表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
84/108

終節 ― 焼け残った木目

 夜明け前の冥祀社は、火を終えたあとの匂いがした。


 何かが燃えたわけではない。


 《ヒドメ》は焼かれず、冥祀社の記憶棚へ納められた。火留番の職面としてではなく、武勇を称える面としてでもなく、帰る子を呼んだ者の面として。


 それでも送り庭には、火を使わずに終わったものの気配が残っていた。


 黒い灯籠の火は、もうほとんど芯のように細い。

 空の月は薄く、東の空だけが灰色にほどけ始めている。

 池の蓋には夜露が降りていたが、どこにも月は映っていなかった。


 イロハは、しばらく黒い台の前から動けなかった。


 《ヒドメ》はもうない。


 けれど、その静けさがまだそこにある。


 面箱の中で足音はしない。

 火の方角へ向こうとする気配もない。

 戻してほしいと訴えるような、あの重い音も、もう消えていた。


 終わったのだ。


 戻されたのではなく。

 焼かれたのでもなく。

 正しく、終わった。


 イロハは膝の上に置いた白布を見下ろした。


 役解きの間、《ヒドメ》を支えていた布だ。焦げ跡を隠さず、役紋を潰さず、面がほどけていくあいだ形を保つために添えていたもの。


 その白布に、薄い跡が残っていた。


 最初、灰がついたのかと思った。


 イロハは指先でそっと布の端を持ち上げる。


 違う。


 月痕ではない。


 白化面に見られる、噛み跡のような冷たい白でもない。

 火の焦げでも、灰の染みでもない。


 細い木目のような跡だった。


 淡く、薄く、布の織り目の奥へ染み込むように走っている。まるで、布の下に見えない木肌があり、その年輪だけが浮かんできたようだった。


 イロハは息を止めた。


 見覚えがある。


 そう思った。


 けれど、どこで見たのか思い出せない。


 ロウセツの工房か。

 灰面長屋か。

 白影宮の空の面箱か。

 それとも、もっと近い場所か。


「その布を」


 エンジュの声がした。


 彼は冥導面クラワタリを外していた。いつもの静かな顔に戻っているが、夜の儀式を終えたあとの目には、まだ冥府の冷たい余韻が残っている。


「見せてください」


 イロハは白布を差し出した。


 エンジュは布を受け取り、灯籠の低い火にかざす。


 木目のような跡が、淡く浮かび上がった。


 エンジュの表情が、ほんのわずかに変わる。


 驚きではない。


 警戒に近い。


「面師イロハ」


「はい」


「この木目を、どこで見ましたか」


 イロハは答えようとした。


 けれど、声が出なかった。


 知っている。


 知らないはずがない。


 なのに、記憶の奥へ手を伸ばそうとすると、そこだけ霧がかかったように輪郭が崩れる。


 焼けた家。

 灰面長屋。

 幼い自分。

 ロウセツの声。


 息はできるか。


 未完成の白い面。


 イロハは胸元を押さえた。


 その瞬間、腰の面箱が、かすかに熱を持った。


 《ナギノオモテ》の箱。


 普段は沈黙しているはずの箱が、布の木目に呼応するように、じわりと熱を帯びていた。


 イロハは思わず箱を抱える。


 アヤメが気づいた。


「イロハ殿?」


「……大丈夫です」


 そう答えたが、自分でも大丈夫とは思えなかった。


 サヨが、白布の跡を見つめていた。


 その瞳は、いつものように静かだった。けれど、その静けさの奥で、何かを感じ取っている。


「イロハ」


 サヨが呼んだ。


「その模様……あなたの面の気配に似ています」


 イロハの指が、面箱を強く握った。


「私の面に?」


「はい」


 サヨは迷いながら続ける。


「形が似ているわけではありません。木目を見たことがあるわけでもありません。でも、感じが似ています。まだ役になっていないものが、内側で息をしているような……」


 サヨはそこで言葉を止めた。


 それ以上言えば、イロハの中へ踏み込みすぎると思ったのかもしれない。


 けれど、もう十分だった。


 《ナギノオモテ》の箱は、確かに熱を持っている。


 イロハの知らない何かを、箱の中から思い出そうとしているように。


 エンジュは、白布から目を離さなかった。


「無面原の木に似ています」


 その名が出た瞬間、空気が変わった。


 無面原。


 イロハは、その名を知っている。


 聞いたことがある。


 けれど、ロウセツはその話になると、いつもはぐらかした。


 今はまだ知らなくていい。

 あそこは面師が気軽に口にする場所じゃない。

 お前の手が、まだ戻ってこられる手でいるうちは近づくな。


 そう言って、酒でも飲むように話を変えた。


 無面原。


 面を生む木がある場所。

 既存の役を写すのではなく、まだこの国に存在しない役を孕む木がある禁域。

 宮廷面師でさえ、許しなく踏み込めない場所。


 そして。


 《ナギノオモテ》の素材に関わっているかもしれない場所。


 イロハの喉が乾いた。


「どうして」


 ようやく出た声は、自分のものではないほど細かった。


「どうして、役解きに使った布に、そんな木目が残るんですか」


 エンジュは答えなかった。


 答えられないのではなく、今ここで言うべきではないと判断している顔だった。


「《ヒドメ》に、無面原の木は使われていません」


 エンジュは言った。


「では」


「布が写したのは、《ヒドメ》ではないのかもしれません」


 イロハは、面箱を抱える手に力を込めた。


 布が写したもの。


 役解きの場にあったもの。


 《ヒドメ》。

 冥導面クラワタリ

 サヨの言葉。

 ミオの願い。

 エンジュの役解き。

 そして、イロハの手。


 イロハの《ナギノオモテ》。


 サヨが小さく言った。


「終わった役をほどいた時に、始まってしまった役が反応したのかもしれません」


