりません」
アヤメは初めて、はっきりと無知を認めた。
「わからないから、あなたを呼びに来ました」
「私に何ができると?」
「あなたは、白化した面の内側に月痕を見ました。仮面籍庁の検面官でも、正規の宮廷面師でも、ただの塗りの異常として処理しようとしたものを、役の欠落として見た」
「師匠でも見られます」
「ロウセツ=カガミは白影宮へ入れられません」
アヤメは冷たく言った。
ロウセツが肩をすくめる。
「だろうな。宮廷の床が俺の足跡を嫌ってる」
「あなたが嫌われているのは床ではありません」
「ひでえな」
「事実です」
ロウセツは軽口を返したが、否定はしなかった。
アヤメはイロハへ向き直る。
「あなたなら、皇女様の空の面箱を見られるかもしれない」
「空の面箱を見て、どうするんですか」
「そこに、本来あるはずだった面の痕跡が残っているかどうかを確かめていただきたい」
イロハは黙った。
本来あるはずだった面。
その言葉が、胸の奥に刺さる。
自分の《ナギノオモテ》は何なのか。
師匠が作った禁じられた面は、何を素材にしたのか。
皇女の未在面と、本当に関係があるのか。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、聞けば師匠ははぐらかす。アヤメも必要以上のことは言わないだろう。
ならば、自分で見るしかない。
面を見る。
それだけは、イロハにできる。
「白影宮へ行けば、皇女様に会うことになりますか」
「はい」
「皇女様は、私を呼んでいるんですか」
アヤメの表情が、わずかに揺れた。
その揺れは、迷いではない。
サヨ=ミカゲという名に触れた時だけ、護衛としての面の下から、ひとりの少女の感情が漏れたように見えた。
「皇女様は、あなたの名を知りません」
「では、あなたの判断ですか」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、皇女様のお言葉です」
アヤメは、少しだけ視線を伏せた。
「昨夜、空の面箱に新しい月痕が浮かびました。その時、皇女様が言ったのです」
工房の中が静まる。
「白い面を直す子が、近くにいる、と」
イロハの喉が乾いた。
「それは、私のことですか」
「わかりません。ですが今朝、白化した神楽面が面師小路へ運び込まれ、あなたが月痕を見た。偶然として片づけるには、重なりすぎています」
アヤメの目が、再び鋭くなる。
「ただし、私はあなたを完全には信用していません」
「さっき聞きました」
「もう一度言います。あなたの師匠は、皇女様の面に関わる禁忌を知っている可能性がある。あなた自身の面籍にも不明点がある。白影宮へ招くには危険があります」
「それでも呼ぶんですね」
「危険だからこそ、呼びます」
アヤメは静かに言った。
「安全な者たちは、何も見ようとしませんでした」
その言葉に、イロハは返せなかった。
宮廷面師。
仮面籍庁。
白影宮の内帳を管理する者たち。
彼らはきっと、安全な言葉を選んだのだろう。
漆の変質。
記録の薄れ。
一時的な役の混濁。
管理上の保留。
誰も、面が喰われているとは言わない。
誰も、皇女に面がないことを異常だとは言わない。
言葉を選ぶことで、目の前の穴から目を逸らしている。
「イロハ」
ロウセツが呼んだ。
イロハは振り返る。
「行くな、と言うんですか」
「言ったら聞くか?」
「聞きません」
「だろうな」
ロウセツは、困ったように笑った。
その顔は、ひどく疲れて見えた。
「なら、ひとつだけ覚えておけ」
「何ですか」
「白影宮で、自分の面箱を開けるな」
イロハの指が、また腰の鍵へ触れた。
「どうしてですか」
「さっきも言った」
ロウセツの目が、今度はまっすぐ彼女を見る。
「月が、まだ見てる」
イロハの視界の端で、白い残像がちらついた。
朝の工房にいるのに、まぶたの裏にはまだ満月がある。白化面に残った月痕を覗いた代償。その残像は、消えたと思うたびに、また光る。
もし白影宮の空の面箱を見れば、これより深い月痕に触れることになる。
イロハは、それを理解した。
それでも、足は引かなかった。
ユラが、白化面を抱えたまま小さく言った。
「イロハさん」
「はい」
「皇女様の面も、戻せるんですか」
イロハは答えに迷った。
戻す面がない。
なら、戻すとは何なのか。
あるべき役を探すことか。
まだない面を作ることか。
それとも、喰われる前から存在しなかった空白に、何かを置くことか。
わからない。
