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第一節 ― 面師小路のイロハ

 白い面が運び込まれる少し前、その朝は、いつもの朝だった。


 面師小路の裏工房には、木粉の匂いが満ちていた。


 乾いた白木。古い漆。磨き布に染み込んだ油。昨日塗った朱が、まだ棚の隅でわずかに湿っている。天井近くには、修理待ちの面がいくつも吊るされていた。片目だけ欠けた戦面、口元の漆が剥がれた商家の職面、紐穴の裂けた神楽面、子どもの成長に合わなくなった生面。


 どの面も、眠っているように見えた。


 けれどイロハには、ただの物には見えない。


 面は、持ち主の役を覚えている。


 長く家の奥にしまわれていた生面には、家族の声が染み込む。

 毎朝の店開きに掲げられた職面には、銭の音と客の気配が移る。

 神前で舞われた祈面には、床を踏んだ足の重みや、袖が空気を切った軌跡が残る。


 だから面を直す時、イロハはまず耳を澄ませる。


 木が鳴る音。

 漆が乾く沈黙。

 面の裏に残った、役の呼吸。


「おい、面師の嬢ちゃん。これ、今日中に何とかならねえか」


 朝一番の客は、役面市の表通りで乾物屋を営む男だった。


 太い指で差し出されたのは、小ぶりな職面である。商人が店を開ける時に、店先へ掲げる面だった。顔に着けるためというより、その店がどういう役を持つかを示すためのものだ。口元は柔らかく笑い、目尻には客を逃さない細い線が刻まれている。


 だが、その口元に小さな亀裂が入っていた。


 イロハは面を受け取り、白布の上に置いた。


「落としました?」


「落としてねえよ。いや、ちょっとだけだ。棚からな」


「棚から落としたんですね」


「だから、ちょっとだけだって言ってるだろ。けど困るんだよ。今日は西の隊商が入る日だ。職面なしじゃ、表の店を開けられねえ」


 男は困ったように頭を掻いた。


「名札は出せるでしょう」


「名だけじゃ駄目なんだよ、嬢ちゃん。この都じゃ、商人は商人の面を掲げて初めて商人だ。名前を書いた木札なんざ、旅の宿場なら通るかもしれんが、カミザじゃ通らねえ」


 イロハは薄く頷いた。


 それは彼女も知っている。


 この国では、名前だけでは足りない。

 名は個人を呼ぶためのもの。

 面は、その者がこの世で何をしてよいかを示すもの。


 乾物屋の男は、生まれた時には家の生面を持っていた。商家に生まれた子として、家の奥で守られる面だ。だが店に立つには、それとは別に職面がいる。商いを許され、客と値を交わし、品を売る役を受け取るための面。


 面を失えば、店は開けられない。


 たとえ本人がそこにいても。

 金を数える手を持っていても。

 毎日同じ暖簾を掲げていても。


 役がなければ、社会はその者を見ない。


「亀裂は浅いです。漆を継いで、口元の線を戻せば今日の昼には使えます」


「本当か」


「ただし、落とした面をそのまま掲げるのはやめてください。商いの口が割れます」


「縁起でもねえこと言うなよ」


「割ったのはそちらです」


 男は返す言葉に詰まり、それから苦笑した。


「相変わらず愛想がねえな、イロハちゃんは」


「面を直す仕事なので」


「人の機嫌は直さねえってか」


「必要なら別料金です」


 工房の奥で、ロウセツが低く笑った。


「取れるところからは取れ、イロハ。それが商いの役ってもんだ」


「師匠は黙っていてください」


「へいへい」


 イロハは小筆を取り、亀裂の奥に薄く下地を入れた。手つきは早い。けれど雑ではない。口元の笑みに沿って、割れた線を戻していく。商人の面にとって、笑みは飾りではない。値を決め、客を迎え、品を渡すための所作そのものだ。


