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第四節 ― 仮置き

 工房へ戻ると、朝の光は少し傾いていた。


 つい先ほどまで満ちていた木粉の匂いが、妙に遠い。壁に吊るされた面たちは、何も言わずにこちらを見ている。笑う面も、怒る面も、眠る面も、今は息を潜めていた。


 作業台の上に、白い神楽面が置かれる。


 ユラはその前に座った。


 セイは彼女の少し後ろに立ち、何度も何度も何かを言いかけては、言葉を飲み込んでいる。慰めたいのだろう。けれど、慰めの言葉が役を戻すわけではないと、彼自身もわかっている。


 ロウセツは工房の奥で、古い灯明皿に小さな火を入れた。


 明るい朝に灯すには、頼りない火だった。けれど面の修復において、火はただ照らすためのものではない。面の内側に残った役の影を、浮かび上がらせるためのものだ。


「イロハ」


 ロウセツが低く呼んだ。


「やるなら、面だけ見るな。舞手の息も見ろ」


「わかっています」


「わかってねえやつほど、そう言う」


「師匠は黙っていてください」


「黙る役は持ってねえな」


「今だけ作ってください」


 ロウセツは、ふっと笑った。


 その笑いは軽かったが、目はやはり笑っていなかった。


 イロハは道具袋から、小筆を一本取り出した。普段使う修復用の筆ではない。柄は黒檀、穂先は細く、金ではなくくすんだ銀の留め具がついている。面に色を入れるためではなく、面の内側に残った役の線をなぞるための筆だった。


