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第二節 ― 白化した神楽面

 白布が、工房の作業台の上に置かれた。


 それだけで、空気が変わった。


 乾いた木粉の匂いも、漆の甘い匂いも、朝の表通りから流れ込む人の声も、すべてが一歩遠のいたように思えた。面師小路の裏工房には、これまでいくつもの傷んだ面が運び込まれてきた。割れた面。焼けた面。役を受け取らなくなった面。死者の顔から外せなくなった冥面。


 けれど、その白布の下にあるものは、そうした壊れ方とは違っていた。


 イロハは、すぐには布を解かなかった。


 まず、運んできた若い男の顔を見た。


 いや、正確には、顔ではなく襟元の面札を見た。細い朱紐に吊るされた小さな札には、ウズメの舞殿に属する見習い神楽師の印が入っていた。男自身も舞手なのだろう。だが、今は舞台に立つ者の背筋ではない。肩が崩れ、息が乱れ、何かを抱えて走ってきた者の必死さだけがある。


「持ち主は」


 イロハが尋ねると、男は戸口を振り返った。


 そこに、ひとりの少女が立っていた。


 年は十五、六ほどだろうか。イロハと同じくらいか、少し下かもしれない。淡い緋色の稽古袴に、白い小袖。髪は舞の邪魔にならないよう高く結われていたが、結び目が少しほどけている。足袋の先には、舞殿の床で擦れた跡があった。


 神楽師の少女だった。


 けれど、その姿はひどく心許なかった。


 顔色が悪い。

 目は開いているのに、どこを見ればよいのかわからないように揺れている。

 両手は胸元で固く結ばれ、指先が小刻みに震えていた。


 何より異様だったのは、その少女が面箱を持っていないことだった。


 神楽師は、稽古であっても面を粗末にしない。自分で運び、自分で開き、自分でしまう。それができないほどの状態なのだと、イロハにはすぐわかった。


「中へ」


 イロハが言うと、少女は一歩踏み出そうとして、足を止めた。


 右足を前に出す。

 けれど、次の左足が出ない。


 ほんの小さな動作だった。普通の人間なら気にも留めない。だが神楽師の足運びは、歩くことさえ舞の延長である。片足を出した時、その次に体がどう流れるかを、身体が覚えているはずだった。


 少女は、自分の足元を見下ろした。


「……あれ」


 小さな声が落ちた。


「今、どうやって入ればいいんだっけ」


 男が痛ましげに顔を歪める。


「ユラ」


 名を呼ばれた少女は、はっとしたように顔を上げた。


「ごめん、セイ。わたし、変だね」


「変じゃない。面が悪いんだ」


「面が……」


 ユラと呼ばれた少女は、作業台の白布を見た。見た瞬間、肩がびくりと跳ねる。


「いや」


 その声は、拒絶というより恐怖だった。


「見たくない。わたし、それを着けてたの?」


 工房の奥で、ロウセツが煙管を置いた。


 普段なら軽口のひとつも挟むところだが、今は黙っている。


 イロハは少女を椅子に座らせ、白布の横へ水を置いた。


「名前は」


「ユラ」


 少女は答えた。


「ユラ=シラビョウ。ウズメの舞殿の、見習い神楽師です」


 答え方はしっかりしていた。少なくとも、自分の名と所属は覚えている。


 イロハは頷いた。


「昨夜、何がありましたか」


 ユラはすぐには答えなかった。


 代わりに、面を運んできた男――セイと呼ばれた若い舞手が口を開いた。


「月迎えの奉納舞の稽古でした。今月の満月は、ウズメ=ムゲン命へ新しい演目を奉じる前の、型合わせの日で……本舞台ではなく、舞殿の外庭で行っていました」


「外庭?」


「はい。月を背に受けて舞う型です。まだ正式な奉納ではありません。けれど、ユラはその一節を任されていました」


 セイは、白布の下にある面から目を逸らした。


「月が高くなった時です。雲が切れて、光が舞台に差しました。その瞬間、ユラの面が……白く」


 イロハはセイを見た。


「塗りが剥げた?」


「いいえ」


「割れた?」


「いいえ」


「誰かが触れた?」


「誰も」


 セイの喉が鳴った。


「月が、触れたように見えました」


 その言葉に、工房の空気がさらに冷えた。


 イロハは、白布へ手を伸ばした。


 布を解く。


 中から現れた面を見て、セイが息を呑んだ。ユラは目を伏せ、両手で膝の布を握った。


 それは、女神楽に使う若い舞面だったはずだ。


 もとは、ウズメの舞殿らしい明るさを持っていたのだろう。額には笑みを呼ぶ細い弧があり、目元は開きすぎず閉じすぎず、舞手の感情を受け止める余白を残している。口元には、神をからかうような微笑の気配があったはずだ。


