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終節 ― 焼け残った木目

 夜明け前の冥祀社は、火を終えたあとの匂いがした。


 何かが燃えたわけではない。


 《ヒドメ》は焼かれず、冥祀社の記憶棚へ納められた。火留番の職面としてではなく、武勇を称える面としてでもなく、帰る子を呼んだ者の面として。


 それでも送り庭には、火を使わずに終わったものの気配が残っていた。


 黒い灯籠の火は、もうほとんど芯のように細い。

 空の月は薄く、東の空だけが灰色にほどけ始めている。

 池の蓋には夜露が降りていたが、どこにも月は映っていなかった。


 イロハは、しばらく黒い台の前から動けなかった。


 《ヒドメ》はもうない。


 けれど、その静けさがまだそこにある。


 面箱の中で足音はしない。

 火の方角へ向こうとする気配もない。

 戻してほしいと訴えるような、あの重い音も、もう消えていた。


 終わったのだ。


 戻されたのではなく。

 焼かれたのでもなく。

 正しく、終わった。


 イロハは膝の上に置いた白布を見下ろした。


 役解きの間、《ヒドメ》を支えていた布だ。焦げ跡を隠さず、役紋を潰さず、面がほどけていくあいだ形を保つために添えていたもの。


 その白布に、薄い跡が残っていた。


 最初、灰がついたのかと思った。


 イロハは指先でそっと布の端を持ち上げる。


 違う。


 月痕ではない。


 白化面に見られる、噛み跡のような冷たい白でもない。

 火の焦げでも、灰の染みでもない。


 細い木目のような跡だった。


 淡く、薄く、布の織り目の奥へ染み込むように走っている。まるで、布の下に見えない木肌があり、その年輪だけが浮かんできたようだった。


 イロハは息を止めた。


 見覚えがある。


 そう思った。


 けれど、どこで見たのか思い出せない。


 ロウセツの工房か。

 灰面長屋か。

 白影宮の空の面箱か。

 それとも、もっと近い場所か。


「その布を」


 エンジュの声がした。


 彼は冥導面《クラワタリ》を外していた。いつもの静かな顔に戻っているが、夜の儀式を終えたあとの目には、まだ冥府の冷たい余韻が残っている。


「見せてください」


 イロハは白布を差し出した。


 エンジュは布を受け取り、灯籠の低い火にかざす。


 木目のような跡が、淡く浮かび上がった。


 エンジュの表情が、ほんのわずかに変わる。


 驚きではない。


 警戒に近い。


「面師イロハ」


「はい」


「この木目を、どこで見ましたか」


 イロハは答えようとした。


 けれど、声が出なかった。


 知っている。


 知らないはずがない。


 なのに、記憶の奥へ手を伸ばそうとすると、そこだけ霧がかかったように輪郭が崩れる。


 焼けた家。

 灰面長屋。

 幼い自分。

 ロウセツの声。


 息はできるか。


 未完成の白い面。


 イロハは胸元を押さえた。


 その瞬間、腰の面箱が、かすかに熱を持った。


 《ナギノオモテ》の箱。


 普段は沈黙しているはずの箱が、布の木目に呼応するように、じわりと熱を帯びていた。


 イロハは思わず箱を抱える。


 アヤメが気づいた。


「イロハ殿?」


「……大丈夫です」


 そう答えたが、自分でも大丈夫とは思えなかった。


 サヨが、白布の跡を見つめていた。


 その瞳は、いつものように静かだった。けれど、その静けさの奥で、何かを感じ取っている。


「イロハ」


 サヨが呼んだ。


「その模様……あなたの面の気配に似ています」


 イロハの指が、面箱を強く握った。


「私の面に?」


「はい」


 サヨは迷いながら続ける。


「形が似ているわけではありません。木目を見たことがあるわけでもありません。でも、感じが似ています。まだ役になっていないものが、内側で息をしているような……」


 サヨはそこで言葉を止めた。


 それ以上言えば、イロハの中へ踏み込みすぎると思ったのかもしれない。


 けれど、もう十分だった。


 《ナギノオモテ》の箱は、確かに熱を持っている。


 イロハの知らない何かを、箱の中から思い出そうとしているように。


 エンジュは、白布から目を離さなかった。


「無面原の木に似ています」


 その名が出た瞬間、空気が変わった。


 無面原。


 イロハは、その名を知っている。


 聞いたことがある。


 けれど、ロウセツはその話になると、いつもはぐらかした。


 今はまだ知らなくていい。

 あそこは面師が気軽に口にする場所じゃない。

 お前の手が、まだ戻ってこられる手でいるうちは近づくな。


 そう言って、酒でも飲むように話を変えた。


 無面原。


 面を生む木がある場所。

 既存の役を写すのではなく、まだこの国に存在しない役を孕む木がある禁域。

 宮廷面師でさえ、許しなく踏み込めない場所。


 そして。


 《ナギノオモテ》の素材に関わっているかもしれない場所。


 イロハの喉が乾いた。


「どうして」


 ようやく出た声は、自分のものではないほど細かった。


「どうして、役解きに使った布に、そんな木目が残るんですか」


 エンジュは答えなかった。


 答えられないのではなく、今ここで言うべきではないと判断している顔だった。


「《ヒドメ》に、無面原の木は使われていません」


 エンジュは言った。


「では」


「布が写したのは、《ヒドメ》ではないのかもしれません」


 イロハは、面箱を抱える手に力を込めた。


 布が写したもの。


 役解きの場にあったもの。


 《ヒドメ》。

 冥導面《クラワタリ》。

 サヨの言葉。

 ミオの願い。

 エンジュの役解き。

 そして、イロハの手。


 イロハの《ナギノオモテ》。


 サヨが小さく言った。


「終わった役をほどいた時に、始まってしまった役が反応したのかもしれません」