 役の線を間違えれば、面はただの作り物になる。


 イロハは筆先を止め、面の裏を指で軽く叩いた。


 乾いた音がした。


「大丈夫。まだ商う気があります」


「面がか?」


「あなたが、です」


 男は一瞬きょとんとして、それから鼻を鳴らした。


「そりゃあるさ。うちには食わせる口が五つもあるんだ」


「なら、昼に取りに来てください」


「助かる」


 男は深々と頭を下げ、表通りへ戻っていった。


 入れ替わるように、母親に手を引かれた小さな子が入ってきた。まだ六つか七つほどの女の子で、胸元に布で包まれた小さな面箱を抱いている。


「面師さま、この子の生面を見ていただけますか」


 母親は遠慮がちに言った。


「昨夜から、箱の中でかたかた鳴るんです。割れてはいないと思うのですが……」


 イロハは少女の目線に合わせて膝をついた。


「見てもいい?」


 少女は少し迷ってから、小さく頷いた。


 面箱を開けると、淡い木地の子ども面が収められていた。表情はまだ定まっていない。笑っているようにも、眠っているようにも見える。家に生まれた子へ与えられる生面は、その子自身の顔というより、その家の根に結ばれるための面である。


 だから普段は着けない。

 家の奥にしまわれ、節目の日にだけ出される。


 子どもはその面によって、この家に生まれた者として認められる。


「七つの祝いが近いんですね」


 イロハが言うと、母親は驚いたように目を瞬いた。


「わかるんですか」


「面が少し緊張しています」


「面が……緊張?」


 少女が不安そうに母親の袖を握る。


 イロハは子ども面の紐穴を確かめた。片側が少し硬い。木が乾きすぎて、紐を通した時に音を立てているだけだった。


「大丈夫。怖がっているわけではありません。少し窮屈なだけ」


「わたしが、悪い子だから?」


 少女が小さな声で尋ねた。


 イロハは首を振った。


「面は、悪い子だから鳴るんじゃない。大きくなったから鳴るの」


 少女は面箱の中を覗き込んだ。


「大きくなったら、面も変わるの?」


「少しずつ。あなたが家の中でどう呼ばれて、何を覚えて、誰に手を引かれたかを、面も覚えていくから」


「じゃあ、この子もわたしのこと知ってる?」


「たぶん、あなたが夜中に布団を蹴ることも知っています」


 少女ははっとして、母親を見上げた。母親は思わず笑った。


「そこまで面に知られていたら困りますね」


「生面は家の面ですから。家のことは、よく覚えます」


 イロハは紐穴の内側を少し削り、白い布で磨いた。それだけで、箱の中のかたかたという音は収まった。


 母親はほっと息を吐いた。


「ありがとうございます。正規の工房に持っていくほどではないと言われてしまって」


「生面に、持っていくほどではないものなんてありません」


 イロハの声は静かだった。


 母親はその言葉に、少し目を伏せた。


「……あなたに見てもらえてよかった」


 その一言に、イロハは返事をしなかった。


 ただ面箱の蓋を閉め、少女に返した。


 少女は両手で面箱を抱きしめる。


「ありがとう、面師さん」


「落とさないように」


「うん」


 親子が出ていくと、工房には少しだけ柔らかな空気が残った。


 だが、それも長くは続かない。


 次に入ってきたのは、年老いた神楽師だった。


 痩せた背をまっすぐ伸ばし、両手で古い面を持っている。面は女神楽に用いられる祈面だった。白い頬に薄く紅が差され、目元は伏せられている。だが、左の頬から顎にかけて、古い漆が浮いていた。