 その言葉に、イロハは顔を上げた。


「始まってしまった役……?」


 サヨは頷く。


「わたしの面は、まだ始まっていません。けれど、あなたの面は、もう始まっているのでしょう?」


 イロハは答えられなかった。


 始まっている。


 自分の面。


 ロウセツが与えた面。


 役のない子どもに、まず息をする役から作ると言って与えた面。


 それは救いだった。


 救いだったはずだ。


 でも、イロハは疑った。


 それは本当に救済だったのか。

 それとも、役のない子どもを、別の役へ作り変えたのか。


 そして、終わった役を戻さないことを学んだ。


 なら、次に向き合うべきものは何か。


 終わった役ではない。


 戻らない役でもない。


 始まってしまった役。


 自分の中で、すでに動き出している役。


 その時、送り庭の灰皿が、ふっと白く揺れた。


 イロハは振り向く。


 灰の上に、白い半面が浮かんでいた。


 鏡ノ客。


 エル=ネフリド。


 もう儀式は終わっている。

 映すべきものは映したはずだった。

 《ヒドメ》は送られ、記憶棚へ納められた。


 それでも、白い半面はそこにいた。


 エンジュが眉を寄せる。


「あれは、本当に節度を知りませんね」


 低い声だった。


 アヤメが刀へ手をかける。


 セイランも、今度は筆を構えた。けれど、書き出す前に止まる。記録してよいかどうかではない。自分が何を記録しようとしているのか、まだ見えないのだ。


 白い半面は、灰の上で淡く光っている。


 その表には、誰の顔も映っていない。


 ただ、イロハの持つ面箱の輪郭だけが、ぼんやり浮かんでいた。


 そして声がした。


「終わった役を戻さぬと決めたなら」


 夜明け前の冥祀社に、その声が落ちる。


 誰のものでもない声。


 近くて、遠い。


「次は、始まってしまった役を見なさい」


 イロハは息を呑んだ。


 胸の前で、《ナギノオモテ》の面箱を抱きしめる。


 箱の熱は、もう隠せないほど強くなっていた。


 熱い。


 火ではない。


 月でもない。


 木が、内側から息をしているような熱。


「あなたは」


 イロハは白い半面を睨む。


「何を知っているんですか」


 鏡ノ客は答えない。


 ただ、灰の上に、ほんの一瞬だけ木目を映した。


 白布に残ったものと同じ、細い木目。


 それは年輪のようにも見えた。


 涙の跡のようにも見えた。


 まだ彫られていない面の輪郭のようにも見えた。


 サヨが、かすかに身を乗り出す。


「その木目……」


 だが、次の瞬間には消えていた。


 白い半面も、灰の上から薄れていく。


 最後に、声だけが残った。


「無い面は、空ではありません」


「まだ名づけられていない役の、眠る場所です」


 灰は、静かになった。


 白い半面は消えている。


 冥祀社の送り庭に、夜明け前の薄い光が差し始めていた。


 遠くで、朝を告げる鳥が鳴いた。


 けれど、イロハの胸の中は夜のままだった。


 無面原。


 ロウセツが避けてきた場所。


 《ナギノオモテ》の素材に関わるかもしれない禁域。


 サヨの未在面へ繋がるかもしれない場所。


 そして、自分が救われたのか、作り変えられたのかを知る場所。


 エンジュは、白布をたたみながら言った。


「行くのですね」


 問いではなかった。


 イロハは、すぐには答えられなかった。


 面箱を抱える腕が震えている。


 怖い。


 知りたくない。


 でも、知らないままサヨの面を彫ることは、もうできない。


 終わった役を戻してはいけないと知った。

 なら、始まってしまった役も、見ないふりをしてはいけない。


 イロハは、ゆっくり顔を上げた。


「行きます」


 声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「無面原へ」


 サヨは、その横で静かに頷いた。


「わたしも行きます」


 アヤメが即座に言う。


「サヨ様」


「わたしの面にも関わるのでしょう」


 サヨの声は穏やかだった。


 だが、退かない強さがあった。


「なら、見届けます」


 イロハはサヨを見る。


 かつて、サヨは映らない顔を見た。

 そこから、面がなくても一歩を踏み出した。

 さらに、終わった役を見送った。


 そして次は。


 まだ始まってしまった役を見る。


 自分の役も、サヨの役も。


 エンジュは何も止めなかった。


 ただ、白布を丁寧に畳み、イロハへ返した。


 その布には、まだ細い木目の跡が残っている。


「持っていきなさい」


「いいんですか」


「それは、あなたに残った跡です」


 イロハは白布を受け取った。


 布の木目は、朝の薄明かりの中でさらに淡く見えた。


 けれど、消えてはいない。


 まるで道標のように。


 イロハは《ナギノオモテ》の面箱と、その白布を胸に抱いた。


 冥祀社の記憶棚では、《ヒドメ》が静かに眠っている。


 火事場へ戻らない面。


 帰る子を呼んだ者の面。


 終わった役を、正しく納めた面。


 その静けさを背にして、イロハは夜明けの庭に立った。


 面師として、初めて知った。


 直すことだけが救いではない。


 戻さないことも、送ることも、面を扱う者の仕事なのだと。


 ならば、次に問わなければならない。


 自分の面は、何を始めたのか。


 師匠は、何を救い、何を変えたのか。


 サヨのまだない面を彫る前に、自分の面の始まりを見なければならない。


 東の空が、白んでいく。


 月は薄く、消えかけている。


 けれど、イロハの腰の面箱だけが、夜の奥に残った木の熱を、まだ静かに宿していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