 次に、小さな白木の札を取り出す。


 何も書かれていない札。


 まだ名も役も持たない、空白の札だ。


 セイが不安そうに尋ねる。


「それは?」


「仮札です」


「仮札……?」


「失われたところに、一時的な足場を置くためのものです。正式な面籍にはなりません。役を戻すものでもありません」


 イロハは白い面の内側に視線を落とした。


「ただ、残っているものを一度だけ通す」


 ユラは膝の上で手を握りしめた。


「一度だけ」


「はい」


「それが終わったら、また忘れるんですか」


 イロハは筆を持つ手を止めた。


 答えにくい問いだった。


 完全に戻る、と言えればよかった。大丈夫だと、何も怖くないと、言えればよかった。


 けれど、面は嘘を嫌う。


 特に壊れかけた面は、慰めの嘘をすぐに拒む。


「忘れるというより、遠くなります」


 イロハは静かに言った。


「でも、一度通せば、道は残ります。今は何も見えなくても、足跡がつく」


 ユラは涙の跡が残る顔で、じっとイロハを見た。


「わたし、足跡を覚えていられるかな」


「覚えようとしなくていいです」


「え?」


「舞は、思い出すものではなく、通るものだから」


 イロハは面へ向き直った。


「たぶん、あなたはそれを知っていたはずです」


 ユラの目が揺れた。


 その言葉の意味を、今の彼女は完全には受け取れない。けれど、体のどこかが覚えていたのだろう。結んでいた指が、少しだけほどけた。


 イロハは仮札を白い面の内側に置いた。


 月痕の上ではない。

 噛み跡のすぐ横。


 傷口を塞ぐのではなく、傷口のそばに立つ。失われたものを無理に戻すのではなく、残っているものが通るだけの橋を置く。


 イロハは筆の先を水に浸した。


 墨ではない。朱でもない。


 ただの水だ。


 役を仮に置く時、色は使わない。色を入れれば、その役は形を持とうとしてしまう。今必要なのは、形ではなく、通り道だった。


 筆先が、面の内側に触れる。


 その瞬間、イロハの視界が白くちらついた。


 月だ。


 昨夜の満月の残響が、面の奥にまだ残っている。白く、薄く、けれど鋭い。眼を閉じても見える光だった。


 イロハは歯を食いしばった。


 月痕の噛み跡が、筆先を拒むように冷たく疼く。


 それでも彼女は線を引いた。


 一線。


 袖が上がる軌跡。


 二線。


 足が床を待つ沈黙。


 三線。


 鈴が鳴る前の、世界が息を止める瞬間。


 面の内側に、水の線が浮かんでは消えていく。消えたはずの線は、木に染み込んだのではない。もっと奥、面が記憶している役の層へ沈んでいく。


 ユラが小さく息を吸った。


「……あ」


 その声は、驚きではなかった。


 遠くから呼ばれた者が、ふと振り返るような声だった。


 イロハは面を持ち上げた。


「着けられますか」


 ユラは怖がるように首を振りかけた。


 けれど、その途中で止まった。


 白い面を見つめる。


 何の表情もない面。自分から舞を奪った面。自分が何者なのかを曖昧にした、恐ろしい白。


 それでも、その奥に何かが戻りかけている。


 ユラは両手を差し出した。


「着けます」


 セイが思わず前に出た。


「ユラ、無理は」


「大丈夫」


 ユラは震えながらも、面から目を逸らさなかった。


「怖いけど、わたしの面だから」


 イロハは、ゆっくりと面を渡した。


 ユラの指が白い面に触れる。触れた瞬間、彼女の肩が跳ねた。冷たかったのだろう。だが手は離さない。


 面紐を結ぶ時、セイが手伝おうとした。


 ユラは首を振った。


「自分で」


 その声には、細いけれど確かな意志があった。


 彼女は面を顔へ近づける。


 白い面が、少女の顔を覆った。


 その瞬間、工房の中の火が小さく揺れた。


 何も起こらなかった。


 少なくとも、最初はそう見えた。


 だが、次の息で変わった。


 ユラの背筋が、すっと伸びた。


 崩れていた肩の線が整う。指先が柔らかくほどける。膝の力が抜ける。彼女の足が、自分の重さを思い出していく。


 セイが息を呑んだ。


「ユラ」


 ユラは答えない。


 答える代わりに、一歩下がった。


 工房の板床を、足袋の裏が静かに撫でる。狭い。舞台ではない。作業台があり、面棚があり、吊るされた古面が頭上に並ぶ。神楽を舞うには、あまりに不十分な場所。


 けれど、ユラはそこを舞台にした。


 右手が胸元へ添えられる。


 左の袖が、ゆっくりと持ち上がる。


 先ほど外で止まった動きだった。


 今度は止まらない。


 袖が上がるにつれて、白い面の奥に、淡い色が戻ったように見えた。頬に紅が差したのではない。目元に墨が戻ったのでもない。面の奥で、消えかけた役の線が、ほんの一瞬だけ呼吸を取り戻したのだ。


 イロハは見た。


 袖の軌跡が、空気に残る。


 見えないはずの鈴の紐が、ユラの指にかかる。


 彼女の足が床を打った。


 とん。


 軽い音だった。


 けれど、その一音で工房の空気が変わった。


 木粉の匂いも、漆の匂いも、古い面の沈黙も、すべてが一瞬だけ舞台の気配へ変わる。


 ユラは動いた。


 右足を引き、袖を返し、首をわずかに傾ける。面の白さはそのままなのに、その白さの内側に何かが宿っていく。笑っていないはずの口元が、笑いを待っているように見える。閉じていない目が、まだ現れぬ神を迎えるように伏せられる。


 そして、沈黙が来た。


 深い沈黙だった。


 音が消えたのではない。


 工房の外では役面市の声がしているはずだった。車輪の音、職人の会話、面鈴の揺れ。すべては存在している。


 けれど、その一瞬、世界はユラの周りだけを空けた。


 神が入るための余白。


 誰も動けなかった。


 セイは息を止めていた。ロウセツでさえ、煙管に手を伸ばしかけたまま止まっている。壁に掛けられた面たちもまた、ユラの舞を見ているようだった。


 ユラの指が、何もない空中を弾いた。


 鈴が鳴った。


 そこには鈴などなかった。


 けれど、確かに鳴った。


 ちりん、と。


 音は細く、透明で、朝の光の中に溶けていった。


 ユラの白い面が、ほんの一瞬だけ笑った。


 それは月の笑みではない。

 喰うものの笑みではない。


 神を迎える前に、人が世界へ仕掛ける、最初の笑みだった。


 ウズメの気配が、工房の梁のあたりを掠めたように思えた。


 笑うことは、隠されたものをこじ開ける。

 舞うことは、まだない役を一瞬だけこの世へ呼ぶ。

 ならば、失われた役もまた、舞の中で一度だけ帰ってくることがある。


 ユラは最後の一歩を踏んだ。


 袖がゆっくりと落ちる。


 沈黙が解けた。


 世界の音が戻る。


 役面市の声。外を通る荷車の軋み。遠くで鳴る朝の鐘。灯明皿の火が、ぱちりと小さく鳴った。


 ユラは立っていた。


 面をつけたまま、両手を下ろし、肩で息をしている。


 セイの目に涙が浮かんでいた。


「ユラ……今の」


 ユラはゆっくりと面に手をかけた。


 外す。


 その下の顔は、泣いていた。


「思い出した」


 声が震えている。


「少しだけ。でも、思い出した。わたし、ここで待つんだ。笑う前に、神様が隠れている場所を、みんなで見つめるんだ」


 彼女は胸を押さえた。


「その沈黙が、好きだった」


 イロハは頷いた。


 だが同時に、白い面の奥で、さきほど浮かんだ線がまた薄れていくのも見えていた。


 仮置きは、仮置きでしかない。


 水で引いた役の線は、長くは残らない。


 ユラの手の中で、白い面はふたたび表情を失い始めていた。ほんの一瞬だけ宿った笑みが、朝霧のように薄れていく。袖の軌跡も、鈴の音も、神を迎える沈黙も、また面の奥へ沈んでいく。


