第五節 ― 師匠の警告
戸を叩く音は、もう一度響いた。
こん、という乾いた音だった。
強くはない。
けれど、待つつもりのない音だった。
面師小路の客は、たいてい遠慮がある。
正規の店に断られ、最後に路地裏の工房へ来る者は、戸の叩き方からして少し弱い。助けを乞う者の手は、木戸に触れる前から迷っている。あるいは、恥や不安を怒りに変えて、乱暴に叩く者もいる。
だが、今の音は違った。
ここがどんな工房で、誰がいるかを承知した上で、開けろと命じている音だった。
ロウセツは戸口を見ずに、煙管を拾った。
「おい、イロハ」
「開けます」
「まだ開けるな」
「でも」
「三度目までは客だ。四度目から役所だ」
ふざけた言い方だった。
けれど、その横顔は少しも笑っていなかった。
イロハは戸へ向かいかけた足を止めた。視界の端では、白い月の残像がまだ薄く揺れている。作業台の上には、仮置きを終えたばかりの白化面。ユラはそれを胸に抱き、セイは庇うように立っている。
戸の向こうにいる者が何者であれ、今この面を見せるのは危うい。
三度目の音がした。
こん。
工房の中で、吊るされた面鈴がかすかに震えた。
ロウセツはゆっくり立ち上がり、戸口へ向かわず、逆に作業台へ近づいた。
「その面、寄越せ」
ユラが一瞬、腕に力を込めた。
「嫌です」
ロウセツは片眉を上げる。
「おう。いい返事だ」
「これは、わたしの面です」
「ああ。だからだ」
その声は、先ほどまでの軽さを少し失っていた。
「自分の面を守りたいなら、今は面師に預けろ。外の連中に見られたら、たぶん戻らねえ」
ユラの顔が強張る。
「戻らない……?」
「役所に持っていかれる。検分だの封印だの言われてな。そうなれば、嬢ちゃんの舞は帳の上でいったん死ぬ」
セイが息を呑んだ。
「そんな。白化しただけで」
「白化した“だけ”だと、役所が思ってくれりゃいいがな」
ロウセツは白化面へ視線を落とした。
「こいつは壊れたんじゃない。喰われたんだ」
工房の空気が、重く沈んだ。
ユラは面を抱えたまま、かすかに震えている。
イロハはロウセツを見た。
「月にか?」
自分の声が、思ったより低く響いた。
ロウセツは煙管をくわえ直し、火のついていない先を指で弾いた。
「ああ。名ではなく、役をな」
その言葉は、工房の奥まで届いた。
白い面にかけられた布が、ゆっくりと息をするように揺れた気がした。
イロハは一歩近づいた。
「師匠。知っていたんですか」
「何を」
「白化のことです」
「面が白くなることくらい、古い面師なら知ってる」
「誤魔化さないでください」
イロハの声に、セイとユラが顔を上げた。
ロウセツはいつものように肩をすくめた。
「おっかねえ弟子だな。客の前で師匠を詰めるなよ。師匠の面子ってもんがある」
「師匠に残っている面子なんて、資格剥奪の時に役所へ置いてきたでしょう」
「痛いとこ刺すねえ」
「答えてください」
ロウセツは笑った。
口元だけで。
目は、白化面の奥を見ていた。
「似た記録なら、宮廷にあった」
その一言で、イロハの背筋が冷えた。
宮廷。
その言葉は、ロウセツが普段もっとも軽く扱うものだった。酒の肴にし、昔話の種にし、くだらない儀礼や高慢な役人を笑う時にだけ出す。
けれど今の声は違った。
捨てたはずの場所が、まだ彼の中で血を流しているような声だった。
「宮廷にも、面が白くなる事件があったんですか」
「事件ってほどじゃない」
「だったら何ですか」
「記録に残らなかった」
イロハは黙った。
記録に残らなかった。
それは、何も起きなかったという意味ではない。
この国では、記録に残らないものほど危ない。
仮面籍庁の帳に載らない人間。
宮廷の演目から消された役。
家の奥にしまわれ、誰にも見せられない面。