「ロウセツ殿はいるか」


 老人は工房の奥へ声をかけた。


「いるが、今日は手が震える日だ」


 ロウセツが煙管をくわえたまま答える。


「ならば弟子でよい」


「弟子でよい、だそうだぞ。イロハ」


「聞こえています」


 イロハは祈面を受け取った。


 重い面だった。木の重さではない。何度も神前に立ち、何度も舞われ、何度も祈りを受けてきた面特有の重みがある。


「神前で、息が通らなくなった」


 老人は言った。


「着けると、舞手が途中で止まる。足は覚えている。袖も間違えない。だが、神を迎える前の沈黙だけが抜ける」


 イロハは手を止めた。


「いつからですか」


「三日前だ。いや……もっと前から兆しはあったのかもしれん。若い者は、型だけなら舞える。だが、祈面は型だけでは受け取らぬ」


 老人は面の頬を見つめる。


「祈面とは、人が神に顔を貸すためのものだ。面が息を閉じれば、神は降りぬ」


 イロハは頷いた。


 祈面は、職面とも生面とも違う。

 それは日々の役ではなく、神前で一時的に人ではない役を受け取るための面だった。


 舞手は面をつけることで、ただの人間ではなくなる。神を迎える器になる。自分の名を少し横へ置き、神の貌を演じる。


 だから祈面が傷めば、舞は舞でなくなる。

 ただの動きになる。

 祈りの形をした空白になる。


「頬の漆は直せます。でも、それだけではないです」


 イロハは面の裏に指を添えた。


 かすかに、ざらつきがある。


「この面、最近、月光に当てましたか」


 老人の眉が動いた。


「昨夜、月迎えの稽古があった。舞殿の縁に置いた」


 工房の奥で、ロウセツの煙管を回す音が止まった。


 イロハは顔を上げない。


「長く?」


「半刻ほどだ」


「……そうですか」


 祈面の裏には、まだはっきりした傷はなかった。ただ、漆の下を何かが舐めたような、薄い冷たさがある。


 イロハは白布をかけた。


「今日は使わないでください」


「今夜も稽古がある」


「使わないでください」


 今度は、少し強く言った。


 老人はイロハを見た。


 若い面師の言葉を、ただの臆病と片づけることもできただろう。だが彼は長く神楽に仕えた者だった。祈りの道具が発する小さな異変を、軽んじる者ではなかった。


「理由を聞いてもよいか」


 イロハは答えに迷った。


 月に噛まれかけている。


 そう言えばよかったのかもしれない。


 だが、その言葉はまだ形になっていなかった。名づけてしまえば、何かが始まる。そういう予感があった。


「面が、休みたがっています」


 代わりに、そう言った。


 老人はしばらく黙り、それから深く息を吐いた。


「面が休みたがるなら、舞手も休むべきだな」


「はい」


「よかろう。今夜は稽古を止める」


 老人は祈面を置いて帰った。


 戸が閉まったあと、工房には少し長い沈黙が落ちた。


 イロハは祈面の上の白布を見つめていた。


「師匠」


「なんだ」


「最近、月に当てた面ばかり来ます」


「月は昔から空にある」


「そういう話ではありません」


 ロウセツは煙管を口元から外した。


「じゃあ、どういう話だ」


 イロハは答えなかった。


 面師小路の外からは、役面市の声が聞こえてくる。


 職面の値を尋ねる声。

 紐の色を選ぶ女たちの笑い声。

 子どもが面鈴を鳴らして叱られる声。

 正規面師の店先で、今日の修理番を告げる札が掛け替えられる音。


 都はいつもどおり動いている。


 誰もが自分の役を持ち、自分の面に支えられている。

 そのことに疑いを持つ者は少ない。


 イロハは、自分の腰の道具袋に触れた。


 そこに吊るされた小さな面師札は、彼女が中級面師であることを示している。正規の試験を通った証だ。武士の戦面も、神楽師の舞面も、陰陽師の式面も、一定の範囲なら扱うことを許されている。


 けれど、その札に触れるたび、彼女は少しだけ息が浅くなる。


 自分には、生まれた家の面がない。


 戦の火で失われた生面。

 幼すぎて持てなかった職面。

 祈るための祈面も、死者として送られるための冥面もなかった頃のことを、体より先に面が覚えている気がする。


 師匠が与えた面がなければ、自分は今も、この都のどこにも属していなかった。


 救われたのだと思う。

 けれど、作り変えられたのではないかとも思う。


「イロハ」


 ロウセツが呼んだ。


「手が止まってるぞ」


「止めています」


「客の前でそれをやるなよ。腕が悪く見える」


「腕が悪いのは師匠の手の震えです」


「言うようになったなあ」


 ロウセツは笑ったが、やはり目は笑っていなかった。


 その時だった。


 工房の戸が、強く叩かれた。


 一度。

 二度。

 三度目は、叩くというより縋る音だった。


 イロハは顔を上げた。


 戸の外に立っていた若い男は、息を切らしていた。腕の中には、白布で包まれた面箱がある。その白布の端から、異様な白さが漏れていた。


 朝の光よりも白い。

 白木よりも白い。

 祈りの白ではない。


 何かを失ったあとの白だった。


「助けてください」


 男は言った。


「昨夜までは、確かに舞えていたんです。あの子は、ウズメの舞殿で――」


 イロハは立ち上がった。


 工房に吊るされた面たちが、かすかに揺れた。


 そして、面師小路のいつもの朝は、その瞬間に終わった。

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