 ユラもそれに気づいたのだろう。


 彼女は面を抱きしめた。


「消えちゃう」


「完全には消えません」


 イロハは言った。


「今、通った道は残ります。細くても、残る」


「じゃあ、また舞える?」


「すぐには無理です。でも、辿れるようになります」


 ユラは涙を拭き、何度も頷いた。


「よかった」


 その言葉は、とても小さかった。


「わたし、何を失くしたのかもわからないままじゃなかった」


 イロハは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 何を失くしたのかわからないこと。


 それが、どれほど人を不安定にするか、彼女は知っている。


 ロウセツが静かに近づき、白い面を覗いた。


「仮置きは成功だな」


「一節だけです」


「一節でも上等だ」


「でも、月痕は残っています」


「ああ」


 ロウセツの声は重かった。


「一度噛まれた面は、また狙われる」


 ユラの肩が強張る。


 イロハは師匠を睨んだ。


「言い方」


「優しく言えば月が遠慮するのか」


「そういう問題ではありません」


「そういう問題だ。怖いものは怖いと知っておいたほうがいい」


 ロウセツは白い面から目を離さずに言った。


「嬢ちゃん、その面を今夜、月に当てるな。舞殿にも戻すな。面箱に入れ、黒布をかけろ。月の光が差す部屋にも置くな」


 ユラは真剣に頷いた。


「はい」


 セイも頭を下げる。


「ありがとうございます。ユラを……舞を、戻してくれて」


「戻してはいません」


 イロハは静かに訂正した。


「まだ、繋いだだけです」


 そう言った瞬間、視界が白く揺れた。


 イロハは作業台に手をついた。


 目の前に、白い月がちらつく。


 朝の工房にいるはずなのに、まぶたの裏に満月が浮かんでいた。丸く、白く、近い。昨日の夜空にあったものではない。面の内側から見た月だ。喰うために近づいてきた月。


 白い歯のような光が、視界の端を噛む。


「イロハ?」


 ユラの声が遠く聞こえた。


 イロハは目を閉じ、息を整える。


 視界の白は、すぐには消えなかった。


 仮置きは、失われた役の道を一時的に開く技だ。


 だが道を開けば、こちらもまた、その喰われた場所を覗くことになる。


 月が見たものを、こちらも見てしまう。


 月に見返される。


「大丈夫です」


 イロハは目を開けた。


 工房は元の工房だった。


 木粉の匂い。漆の匂い。灯明皿の小さな火。白い面を抱くユラ。心配そうに覗き込むセイ。腕を組んだロウセツ。


 けれど、視界の奥にはまだ白い月の残像がある。


 薄く、ちらちらと。


 まるでまばたきのたびに、誰かが空からこちらを覗いているようだった。


 イロハはその残像を無理に追い払わなかった。


 追い払えば、恐怖になる。


 見据えれば、痕跡になる。


 彼女は白い面を見た。


 面は再び無表情に戻りかけている。けれど、完全な空白ではない。内側に、細い水の線が残っていた。


 袖の軌跡。


 床を打つ足。


 鳴らなかったはずの鈴。


 それは、失われた役がまだ世界から完全には消えていない証だった。


 ユラは面を胸に抱き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、イロハさん」


 イロハは少し迷い、それから言った。


「次は、ちゃんと直します」


 ユラは涙の残る顔で笑った。


「はい」


 その笑みを見て、イロハはようやく少しだけ息を吐いた。


 だが、安堵は長く続かなかった。


 工房の外で、面鈴が一斉に鳴った。


 風のせいではない。


 誰かが、表の通りからこちらへ向かって来ている。


 整った足音。

 迷いのない歩幅。

 腰に下げた金具が、かすかに鳴る音。


 ロウセツが眉を上げた。


「客だな」


「この流れで、いい客ですか」


「いい客がうちに来ると思うか?」


 イロハは返事をしなかった。


 白い月の残像が、視界の端でまたちらついた。


 次に戸を叩いた音は、縋るものではなかった。


 命じる者の音だった。

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