記されなかったものは、なかったことにされる。
そして、なかったことにされたものほど、古い木目の奥で腐らず残る。
「いつの話ですか」
「忘れた」
「師匠」
「忘れたことにしてある」
ロウセツは、軽く言った。
けれどその軽さが、かえって重かった。
戸の外で、四度目の音がした。
こん。
ロウセツは目だけを戸へ向けた。
「役所だな」
セイが青ざめた。
「なぜ、こんなに早く」
「白化面を担いで朝の面師小路を走れば、そりゃ目立つ。しかもウズメの舞殿の面だ。面籍院の耳に入らねえほうがおかしい」
イロハは白化面を見た。
「師匠、宮廷の記録には何があったんですか」
「今それ聞く?」
「今聞かないと、師匠はまた逃げます」
「逃げる役なら得意だ」
「真面目に」
ロウセツは黙った。
灯明皿の火が、小さく揺れる。
沈黙の中で、外から人の気配がした。ひとりではない。足音は三つ、あるいは四つ。整った履物の音。金具の鳴る音。職人でも舞手でもない。役を執行する者の足音だった。
ロウセツは白化面へ布をかけ直した。
「宮廷で白くなったのは、面じゃねえ」
イロハは眉をひそめた。
「面じゃない?」
「面箱だ」
ユラが小さく息を呑んだ。
セイが聞き返す。
「面箱が白く?」
「中身のない面箱だ」
ロウセツの声は低かった。
「あるべき面が入っていない。だが、箱だけはあった。黒漆の高位面箱だ。皇族の面を納めるためのな」
イロハの胸の奥で、何かが軋んだ。
皇族の面。
その言葉は、路地裏の面師が軽く触れてよいものではない。
天帝宮に仕える者、皇族、国家神楽に立つ者たちの面は、ただの役面ではない。家、血、国家、神前での役が重なった、もっとも重い面だ。そこに異常があったなら、普通は都中の御面師が集められる。
けれど、記録に残っていない。
「それは、誰の面箱ですか」
イロハが尋ねた。
ロウセツは答えなかった。
答えないことで、答えに近いものを示した。
皇女。
その語が、イロハの喉元まで上がってきた。
けれど口にする前に、ロウセツが煙管の先で彼女を制した。
「言うな」
「でも」
「言えば、戸の外に聞こえる」
イロハは口を閉ざした。
戸の向こうで、誰かが咳払いをした。こちらの沈黙を聞いている。明らかにそういう間だった。
ロウセツは、何でもないことのように続けた。
「その面箱には、月痕があった」
イロハの視界の端で、白い月がまたちらついた。
「箱に?」
「ああ。面がないのに、箱の内側だけが噛まれていた。まるで、まだ作られていない面を、先に喰ったみたいにな」
ユラが不安そうに白化面を抱きしめる。
セイは何も言えない。
イロハだけが、息を止めていた。
まだ作られていない面。
あるべきなのに存在しない面。
役だけが先に喰われた面。
「師匠は、それを見たんですか」
「見てねえ」
「嘘です」
「じゃあ、見た」
「どっちですか」
「記録上は見てねえ」
ロウセツは皮肉っぽく笑った。
「便利な言葉だろう。宮廷じゃ、そういうことがよくある。見た者がいても、見ていないことになる。作った者がいても、作らなかったことになる。壊した者がいても、最初からなかったことになる」
イロハの手が、無意識に腰元へ触れた。
そこには、道具袋の奥に隠した小さな鍵がある。
その鍵で開ける黒い小箱。
中にしまわれている、白布に包まれた面。
《ナギノオモテ》。
師匠が自分に与えた面。
生面を失い、仮面籍もなく、どこにも属さなかった自分に、役を与えた面。
けれど今、その面の由来を考えると、胸の奥がざわついた。
「私の面も、関係があるんですか」
ロウセツの表情が、ほんの一瞬だけ消えた。
それは、白化面のような空白ではなかった。
隠していた痛みが、隠し布を裂いて覗いたような無表情だった。
「何の話だ」
「また誤魔化す」
「誤魔化される弟子に育てた覚えはねえな」
