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序節 ― 月の翌朝

 面は、顔を隠すものではない。


 この国では、面こそが顔である。


 生まれた家を示す面。

 職を許す面。

 神前に立つための面。

 死者を黄泉へ送るための面。


 人は名を持つ前に、面を持つ。

 名は呼ばれ、忘れられ、書き換えられる。けれど面は、その者がこの世で何を演じるべきかを、沈黙のうちに定めている。


 ならば、面を喰われた者は――まだ人と呼べるのだろうか。


 帝都カミザの朝は、白木の匂いから始まる。


 夜露を吸った回廊の柱が、朝陽を受けて淡く光っていた。天帝宮へ続く大路には、まだ人影もまばらで、黒漆の門扉には薄い金の縁取りが静かに浮かんでいる。朱塗りの舞台では、夜明けの神楽に備えた下働きたちが、布で床板を磨いていた。磨かれた板には、まだ誰の足跡もなかった。今日、そこへ最初に乗る者の役を待っているかのように、舞台はひっそりと息をひそめている。


 カミザは、美しい都だった。


 屋根瓦は月白に光り、軒先には小さな面鈴が吊るされている。風が吹くたび、鈴は声にならないほど細い音を立てた。役人町の門には官面の紋が掲げられ、武家屋敷の塀には戦面を象った金具が打たれている。神楽師の家では、朝の稽古の前に面箱へ香を焚き、商家では店を開ける前に職面へ軽く額を寄せる。


 素顔のまま歩いている者も多い。


 けれど、この都において素顔とは、裸の顔ではない。

 誰もがどこかの家に属し、何かの役に結ばれ、神前で認められた面を持っている。


 顔に着けていなくとも、面はその者の背にある。

 腰に下げた面札に。

 家の奥に仕舞われた生面に。

 役所の帳に記された仮面籍に。

 あるいは、誰かがその者を見るまなざしの中に。


 この国では、面を持つことが存在することだった。


 役面市は、朝早くから動き始めていた。


 表通りには認可を受けた面師の店が並び、軒先には新しい役面が整然と掛けられている。武士のための戦面は、頬の線が鋭く、目元には怒りではなく覚悟が刻まれていた。神楽師の舞面は、笑っているようにも眠っているようにも見える。商人の職面は控えめで、けれど口元だけに抜け目のない柔らかさがある。陰陽師の式面は、白と黒の線が方位盤のように交わり、見る角度によって表情を変えた。


 木地師が荒削りの面材を運び、漆職人が乾き具合を確かめ、紐師が絹紐を結い、面箱職人が黒漆の小箱に金具を打つ。


 そこには、朝の営みがあった。

 人が今日も、自分の役を演じるための支度があった。


 だが、その朝の明るさの底に、ひとつだけ薄い翳りが沈んでいた。


 昨夜は、満月だった。


 カミザの者は、満月を嫌わない。むしろ多くの神楽は月の光を受けて舞われる。月白の瓦、湖面に映る月、面の内側に宿る反射の祈り――それらは東方の舞と仮面の信仰に深く結びついている。


 けれど、昨夜の月は少し違っていた。


 いつもより白すぎた。

 いつもより近すぎた。

 まるで都の上に浮かぶのではなく、屋根のすぐ裏側から、ひとつひとつの面を覗き込んでいるようだった。


 それに気づいた者は少ない。


 気づいた者も、口にはしなかった。


 朝が来てしまえば、夜の異変などたいてい忘れられる。人は明るいものを信じたがる。まして帝都カミザの朝は、あまりに美しかった。


 だから、面師小路の奥へ、その面が運び込まれた時も、最初に騒いだ者はいなかった。


 表通りから一本外れ、さらに細い路地へ折れた先に、古い工房がある。看板は出ていない。軒の端に、割れた小面がひとつ吊るされているだけだ。知らぬ者なら、廃屋か古道具屋と思って通り過ぎるだろう。


 けれど、正規の面師に断られた者たちは知っている。


 剥がれた職面。

 割れた生面。

 役を受け取らなくなった舞面。

 死者に持たせるはずだったのに、どうしても目を閉じてくれない冥面。


 そういう面は、最後にこの路地へ来る。


 朝の光がまだ届ききらない工房の戸口で、誰かが強く戸を叩いた。


 一度。

 二度。

 三度目は、叩くというより縋る音だった。


 戸の向こうで、乾いた木が軋む。


 運び込まれたのは、ひとつの面だった。


 白い面だった。


 白木の面ではない。

 塗る前の面でもない。

 祭礼用の白面でもない。


 それは、色を失っていた。


 漆も、墨の線も、頬に差されていたはずの紅も、額に刻まれていた役紋も、すべてが薄く削がれていた。表面は滑らかで、傷ひとつない。割れてもいない。焼けてもいない。水に濡れた跡もない。