 だが今は、何もない。


 白い。


 ただ白い。


 漆が剥げたのではない。色が失われたのでもない。面の表情を作っていた線、その線が受け止めていた役、その役に結ばれていた舞の意味だけが、きれいに抜き取られている。


 目も、鼻も、口も残っている。

 なのに、見る者の心に何も返さない。


 面は、人を見返すものだ。


 どんなに古びていても、どんなに欠けていても、よい面は必ず見る者へ何かを返す。怒り、笑い、悲しみ、眠り、祈り、拒絶、誘い。役の残っている面には、目がある。


 だが、この面は見返してこない。


 見ているのはこちらだけ。

 向こう側には、誰もいない。


「……これ、本当にわたしの面?」


 ユラの声は震えていた。


 セイが言う。


「昨夜まで、お前が使っていた面だ。ウズメの『呼び笑い』の一節で」


「呼び笑い……」


 ユラはその言葉を繰り返した。


 だが、意味が結びついていない顔だった。


「わたし、そんな一節を舞ってた?」


 セイの目が見開かれる。


「覚えてないのか」


「型は、少し覚えてる。右の袖を上げて、左足を引いて、それから……鈴を鳴らす。でも」


 ユラは自分の手を見た。


「その前に、何を待つんだっけ」


 誰もすぐには答えなかった。


 イロハは、ユラの言葉を静かに聞いていた。


 それは技術の欠落ではない。


 足の出し方は覚えている。

 袖の上げ方も覚えている。

 鈴を鳴らす動作も覚えている。


 抜け落ちているのは、その前にあるものだ。


 舞が神に届くための、最初の空白。


 神を迎える沈黙。


「稽古の続きを、ここでできますか」


 イロハが尋ねると、ユラは不安げに顔を上げた。


「面なしで?」


「面なしで。動きだけでいい」


 セイが止めようとした。


「イロハさん、今は――」


「面を見るためです」


 イロハは短く言った。


 ユラは迷った末に立ち上がった。


 工房の中央には、作業台と面棚のあいだにわずかな空きがある。神楽を舞うには狭すぎる。だが一節の足運びを見るだけなら足りる。


 ユラは右手を胸元へ添え、左手を袖の内に滑らせた。


 深く息を吸う。


 その所作は美しかった。


 見習いとはいえ、身体には神楽師としての訓練が入っている。肩の力を抜き、首をわずかに傾け、視線を床から少し先へ置く。右足が半歩出る。袖が静かに上がる。鈴を持たない指が、鈴を持つ時の形を覚えている。


 だが、そこで止まった。


 沈黙が来ない。


 本来なら、舞手はそこで一度、世界を空ける。


 息を止めるのではない。

 音を消すのでもない。

 自分という役を少し下ろし、神が入るだけの余白を作る。


 その一瞬がなければ、次の動きはただの踊りになる。


 ユラの足は動こうとした。

 けれど、動けなかった。


「……違う」


 少女は呟いた。


「ここで、何かあったはずなのに」


 イロハは面を見た。


 白い面は、作業台の上で何も言わない。


「もういいです」


 イロハが言うと、ユラは力が抜けたように椅子へ戻った。


 セイが水を差し出す。ユラは両手で受け取ったが、飲まずに見つめている。


「わたし、舞えなくなるのかな」


 その問いは、誰に向けたものでもなかった。


 だが工房の面たちは、その声を聞いていた。


 イロハは白布を片手に取り、面を裏返した。


 内側を覗く。


 そこに、あった。


 薄い噛み跡。


 表面からは見えない。普通の面師なら、木目の揺らぎか、乾燥による小さな歪みと見間違えるかもしれない。だがイロハにはわかる。


 月痕だった。


 面の裏、ちょうど舞手の額が触れる位置から、左頬の内側へかけて、白い細線が走っている。線はひとつではない。細かな弧が重なり、まるで何かが面の内側に歯を立て、そこから役を啜ったように見えた。