「なら答えてください」
イロハは一歩詰めた。
「《ナギノオモテ》は何なんですか。私の生面だと、師匠は言いました。でも、普通の生面じゃない。役が入っている。家の面なのに、職面みたいに動く。職面なのに、神前の祈面みたいに反応する」
言葉にすればするほど、ずっと見ないふりをしてきた違和感が形を持つ。
「今日の白化面を見た時、似ていると思いました。白さじゃない。空白の感じが」
ロウセツは何も言わない。
「私の面は、何かを喰われた後の面なんですか。それとも、喰われる前に作られた面なんですか」
「イロハ」
その声は、いつもの師匠の声ではなかった。
ロウセツ=カガミという男の奥に、かつて宮廷御面師だった者の声が残っていた。
静かで、硬く、こちらを遠ざける声。
「その問いは、まだ早い」
「早いって、いつならいいんですか」
「お前が、それを聞いても自分の面を外さずにいられる時だ」
イロハは言葉を失った。
外す。
その一語が、胸の奥に冷たく落ちる。
彼女は普段、《ナギノオモテ》を顔につけて歩いているわけではない。けれど、その面は彼女の存在を支えている。仮面籍の上で、イロハ=ナギがこの世に立つための根になっている。
それを外すとは、ただ面を取ることではない。
自分が何者として存在しているのか、その足場を外すことだ。
「私の面は、危ないものなんですか」
ロウセツは、いつものように笑おうとした。
失敗した。
「面なんざ、どれも危ねえよ」
「師匠」
「顔を与える道具だ。危なくないわけがねえ」
「そういう話では」
「そういう話だ」
ロウセツの声が少しだけ強くなった。
「面は、人を救う。役を与え、居場所を与え、神前へ立たせる。だが、同じだけ人を縛る。役を間違えれば、そいつは一生、違う顔で生きることになる」
イロハは黙った。
「俺は昔、それを少し甘く見た」
戸の外で、金具が鳴る。
待っている者が、苛立ち始めている。
けれどロウセツは、もうそちらを見なかった。
「まだない役を、この世に呼べると思った。役を持たないやつに、役を与えられると思った。面師ってのは、そういうことができる職だと、うぬぼれた」
イロハは息を詰めた。
それは、初めて聞く師匠自身の罪の輪郭だった。
「それで、資格を剥奪されたんですか」
「表向きはな」
「表向き?」
「役所の帳に書ける罪と、書けねえ罪がある」
ロウセツは指先で作業台を叩いた。
こん、と小さな音がする。
戸を叩く音と似ていた。
「俺が帳に書かれた罪は、手続きなしに面を作ったことだ。仮面籍庁を通さず、存在しないはずの子に面を与えたこと。まあ、そいつだけでも首が飛ぶには十分だな」
イロハの手が震えた。
存在しないはずの子。
それは自分のことだ。
「じゃあ、書けない罪は?」
ロウセツは、少しだけ目を伏せた。
「まだ言わねえ」
「師匠」
「今言えば、お前は白化面より先に自分の面を開ける」
イロハは反論できなかった。
その通りだったからだ。
今すぐ黒い小箱を開け、《ナギノオモテ》の内側を確かめたい。月痕がないか。白化面と同じ噛み跡がないか。あるいは、まだない役の跡が刻まれていないか。
確かめたい。
だが、怖い。
自分を救った面が、誰かの役から作られたものだったら。
自分に与えられた役が、本来は別の誰かのものだったら。
それが、皇女の面に関わるものだったら。
「……皇女の面箱と、私の面は関係があるんですね」
ロウセツは答えなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。
ユラとセイは、何か重大なことが話されているとわかりながらも、口を挟めずにいる。白化面を抱くユラの手に、また力が入っていた。
ロウセツは、ようやく煙管を懐にしまった。
「いいか、イロハ」