 その言葉に、イロハは顔を上げた。


「始まってしまった役……?」


 サヨは頷く。


「わたしの面は、まだ始まっていません。けれど、あなたの面は、もう始まっているのでしょう?」


 イロハは答えられなかった。


 始まっている。


 自分の面。


 ロウセツが与えた面。


 役のない子どもに、まず息をする役から作ると言って与えた面。


 それは救いだった。


 救いだったはずだ。


 でも、イロハは疑った。


 それは本当に救済だったのか。

 それとも、役のない子どもを、別の役へ作り変えたのか。


 そして、終わった役を戻さないことを学んだ。


 なら、次に向き合うべきものは何か。


 終わった役ではない。


 戻らない役でもない。


 始まってしまった役。


 自分の中で、すでに動き出している役。


 その時、送り庭の灰皿が、ふっと白く揺れた。


 イロハは振り向く。


 灰の上に、白い半面が浮かんでいた。


 鏡ノ客。


 エル=ネフリド。


 もう儀式は終わっている。

 映すべきものは映したはずだった。

 《ヒドメ》は送られ、記憶棚へ納められた。


 それでも、白い半面はそこにいた。


 エンジュが眉を寄せる。


「あれは、本当に節度を知りませんね」


 低い声だった。


 アヤメが刀へ手をかける。


 セイランも、今度は筆を構えた。けれど、書き出す前に止まる。記録してよいかどうかではない。自分が何を記録しようとしているのか、まだ見えないのだ。


 白い半面は、灰の上で淡く光っている。


 その表には、誰の顔も映っていない。


 ただ、イロハの持つ面箱の輪郭だけが、ぼんやり浮かんでいた。


 そして声がした。


「終わった役を戻さぬと決めたなら」


 夜明け前の冥祀社に、その声が落ちる。


 誰のものでもない声。


 近くて、遠い。


「次は、始まってしまった役を見なさい」


 イロハは息を呑んだ。


 胸の前で、《ナギノオモテ》の面箱を抱きしめる。


 箱の熱は、もう隠せないほど強くなっていた。


 熱い。


 火ではない。


 月でもない。


 木が、内側から息をしているような熱。


「あなたは」


 イロハは白い半面を睨む。


「何を知っているんですか」


 鏡ノ客は答えない。


 ただ、灰の上に、ほんの一瞬だけ木目を映した。


 白布に残ったものと同じ、細い木目。


 それは年輪のようにも見えた。


 涙の跡のようにも見えた。


 まだ彫られていない面の輪郭のようにも見えた。


 サヨが、かすかに身を乗り出す。


「その木目……」


 だが、次の瞬間には消えていた。


 白い半面も、灰の上から薄れていく。


 最後に、声だけが残った。


「無い面は、空ではありません」


「まだ名づけられていない役の、眠る場所です」


 灰は、静かになった。


 白い半面は消えている。


 冥祀社の送り庭に、夜明け前の薄い光が差し始めていた。


 遠くで、朝を告げる鳥が鳴いた。


 けれど、イロハの胸の中は夜のままだった。


 無面原。


 ロウセツが避けてきた場所。


 《ナギノオモテ》の素材に関わるかもしれない禁域。


 サヨの未在面へ繋がるかもしれない場所。


 そして、自分が救われたのか、作り変えられたのかを知る場所。


 エンジュは、白布をたたみながら言った。


「行くのですね」


 問いではなかった。


 イロハは、すぐには答えられなかった。


 面箱を抱える腕が震えている。


 怖い。


 知りたくない。


 でも、知らないままサヨの面を彫ることは、もうできない。


 終わった役を戻してはいけないと知った。

 なら、始まってしまった役も、見ないふりをしてはいけない。


 イロハは、ゆっくり顔を上げた。


「行きます」


 声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「無面原へ」


 サヨは、その横で静かに頷いた。


「わたしも行きます」


 アヤメが即座に言う。


「サヨ様」


「わたしの面にも関わるのでしょう」


 サヨの声は穏やかだった。


 だが、退かない強さがあった。


「なら、見届けます」


 イロハはサヨを見る。


 かつて、サヨは映らない顔を見た。

 そこから、面がなくても一歩を踏み出した。

 さらに、終わった役を見送った。


 そして次は。


 まだ始まってしまった役を見る。


 自分の役も、サヨの役も。


 エンジュは何も止めなかった。


 ただ、白布を丁寧に畳み、イロハへ返した。


 その布には、まだ細い木目の跡が残っている。


「持っていきなさい」


「いいんですか」


「それは、あなたに残った跡です」


 イロハは白布を受け取った。


 布の木目は、朝の薄明かりの中でさらに淡く見えた。


 けれど、消えてはいない。


 まるで道標のように。


 イロハは《ナギノオモテ》の面箱と、その白布を胸に抱いた。


 冥祀社の記憶棚では、《ヒドメ》が静かに眠っている。


 火事場へ戻らない面。


 帰る子を呼んだ者の面。


 終わった役を、正しく納めた面。


 その静けさを背にして、イロハは夜明けの庭に立った。


 面師として、初めて知った。


 直すことだけが救いではない。


 戻さないことも、送ることも、面を扱う者の仕事なのだと。


 ならば、次に問わなければならない。


 自分の面は、何を始めたのか。


 師匠は、何を救い、何を変えたのか。


 サヨのまだない面を彫る前に、自分の面の始まりを見なければならない。


 東の空が、白んでいく。


 月は薄く、消えかけている。


 けれど、イロハの腰の面箱だけが、夜の奥に残った木の熱を、まだ静かに宿していた。

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