 ただ、何もなかった。


 目の形は残っている。

 鼻筋も、口元も、輪郭もある。


 けれど表情がない。


 笑っていない。

 泣いていない。

 怒っていない。

 眠ってもいない。


 それは面でありながら、面ではなかった。


 役を受け取る器でありながら、何の役も宿していなかった。


 運んできた若い男は、息を切らしながら言った。


「助けてください」


 声は震えていた。


「昨夜までは、確かに舞えていたんです。あの子は、ウズメの舞殿で――月迎えの稽古をしていて、それで、月が、面に」


 言葉は途中で崩れた。


 工房の奥では、朝の木粉がまだ空気に浮いていた。壁には無数の面が掛けられている。笑う面、怒る面、眠る面、泣く面、何かを待つ面。どれも静かだった。けれど白い面が置かれた瞬間、そこに掛けられた古い面たちが、いっせいに息を止めたように見えた。


 その白さは、雪に似ていた。


 だが、雪ならば朝陽に溶ける。

 これは溶けない。


 月に噛まれたものは、朝になっても戻らない。


 工房の奥から、ひとりの少女が出てきた。


 濡羽色の黒髪を低く結び、生成りの小袖に墨色の作業袴を合わせている。腰には小筆と彫刻刀、磨き布を入れた道具袋。袖は赤茶の組紐で留められていた。指先には細かな傷があり、爪の端には落としきれない漆の跡が残っている。


 少女は、運び込まれた面を見た。


 その瞬間、表情が変わった。


 驚いたのではない。

 怖がったのでもない。


 ただ、目の奥だけが静かに鋭くなった。


 彼女は名を、イロハ=ナギという。


 面師小路の裏工房で働く、中級面師である。


 そして、役を持たなかった子が、面を作る者になった少女だった。


 イロハは白い面へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。直接触れず、まず白布を取る。面の下にそっと敷き、両手で持ち上げる。その所作は若い職人のものだったが、雑さはなかった。面を物としてではなく、まだ息の残る誰かの顔として扱う手つきだった。


 白い面の内側を覗いた時、イロハの瞳に、淡い月白の反射が走った。


 そこに、傷があった。


 外側には何もない。

 けれど内側には、確かに痕がある。


 細い歯形のようなもの。

 月光で焼いたような、白い裂け目。

 面に刻まれていた役が、そこから引き抜かれた跡。


 イロハは小さく息を呑んだ。


 工房の隅で、老人が笑った。


「朝っぱらから、面白くねえもんを持ってきたな」


 白髪混じりの黒髪を雑に結んだ男だった。くたびれた黒茶の羽織を肩に引っかけ、片目は薄く白濁している。口元には皮肉な笑みがあったが、目だけは笑っていなかった。


 ロウセツ=カガミ。


 かつて宮廷に仕えた御面師。

 今は資格を剥奪された、路地裏の面師。


 彼は煙管を指先で回しながら、白い面を見た。


「割れたんじゃねえ。剥げたんでもねえ。……喰われたな」


 運んできた男が、顔を上げる。


「喰われた?」


 ロウセツは答えなかった。


 イロハも、すぐには言葉を出せなかった。


 白い面は、工房の朝の光の中で静かに横たわっていた。

 何の表情も持たず、何の役も持たず、ただ、そこにあった。


 昨夜の満月が何をしたのか。

 その面から何を奪ったのか。


 まだ誰も、正しく名づけられない。


 けれどイロハには見えていた。


 面の内側に残る、薄い月の噛み跡が。


 そしてその白さが、自分の持つ黒い小箱の奥――白布に包まれた未在生面ナギノオモテの静けさに、どこか似ていることも。


 帝都カミザの朝は、なお美しかった。


 白木の回廊は輝き、朱塗りの舞台は神を迎える支度を続け、役面市では今日も人々が自分の役を選んでいた。


 その都の片隅で、ひとつの面だけが、何者でもなくなっていた。


 月の翌朝。


 名を喰うものは、まだ空に残っている。

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