序節 ― 箱の中の月
面箱とは、本来、面を眠らせるための器である。
昼に受けた人の声を鎮め、舞台で浴びた視線を落とし、神前でまとった役の熱を、夜のうちに静かに冷ます。
だから面箱は、暗くなければならない。
だから面箱は、閉じられていなければならない。
だから面箱の内側には、余計な光を入れてはならない。
けれど、空の箱に月が棲むならば、そこに眠っているのは面ではない。
まだ与えられなかった役の、喰い残しである。
白影宮の夜は、帝都カミザのどの夜よりも静かだった。
天帝宮のほうでは、まだかすかに人の声がしている。夜番の役人が交わす短い言葉。廊下を行き来する衣擦れ。遠い神楽殿から、稽古の終わりを告げる鈴が一度だけ鳴る。
だが白影宮の奥には、そのどれも届かない。
白砂の庭は月を待つように冷え、黒松は風を受けても大きく揺れない。月見池には竹簾が半ば下ろされ、水面は細い影に裂かれている。御簾は深く閉じられ、面棚には黒布が掛けられていた。
白影宮では、夜になる前に面を隠す。
女房たちはそれを、月除けの支度と呼んでいた。
面箱には布をかける。
水盆は伏せる。
鏡は裏返す。
月の入る隙間は、戸の目地に至るまで絹で塞ぐ。
けれど、たったひとつだけ、隠されない箱がある。
サヨ=ミカゲの寝所の奥。
白い御簾の向こうに、黒漆の面箱が置かれていた。
蓋は開いている。
中は、空だった。
空であるはずだった。
サヨは、眠らずにその箱を見つめていた。
寝所に灯された燭は少ない。火の明かりは低く、ほとんど床に近いところで揺れている。衣を重ねたサヨの横顔は、昼よりもさらに白く見えた。長い黒髪は肩から流れ、膝の上に置かれた手は動かない。
彼女の前の面箱だけが、夜の中で淡く光っている。
箱の内側に、月が浮かんでいた。
空の月ではない。
今夜の空に出ている月は、まだ満ちきっていない。雲の向こうに細く欠け、白影宮の屋根の端にかかっているだけだ。けれど面箱の中の月は、丸かった。
満月だった。
白絹を貼った箱の底に、薄い水を張ったような光がある。そこに、まるい月が沈んでいる。波紋はない。水面ではないのだから揺れるはずもない。それでもサヨには、その月が息をしているように見えた。
眠っているのではない。
待っている。
夜が深くなり、白影宮の役が薄くなる時を。
サヨはそっと手を伸ばしかけた。
御簾の外から、アヤメの声がした。
「サヨ様」
「触れません」
サヨは手を止めた。
「見ているだけです」
アヤメ=シラハは御簾の外に控えていた。昼間と同じように背筋を伸ばし、刀を傍らに置いている。けれど、その手は柄の上に重ねられていた。夜の白影宮では、何が起こるかわからない。
「お休みになられませんか」
「眠ると、箱の中の月が夢に来ます」
アヤメは言葉を失った。
サヨは微笑んだ。
「目を開けて見ているほうが、まだましです」
「……イロハ=ナギは、客間に下がらせています」
「眠れているかしら」
「どうでしょう。あの方も、あまり眠りの深そうな人には見えません」
「そうね」
サヨは小さく笑った。
その笑みが消えると、部屋はまた静かになった。
空の面箱の中の月が、少しだけ明るくなる。
サヨは息を止めた。
月の輪郭から、白い糸のような光が伸びる。
それは光というより、細い歯に似ていた。
箱の底に浮かんだ月痕が、かすかに疼く。
遠くで、香炉の蓋が鳴った。
ちいさな音だった。
けれどサヨはすぐに顔を上げた。
アヤメも立ち上がる。
「東廊です」
サヨは言った。
アヤメが御簾を上げる前に、廊下の向こうから乱れた足音が近づいてきた。
「サヨ様」
女房の声だった。
声は押し殺されていたが、恐怖が混じっている。
アヤメが戸を開けると、二人の女房がひとりの若い女房を支えるように立っていた。若い女房は、淡い月白の小袖に香役の細い面札を下げている。名はカンナ=ツキシロ。東廊の香を替える役を持つ女房だった。
だが今、彼女の手は空中で止まっていた。
指先には小さな香匙。
袖の内には、沈香を包んだ紙。
目の前には、夜の香炉。
必要なものはすべて揃っている。
それなのに、カンナは香炉の前で立ち尽くしていた。
「カンナ」
アヤメが呼ぶ。
カンナはゆっくり顔を上げた。
