第三節 ― 役を失うということ
面が震えた。
それは、目に見えるほど大きな揺れではなかった。白布の端がほんの少しだけ波打ち、面の内側で何かが浅く息をしたように見えただけだ。
けれど、イロハはその震えを見逃さなかった。
彼女はすぐに指を離した。
白い面は、ふたたび何の表情も持たないものへ戻る。
「今は、まだ置けない」
イロハは低く言った。
ユラが顔を上げる。
「どうしてですか」
「どこが失われているのか、もう少し見ないと危ないです。無理に役を置けば、残っているところまで剥がれるかもしれない」
ユラの唇から、かすかに息が漏れた。
セイが彼女の肩に手を添える。
「ユラ、大丈夫だ。焦るな」
「でも」
ユラは自分の膝を見た。
「焦らないと、どんどん遠くなる気がするの」
その言葉に、工房の面たちが沈黙したように見えた。
イロハは白い面に布をかけ直し、立ち上がった。
「舞台へ立てますか」
「え?」
「ここではなく、外で。実際に舞台へ上がろうとした時、どこで止まるのか見たい」
セイが眉を寄せた。
「今のユラに舞台は――」
「舞う必要はありません。立とうとするだけでいい」
「立つだけ?」
ユラは戸口のほうを見た。
工房の外には、面師小路へ続く細い石畳がある。その先には、役面市の裏に設けられた小さな稽古舞台があった。正式な神楽を奉納する場ではない。面の調整や舞手の足合わせに使われる、裏職人たちのための簡素な板敷きだ。
それでも舞台は舞台だった。
踏み込む者の役を、足元から問い返す場所である。
ユラはゆっくり立ち上がった。
名は覚えている。
家も覚えている。
自分がウズメの舞殿に通っていたことも、師匠の名も、稽古場の匂いも、朝の足慣らしも覚えている。
けれど、立ち上がったその姿には、ひどく不安定なものがあった。
少女は自分の体を持て余しているようだった。
面を失った顔ではない。
役を失いかけている体だった。
イロハは作業台の白い面を小箱に入れ、布で包んだ。直に持たせるのは危険だと判断した。セイがその箱を抱えようとしたが、イロハは首を振る。
「私が持ちます」
「でも」
「今は、持ち主に近づけすぎないほうがいい」
ユラが肩を震わせた。
「わたしの面なのに?」
イロハは一瞬、答えに詰まった。
面は持ち主のものだ。
けれど今、その面はユラを守るものではなく、ユラの失われた部分へ繋がる傷口になっている。
「戻すためです」
そう言うしかなかった。
ユラは小さく頷いた。
工房の戸を開けると、朝の光が一気に差し込んだ。
面師小路は、すでに騒がしくなっていた。表通りの店からは、客を呼ぶ声が聞こえる。子どもが面鈴を鳴らし、紐師の店先では色とりどりの組紐が風に揺れていた。古面商の老人が、買い取ったばかりの冥面を布で拭いている。漆職人が乾き具合を確かめるため、板に指を当てている。
いつもの朝。
けれど、ユラが路地へ出た瞬間、何人かが振り返った。
最初は心配そうな視線だった。
ウズメの舞殿の稽古袴を着た少女が、青ざめた顔で歩いている。隣には同じ舞殿の若い舞手。後ろには裏工房の面師。何かあったと考えるには十分だった。
だが、数歩進むうちに、その視線の質が変わった。
「あれ、誰だ?」
紐師の女が小声で言った。
「ウズメの舞殿の子じゃないかい」
「そうだったかね。見たことはあるような気もするけど」
ユラの足が止まりかけた。
セイが振り返る。
「ユラだよ。シラビョウのユラ。去年の春祭りで、呼び笑いの控えを舞っただろ」
「ああ……そうだったかねえ」
紐師の女は、悪気なく首を傾げた。
「でも、あの子は鈴持ちじゃなかったかい? 神楽師というより、舞台の脇で鳴らす子だったような」
ユラの顔から、さらに血の気が引いた。
「違う」
声が小さく漏れる。
「わたし、舞ってた」
女は慌てたように手を振った。
「ああ、悪いね。年を取ると物覚えが曖昧で」
その言葉は慰めのつもりだったのだろう。
だがイロハにはわかった。
これは、ただの物忘れではない。
白化面から失われた役が、周囲の記憶の中でも薄くなり始めている。
名は残っている。
顔も残っている。
だが、その者が何者として世界に立っていたのかが、少しずつ見えなくなっている。
それが、役を喰われるということだった。
小さな稽古舞台の前には、すでに数人の職人と舞手が集まっていた。面師小路の裏舞台は、朝のうちに調整を済ませる者たちがよく使う。今日は、古い鬼面の重さを確かめる武舞の男と、祭面の紐を直している神楽師の女がいた。