彼は低く言った。
「今日の白化面は、小さい裂け目だ。だが裂け目ってのは、布と同じでな。一度ほつれると、引っ張ったやつの手元まで裂けてくる」
「引っ張ったやつ?」
「月に決まってるだろ」
ロウセツは、白い面を見た。
「名を喰う月。昔はそう呼んだ」
その言葉を聞いた瞬間、イロハの視界に浮かぶ白い残像が、鋭く瞬いた。
名を喰う月。
それは初めて聞く言葉のはずだった。
けれど、どこかで知っていたような気がした。
《ナギノオモテ》を初めて顔に近づけた日。
黒い小箱の内側に見えた、白い光。
師匠があの日、妙に早く箱の蓋を閉めたこと。
忘れていた記憶ではない。
まだ意味を与えられていなかった記憶だった。
「月は、名を喰うんじゃなかったんですか」
イロハが言うと、ロウセツは鼻で笑った。
「名なんて、いちばん外側だ」
「外側?」
「この国じゃ、名より役が重い。だから、月はまず役を喰う。役を喰えば、周りの記憶が揺らぐ。周りが揺らげば、面籍が揺らぐ。面籍が揺らげば、最後に名が浮く」
彼は指を一本ずつ折った。
「役。面。帳。名。その順だ」
イロハは、ユラを見た。
彼女の名はまだ残っている。家も、顔も、周囲の一部の記憶も残っている。
けれど舞台へ立つ役が抜けたことで、彼女の周りの人々は少しずつ迷い始めていた。
あの子は神楽師だったか。
ただの舞見習いでは。
そもそも、その演目に必要だったか。
そうして世界は、彼女の足元を削っていく。
「どうして、そんなものが今になって」
「さあな」
ロウセツは軽く言った。
けれどその目は、戸口のほうを向いていた。
「外に聞いてみるか?」
五度目の音がした。
今度は、木戸ではなく、金具で叩く音だった。
こん、ではない。
かん。
役所の印を持つ者が、面師の戸を叩く時の音。
「開門を願う」
戸の外から、整った声がした。
「仮面籍庁、検面方である。ロウセツ=カガミ、および中級面師イロハ=ナギ。白化面に関する届け出なき修復の疑いにより、面の検分を行う」
ユラが震えた。
セイが彼女を庇うように前に出る。
イロハは歯を食いしばった。
「早すぎる」
「早いのが役所の唯一の取り柄だ」
ロウセツはまた軽口を叩いた。
だが目は笑っていない。
彼は白化面を見て、ユラを見て、それからイロハを見た。
「よく聞け、弟子」
「はい」
「役所の前で、月の話はするな。白化と言うな。仮置きも言うな。ましてや皇女の面箱なんぞ、口が裂けても言うな」
「でも、ユラさんの面は」
「守りたいなら、言葉を選べ」
ロウセツは言った。
「面師はな、面だけ直すんじゃねえ。言葉で役を壊さないようにするのも仕事だ」
イロハは白い月の残像をまばたきで押し込めた。
怖さは残っている。疑問も残っている。師匠への怒りも、胸の奥で熱を持っている。
けれど今は、目の前の面を守る時だった。
ユラの舞を、完全に消させないために。
イロハは小さく頷いた。
「わかりました」
「いい返事だ」
ロウセツは笑った。
ようやく、いつもの軽さが少し戻った。
「じゃあ、役所相手の舞を始めるか」
彼は戸へ向かった。
その背中は、くたびれた路地裏の面師のものだった。
けれど一瞬だけ、イロハには別の姿に見えた。
宮廷の奥で、まだない面を前に立つ、若き日の御面師。
禁じられた役に手を伸ばし、その罪を知りながら、それでも彫刻刀を置けなかった男。
ロウセツは戸の前で立ち止まり、振り返らずに言った。
「イロハ」
「はい」
「自分の面箱は、今日は開けるな」
イロハの手が、腰の鍵に触れた。
「なぜですか」
「月が、まだ見てる」
その言葉が落ちた瞬間、視界の端の白い残像が、またちらついた。
ロウセツは何事もなかったように戸を開けた。
朝の光とともに、黒い官面をつけた検面官たちが、工房の中を覗き込んだ。