自分の名はわかっている顔だった。
けれど、足元の床が見えなくなった者の顔でもあった。
「アヤメ様」
「どうしました」
カンナは、手に持った香匙を見た。
それが何であるかはわかっている。
香木の名もわかる。
香炉の扱いも覚えている。
けれど、喉から出た言葉は別のものだった。
「わたくしは、ここで何をする役でしたか」
廊下にいた女房たちが、息を呑んだ。
ひとりが言った。
「あなたは……」
そこで、声が止まる。
もうひとりの女房も眉を寄せた。
「東廊の……何でしたか」
「香を……いえ、違う? 灯を替える役では」
「いいえ、灯はミツネの役ですわ。では、水差しを……」
「カンナは、何の役でしたか」
言葉が、廊下の上でほどけていく。
カンナの顔が青ざめた。
「わたくし、昨日もここに来ました。毎夜、来ていたはずです。香炉の灰をならして、香を選んで、それから……」
彼女は香炉の前に立ったまま、震えた。
「それから、なぜ香を焚くのですか」
誰も答えられなかった。
女房たちは互いに顔を見合わせる。
香を焚く手順は知っている。香の名も知っている。東廊に香炉があることも知っている。
けれど、なぜその時刻に、その香を焚くのか。
その役が、誰のために、何を整えるためのものだったのか。
それだけが、白く抜け落ちていた。
サヨは立ち上がった。
アヤメが止めようとする。
「サヨ様、箱が」
「大丈夫です」
サヨは、空の面箱から目を離さずに言った。
「今、喰われているのは箱ではありません」
その言葉に、廊下の空気が震えた。
サヨは裸足のまま、東廊へ向かった。
女房たちが慌てて道を開ける。アヤメがすぐ後ろにつく。寝所の奥では、空の面箱の中の月が淡く明滅していた。
客間に控えていたイロハも、廊下の騒ぎで目を覚ましていた。
眠っていたわけではない。横になってはいたが、白影宮の静けさに体が慣れず、まぶたの裏ではずっと白い月がちらついていた。
戸の外の足音を聞き、イロハは道具袋を掴んで出た。
東廊に着いた時、サヨはすでにカンナの前に立っていた。
イロハは足を止める。
カンナの香役面は、顔につけられていない。腰に下げられた小さな面札と、香箱に収められた職面だけがある。白化はしていない。少なくとも、表からは異常が見えない。
それなのに、役が抜けている。
第1話のユラと同じだ。
いや、もっと静かで、日常に近いぶん、かえって恐ろしい。
「カンナ」
サヨが呼んだ。
その声は、夜の廊下にまっすぐ通った。
カンナは涙を浮かべた目で、皇女を見た。
「サヨ様。わたくし、何をするはずだったのでしょう。手順は覚えているのです。香木の名も、灰のならし方も。けれど、わたくしがここに立つ理由が……」
「あなたは、東廊の香を替える役です」
サヨは静かに言った。
女房たちが顔を上げる。
「白檀ではなく、今夜は沈香を焚く日。白檀は昼の香。沈香は夜の香。東廊の香は、白影宮の夜を閉じるためのものです」
カンナの瞳が揺れた。
「夜を、閉じる……」
「そうです」
サヨは香炉へ視線を向ける。
「東廊から香が流れなければ、白影宮の夜は開いたままになります。月が入りやすくなる。だから、あなたは毎夜、沈香で廊下を閉じてくれていました」
カンナの手が震えた。
香匙を持つ指先に、少しだけ力が戻る。
「わたくしが」
「あなたが」
「わたくしは、ただ香を替えるだけの役では……」
「いいえ」
サヨは首を振った。
「あなたの香がなければ、わたしたちは眠れません」
カンナの目から、涙がこぼれた。
それは悲しみの涙だけではなかった。
自分が何を失いかけていたのか、ようやくわかった者の涙だった。
カンナは膝から崩れ落ちた。
「思い出しました」
彼女は香匙を胸に抱いた。
「わたくし、昨夜も、この香を……サヨ様が眠れるようにと」
「ええ」
サヨは膝を折り、カンナの目線に合わせた。
「覚えています」
「皆は」
カンナは周囲の女房たちを見た。
「皆は、覚えていませんでした」
女房たちは目を伏せた。
責められているわけではない。けれど、忘れてしまったことの痛みが、廊下の空気を重くした。
サヨは言った。
「忘れたのではありません」
その声は穏やかだった。
「喰われかけただけです」