女神楽師は、ユラを見るなり近づいてきた。
「ユラ、無事だったの」
その声には本物の心配があった。
ユラの表情が少しだけ明るくなる。
「サナ先輩」
「昨夜は大変だったって聞いて……」
サナと呼ばれた女は、そこで言葉を切った。
眉をひそめる。
「昨夜、あなた……何をしていたんだっけ」
セイの顔が強張った。
「サナさんまで」
「違うの。覚えているのよ。月迎えの稽古だった。外庭にいた。面が白くなった。それは覚えている」
サナは自分の額に手を当てた。
「でも、あなたがどの一節を任されていたのかが、思い出せない。呼び笑いは、たしか……」
彼女は舞台の板を見る。
「誰が舞うはずだった?」
沈黙が落ちた。
ユラは口を開いた。
「わたしです」
サナはユラを見た。
その目には、信じたいという気持ちがあった。けれど同時に、記憶がその言葉を支えられずにいる戸惑いがあった。
「そう、だったわね。あなたが……そうよ。そうだったはず」
だが言葉の最後が揺れた。
揺れた瞬間、ユラの体も揺れた。
イロハは小箱を抱え直した。
役は、本人だけの中にあるものではない。
商人が商人であるのは、自分が商うからだけではない。客がその者を商人として見、役所が職面を認め、家がその仕事を受け継がせ、街がその店を店として扱うからだ。
神楽師も同じだった。
舞を覚えているだけでは神楽師ではない。舞殿が舞手として認め、観る者がその役を受け取り、神前に立つ面がその者を器として許す。そうして初めて、ひとりの舞手は神楽師になる。
月は、そこを喰う。
名だけを消すのではない。
記憶だけを奪うのでもない。
その人が世界で担っていた役を、関係ごと削っていく。
「舞台へ」
イロハは言った。
ユラは頷いた。
稽古舞台は、三段ほどの低い板敷きだった。朱塗りの正式な舞台とは違い、ところどころ傷があり、板の継ぎ目には古い漆が詰まっている。けれど、舞手が足を置く場所だけは磨かれていた。幾人もの足が、そこに役を刻んできたからだ。
ユラは舞台の前に立った。
右足を上げる。
板へ乗せようとする。
止まった。
ほんの一寸のところで、足が空中に留まった。
ユラの額に汗が滲む。
セイが息を呑んだ。
「ユラ」
「わかってる」
ユラの声は震えていた。
「上がればいいだけ。いつも通り。右足から、板の目を見て、袖を乱さないように、息を浅くしないで」
言葉は出る。
知識はある。
体も覚えているはずだった。
だが足は下りない。
舞台が、彼女を受け入れないのではない。
彼女自身が、舞台へ立つ役を見つけられなくなっている。
「普通に歩いてください」
イロハが言った。
ユラは戸惑いながら、舞台の横を通って裏へ回った。そこには板を磨くための低い踏み台がある。舞台としてではなく、作業場としてなら上がれる場所だ。
ユラは、そこには簡単に足を置けた。
何の抵抗もない。
セイが呆然とした。
「歩けるのに」
「歩く役は失っていません」
イロハは答えた。
「でも、舞台へ立つ役が抜けています」
ユラは踏み台の上で立ち尽くした。
目の前に舞台がある。
ほんの少し先に、彼女が何度も立ったはずの板がある。
けれど、そこが遠い。
ただの木の板なのに。
毎日踏んでいたはずなのに。
今は、橋の向こう岸のように遠い。
ユラは笑おうとした。
失敗した。
「わたし、神楽師じゃなくなったの?」
誰も答えられなかった。
サナが口元を押さえる。
セイが一歩近づきかけるが、何を言えばいいかわからないまま止まる。
周囲にいた職人たちも、気まずそうに目を逸らした。だがその目の逸らし方が、イロハの胸を冷やした。
哀れみではない。
恐れでもない。
まるで、関係のない者を見るような目だった。
「あの子は、神楽師だったか?」
鬼面を調整していた武舞の男が、隣の職人に小声で尋ねた。
「いや、ただの舞見習いでは?」
「そもそも、あの演目に必要だったか?」
その言葉は小さかった。
けれど、ユラに届いた。
少女の肩が震えた。
「必要、だった」
声がほとんど息になった。
「わたし、必要だったよ。セイ、そうだよね。サナ先輩、わたし、呼び笑いの――」
言葉の途中で詰まる。
呼び笑いの、何だったのか。
役名が出てこない。
自分が任された一節の名前が、喉の奥で白く崩れていく。
ユラは両手で口を押さえた。
「言えない」
セイが彼女の名を呼んだ。
「ユラ」
「名前はあるのに」
少女の目から、涙がこぼれた。