けれど、ユラの目は怯えていた。
自分と同じように、役を失いかけている誰かがいるのかもしれないと知った目だった。
イロハは静かに言った。
「見てみないと、わかりません」
それは慰めではない。
けれど、嘘でもない。
ユラは小さく頷いた。
「見てあげてください」
その言葉に、イロハの胸の奥が少し痛んだ。
ユラはまだ助かっていない。
自分の面も、役も、不安定なままだ。
それでも、誰かの空白を見てほしいと言う。
神楽師とは、そういうものなのかもしれない。
自分の舞だけではなく、神が降りる場所を、誰かのために空ける者。
アヤメが、戸口の外へ視線を向けた。
「白影宮の車を待たせています。人目が増える前に移動したい」
「今すぐ?」
「はい」
「ユラさんの面は」
「白影宮の名で、仮面籍庁の封印を一時差し止めます。ただし、月光には当てないでください。黒布を二重にかけ、今夜はこの工房で保管するのが安全です」
ユラが不安そうにイロハを見る。
イロハは頷いた。
「預かります。必ず」
セイが深く頭を下げた。
「お願いします」
ロウセツが白化面を受け取り、奥の棚から黒布を出した。布は古く、少し色褪せているが、月除けの祈り紋が薄く縫い込まれている。
彼はその布で面を包む手つきだけは、驚くほど丁寧だった。
「嬢ちゃん」
ロウセツはユラへ言った。
「今夜は舞うな。夢の中でもだ」
「夢の中でも?」
「面は夢の中でも稽古する。神楽師ならなおさらだ。今夜、夢で舞台が出てきても、上がるな」
ユラは真剣な顔で頷いた。
「はい」
イロハは道具袋を整えた。筆、小刀、白布、水札、仮札。白影宮へ行くにはあまりに簡素な装備だ。けれど、急な診立てならこれで足りる。
腰の鍵には触れないようにした。
触れれば、開けたくなる。
アヤメがそれを見ていた。
「あなたは、自分の面を持っているのですね」
イロハは少しだけ目を細めた。
「面師ですから」
「生面ですか」
「……そう聞いています」
「曖昧ですね」
「師匠が曖昧なので」
ロウセツが奥から言った。
「弟子の悪口は聞こえるぞ」
「聞こえるように言っています」
アヤメは、そのやり取りをじっと見ていた。
やはり疑っている。
イロハの面を。
ロウセツの過去を。
この工房そのものを。
それでも、彼女は来た。
信用ではなく、必要によって。
それで十分だった。
イロハは戸口へ向かった。
外に出ると、面師小路の朝はまだ続いていた。役面市では、誰かが新しい職面の値を尋ねている。子どもが面鈴を鳴らし、母親に叱られている。表通りの正規工房では、今日の修理受付を終える札が掛けられていた。
いつもどおりの都。
けれどイロハには、その美しさの下で、何かが少しずつ白く剥がれているように見えた。
役が薄れれば、人は見えなくなる。
面がなければ、皇女でさえこの国に存在できないのかもしれない。
アヤメは先に歩き出した。
白影宮の車は、路地を出た先に待っていた。黒塗りの小さな宮車で、車輪には布が巻かれ、音がしないようにされている。側面には白羽の紋と、細い月影の印。
その印を見た瞬間、イロハの視界にまた白い月がちらついた。
彼女はまばたきをした。
消えない。
けれど、歩く。
「イロハ」
背後からロウセツの声がした。
振り返ると、師匠は工房の戸口に立っていた。片手に煙管、もう片方の手は懐に入っている。その姿はいつも通りのだらしない路地裏の面師だった。
けれど、その目だけは違った。
まるで、ずっと前に自分が踏み込んだ場所へ、今度は弟子が向かっていくのを見ているような目だった。
「何ですか」
「宮廷の面は、こっちを見返してくる。見すぎるなよ」
「面師に、それを言いますか」
「腕のいい面師ほど、見すぎて戻れなくなる」
イロハは少しだけ笑った。
「師匠みたいに?」
「俺よりひどくなるな」
その言葉は軽口だった。
けれど、祈りのようにも聞こえた。
イロハは小さく頷いた。
「行ってきます」
ロウセツは、もう何も言わなかった。
アヤメが車の簾を上げる。
イロハは乗り込む前に、もう一度だけ空を見上げた。
朝の青空に、月はない。
それでも、どこかから見られている気がした。
誰かが、舞台の袖で笑っている。
まだ幕は上がっていないのに、もう次の役が選ばれ始めている。
イロハは息を吸い、宮車へ乗り込んだ。
車輪が静かに回り出す。
面師小路の音が、少しずつ遠ざかっていく。
白影宮へ。
面を持たない皇女のもとへ。
空の面箱に残る、月の噛み跡を見るために。