 イロハの瞳の奥に、薄い白月の反射が灯る。


 同時に、耳鳴りがした。


 ちり、と鈴が鳴るような音。


 次の瞬間、イロハは見た。


 昨夜の舞殿。


 朱塗りの縁。白砂の庭。風に揺れる灯籠。月を仰ぐ若い神楽師たち。ユラが面をつけて立っている。袖が上がる。足が引かれる。舞が始まる前の沈黙が、ふわりと場を包む。


 その沈黙に、月光が落ちた。


 光はまっすぐではなかった。


 細い顎のように曲がり、白い歯のように割れ、面の額へ触れた。触れた、というより噛んだ。


 ユラの面が、一瞬だけ笑った。


 それはウズメの笑みではない。


 空にいる何かが、地上の役を見つけた時の笑みだった。


 イロハは息を詰め、面から手を離した。


 白布がわずかに揺れる。


「見えたか」


 ロウセツが低く言った。


 イロハは師匠を振り返らなかった。


「月痕があります」


 セイが顔を上げる。


「月痕?」


「面の内側に、役を抜かれた跡が残っています」


「役を……抜かれた?」


 ユラが震える声で言った。


「それは、わたしの舞が下手だったからですか。わたしが、神様を迎え損ねたから」


「違います」


 イロハはすぐに否定した。


 思ったより強い声になった。


 ユラが驚いて目を上げる。


 イロハは少しだけ息を整え、言い直した。


「これは、稽古不足の傷ではありません。舞手の失敗でもない。面が、外から何かに触れられています」


「外から……」


「昨夜の月です」


 工房の中で、誰かが息を呑んだ。


 それがセイだったのか、ユラだったのか、イロハ自身だったのかはわからなかった。


 言葉にした瞬間、白い面の表面がほんのわずかに光った気がした。


 ロウセツが煙管を置いた。


「言ったな、イロハ」


「隠しても仕方ありません」


「仕方がある時もある」


「この子は、理由がわからないまま自分を責めています」


 イロハは静かに言った。


「それよりは、ましです」


 ロウセツは何も返さなかった。


 ユラは膝の上で指を握りしめていた。


「戻りますか」


 その声は、泣く寸前のものだった。


「わたしの舞は、戻りますか」


 イロハはすぐに答えられなかった。


 白化した面から、失われた役を完全に戻す方法を、彼女は知らない。


 だが、完全に消えているわけではない。

 月痕の周囲に、かすかな余韻が残っている。


 袖の軌跡。

 足裏が床を待つ感覚。

 鈴が鳴る前の沈黙。


 消えたのではない。

 喰われたあと、わずかにこぼれたものがある。


「今すぐ元通りにはできません」


 イロハは言った。


 ユラの顔が沈む。


「でも、一節だけなら、思い出せるかもしれません」


 セイが身を乗り出した。


「本当ですか」


「仮置きです。戻すのではなく、抜けた場所に短いあいだだけ役を置く。面も舞手も負担が大きい。失敗すれば、余計に傷が深くなる」


「それでも」


 ユラが言った。


 その声は震えていたが、さっきよりも少しだけ芯があった。


「それでも、確かめたいです。わたしが何を忘れたのか」


 イロハは、少女を見た。


 神楽師としての恐怖。

 自分の舞が失われる恐怖。

 けれどそれ以上に、自分が何を大切にしていたのかを忘れてしまった恐怖。


 それはイロハにも、少しわかった。


 自分が何者だったのか、わからない。

 何を失ったのかさえ、わからない。


 その空白は、ただの欠落ではない。生きている者の足元を、静かに削っていく穴だ。


 イロハは白い面の前に座り直した。


「面を、ここに」


 セイが布を整える。


 ユラが震えながら近づく。


 ロウセツは工房の奥から、古い灯明皿を持ってきた。火はつけない。ただ面のそばに置く。神楽面を診る時の、古い作法だった。


「師匠」


「やるんだろう」


「止めないんですか」


「止めたらやめるのか」


 イロハは答えなかった。


 ロウセツは、短く鼻で笑った。


「なら聞くな」


 イロハは白布を片手だけ外し、素手の指先で面の内側に触れた。


 冷たい。


 木ではなく、月に触れているようだった。


 月痕の噛み跡が、指の腹にぴたりと重なる。


 その瞬間、面の白さが、ほんのかすかに震えた。


 まるで、喰われた役の残り香が、まだどこかで息をしているかのように。


 イロハは目を閉じた。


 探すのは、色ではない。

 形でもない。

 この面が昨夜まで受け取っていた、神を迎えるための沈黙。


 ウズメの舞は、笑いから始まるのではない。


 笑いの前には、必ず沈黙がある。

 神を隠す岩戸のような沈黙。

 誰もが息を潜め、次に何が起こるのかを待つ沈黙。

 その待つ時間を破るからこそ、笑いは神を動かす。


 ユラの面から抜け落ちたのは、それだった。


 イロハの指先に、白い痛みが走った。


 面の奥で、何かがこちらを見返した気がした。


 白い月。

 噛み跡。

 消えた役。


 そして、どこか遠くで、誰かが笑った。


 それは少女の笑いではなかった。

 老いた神の笑いでもなかった。

 舞台裏から観客の反応を窺う、名もない演者のような笑い。


 ウズメ=ムゲン。


 その名を、イロハは声には出さなかった。


 ただ、胸の奥で思った。


 この舞は、まだ終わっていない。


 白い面の内側に、細く、細く、消えかけた線が浮かんだ。


 袖の軌跡だった。


 イロハは目を開けた。


「ユラさん」


「はい」


「今から、面に仮の役を置きます。あなたは思い出そうとしないでください」


「え?」


「思い出そうとすると、自分の記憶で隙間を埋めてしまう。そうではなく、面が覚えているものを待ってください」


 ユラは唇を噛み、頷いた。


 イロハは白い面を両手で持ち上げた。


 その面は相変わらず無表情だった。


 けれど、今だけは、その奥にわずかな気配がある。


 まだ完全には喰われていない。

 まだ、呼べる。


 工房の外では、役面市の朝が続いていた。


 誰も知らない。

 この裏工房で、ひとりの神楽師が自分の役を失いかけていることを。


 誰も知らない。

 昨夜の満月が、面を白くしたことを。


 誰も知らない。

 名を喰う月が、すでに帝都カミザの舞台に歯を立てていることを。


 イロハは、白い面の内側へそっと息を吹きかけた。


 面が、かすかに震えた。

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