イロハは、思わずサヨを見た。
その言葉は、ロウセツが使ったものと同じだった。
壊れたのではない。
失くしたのでもない。
喰われた。
けれどサヨが言うと、その言葉は恐怖だけでは終わらなかった。
喰われかけたなら、まだ残っている。
残っているなら、呼び戻せるかもしれない。
カンナは何度も頷き、震える手で香炉に向かった。
灰をならす。
沈香を置く。
火を移す。
手つきはまだ危うい。だが、完全には止まらない。
細い煙が、夜の廊下に立ち上った。
香りが、ゆっくりと広がる。
白影宮の空気が、少しだけ閉じた。
遠く、寝所の奥で、空の面箱が低く鳴った気がした。
イロハは振り返る。
箱は見えない。
けれど、わかる。
箱の中の月が、今の香を嫌がった。
カンナの役が、完全には喰われなかったからだ。
「イロハ=ナギ」
サヨが呼んだ。
イロハは我に返り、頭を下げた。
「はい」
「今のものも、月痕ですか」
問われて、イロハはカンナの香箱へ近づいた。
小さな香役面が収められている。白化はしていない。頬の線も、口元の薄い笑みも残っている。だが面の内側、ちょうど鼻筋の裏あたりに、細い白い傷が浮かんでいた。
ユラの神楽面ほど深くない。
けれど、確かに噛み跡だ。
「浅いですが、あります」
イロハは言った。
「香役の面にも、月痕が」
女房たちがざわめいた。
カンナは涙を拭いながら、香役面を見つめる。
「では、また忘れるのでしょうか」
イロハは答えようとして、言葉を探した。
完全に大丈夫とは言えない。
けれど、ただ恐怖だけを渡すこともしたくなかった。
その前に、サヨが言った。
「今夜は、もう大丈夫です」
カンナが顔を上げる。
「本当ですか」
「ええ。あなたの香で、夜が閉じました」
それは医学的な診断ではない。
面師の診立てでもない。
皇女の言葉だった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、カンナの肩から力が抜けた。
役を覚えている者が、その役を名指す。
それだけで、喰われかけたものが一時的に縫い止められる。
イロハはそれを見ていた。
サヨは無力な皇女ではない。
面を持たないから、正式な役には立てない。
けれど彼女は、失われかけた役を覚えている。
そして、それを言葉にすることで、ほんの少しだけこの世界につなぎ止める。
役を持たない皇女が、他者の役を呼び戻している。
それは奇妙で、痛ましく、そして美しいことだった。
アヤメが静かに近づいた。
「サヨ様、お戻りを。箱が」
サヨは頷いた。
寝所へ戻る途中、イロハも呼ばれた。
空の面箱は、先ほどよりも強く光っていた。
箱の中の月は、相変わらず満月だった。
だが、その輪郭がほんの少しだけ欠けている。
まるで、今喰いそこねた役の味を、まだ惜しんでいるかのように。
サヨは箱の前に座り直した。
イロハはその隣に膝をつく。
アヤメは御簾の外で警戒している。
しばらく、誰も喋らなかった。
沈香の香りが、廊下の奥からゆっくり流れ込んでくる。先ほどまで開いていた夜が、少しずつ縫い合わされていくようだった。
サヨは、箱の中の月を見たまま言った。
「わたしだけが、覚えているのです」
イロハは顔を上げた。
「喰われた役を、ですか」
「ええ」
サヨの声は静かだった。
「皆が忘れても、わたしだけは覚えている。カンナが香を替える役だったことも、庭番が月見池の水を整える役だったことも、御簾守がどの順で御簾を閉じるかも」
「いつからですか」
「幼い頃から」
サヨは小さく笑った。
「でも、わたし自身の役だけは、誰も覚えていません。わたしにも、わかりません」
イロハは、空の面箱を見た。
中の月が、白く光っている。
月は、サヨの面を喰っている。
まだない役を、ずっと喰い続けている。
けれどサヨは、他者の喰われた役を覚えている。
それは、ただの被害者ではない。
この異常の中心にいる者。
月が喰ったものを見失わない、白影宮ただひとりの記憶。
サヨは、面のない皇女ではなかった。
空の面箱の前で、喰われた役の名を覚え続ける皇女だった。
イロハは、まぶたの裏にちらつく白い月を感じながら、そっと息を吸った。
夜は、まだ始まったばかりだった。