「名前はあるのに、何だったのかわからない」
イロハの胸の奥が、鈍く痛んだ。
それはユラだけの恐怖ではなかった。
名前はある。
呼ばれれば振り向ける。
家も、年も、過去も語れる。
それなのに、世界の中でどこに立てばよいのかわからない。
それは、イロハが幼い頃に知っていた感覚に似ていた。
戦災孤児として灰面長屋の隅にいた頃、誰も彼女を何者として扱わなかった。名前を尋ねられても、面がなければ帳には載らない。家の面がなければ、どこの子でもない。職面がなければ、何をしてよい子でもない。
腹は減る。
泣けば声は出る。
手を伸ばせば物に触れられる。
けれど制度の上では、いない。
あの頃、世界はイロハから目を逸らしていた。
ユラは今、その場所へ落ちかけている。
生まれも名もある少女が、面を喰われただけで、存在の足場を失いかけている。
「戻ります」
イロハは言った。
「工房へ」
セイが頷き、ユラを支えようとする。
だがユラは舞台を見つめたまま動かなかった。
「待って」
彼女は涙を拭わず、舞台の前へもう一度立った。
「一回だけ」
「ユラ、無理だ」
「一回だけでいい。上がれたら、まだ大丈夫だって思えるから」
セイは止められなかった。
イロハも、止めなかった。
ユラは右足を上げた。
空気が張り詰める。
足袋の先が舞台の縁に触れる。
触れた瞬間、白い面を収めた小箱が、イロハの腕の中でかすかに鳴った。
かた、と。
ユラの体が強張る。
次の瞬間、彼女は膝から崩れ落ちた。
「ユラ!」
セイが抱き止める。
ユラは意識を失ってはいなかった。ただ、舞台へ上がろうとした瞬間、自分の体がどこへ向かえばいいのかわからなくなったのだ。
イロハは小箱を見下ろした。
白布の隙間から、白い面の端が見えている。
何の表情もないはずのそれが、わずかに笑ったように見えた。
いや、面が笑ったのではない。
月痕が疼いたのだ。
ロウセツの声が、背後から低く届いた。
「見たか、イロハ」
いつの間にか、師匠が工房の戸口に立っていた。
「これが白化だ。面が白くなるだけじゃねえ。役が抜ける。役が抜ければ、本人の足も、周りの目も、その役を支えられなくなる」
イロハは答えなかった。
ユラはセイに支えられながら、かすかに震えている。
サナは泣きそうな顔で、けれどまだ完全には思い出せない目で、ユラを見ていた。
武舞の男たちは、気まずげに散っていく。彼らは悪人ではない。ただ、役を失いかけた者をどう見ればよいのかわからなかった。
見えなくなりつつあるものを、見続けるのは難しい。
それがこの国の残酷さだった。
役ある者には、美しい都。
役を失った者には、誰も視線を置かない都。
イロハは小箱を抱きしめた。
「月は、名前を喰うんじゃない」
ぽつりと呟いた。
セイが顔を上げる。
ユラも、涙に濡れた目でイロハを見た。
イロハは白い面を見ずに言った。
「その人が、この世界で何として立っているのかを喰うんです」
だから恐ろしいのだ。
名を失えば、呼ばれなくなる。
だが役を失えば、見られなくなる。
人は、誰かに見られ、認められ、役を渡されて初めて、社会の中に立てる。
月が喰うのは、その足場だった。
ユラは自分の手を見つめた。
「じゃあ、わたしは」
声が細く震える。
「このまま、誰でもなくなるの?」
イロハは、今度はすぐに答えた。
「まだです」
その言葉に、ユラの目が揺れた。
「まだ、面の内側に残っています。あなたが舞っていた一節も、神を迎える沈黙も、全部消えたわけじゃない」
「本当に?」
「本当です」
イロハは小箱を抱えたまま、工房へ向かって歩き出した。
「だから、戻します」
ロウセツが片眉を上げる。
「戻す、ねえ」
「完全には無理です」
イロハは振り返らなかった。
「でも、仮に置くことはできます」
風が吹いた。
面師小路の軒に吊るされた面鈴が、細く鳴った。
その音に、ユラが少しだけ顔を上げる。
たぶん彼女は、鈴の音を覚えている。
神楽師としてではなく、ひとりの少女として。
イロハはそれで十分だと思った。
全部を一度に戻すことはできない。
けれど、残っているものがあるなら、そこに手を伸ばせる。
工房の戸口に戻る直前、イロハは帝都の空を見上げた。
朝の青空には、もう月は見えない。
けれど、見えないだけだ。
昨夜、面に歯を立てたものは、まだどこかに残っている。
白い光の奥で、次の役を探している。
イロハは唇を結んだ。
そして、白化した神楽面を抱えたまま、薄暗い工房の中へ戻った。




