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第九節 ― 白面は焼かれない

 役解きが終わっても、すぐに火は入れられなかった。


 送り庭の奥には、面を焼くための小さな炉がある。


 大きな火ではない。


 轟々と燃え上がる火でも、面を罰するための火でもない。役を終えた面を灰へ返すための、低く、静かな火だ。


 黒い炉口の前には、灰を受ける小壺が置かれていた。


 その隣には、白い面灰袋。


 焼かれた面の灰を納めるための袋だ。


 エンジュは冥導面クラワタリを外さないまま、《ヒドメ》を見ていた。


 イロハもまた、黒い台の上の白面から目を離せなかった。


 さきほどまで聞こえていた足音は、もうない。


 とん、と火の中へ戻ろうとする音も。

 とん、と誰かを呼びにいく音も。

 とん、と役を終えきれずに残る音も。


 すべて、沈黙の奥へ帰っていた。


 それでも、《ヒドメ》は空っぽには見えなかった。


 灰白の面には、右頬の焦げ跡が残っている。額には火留番の役紋が残っている。内側には、持ち主の指が触れ続けた跡も、火除けの祈りも残っている。


 役はほどけた。


 けれど、何もかも消えたわけではない。


 イロハは、そこに違和感を覚えた。


 焼けば、静かになる。


 面としての形は終わる。

 火留番としても、祖父としても、もう誰にも使われない。

 灰になれば、二度と火事場へ戻ることはない。


 それは正しい。


 正しいはずだった。


 けれど。


「……この面は」


 イロハは、思わず口を開いた。


 エンジュがこちらを見る。


「焼くんですか」


 ミオが、息を詰めた。


 彼女はもう「焼かないで」と叫ばなかった。


 けれど、目は《ヒドメ》から離れない。


 祖父を火事場へ戻したいわけではない。

 でも、面が灰になることを、すぐに受け入れられるわけでもない。


 その狭間に立っている目だった。


 エンジュは、すぐには答えなかった。


 冥祀僧は、黒い台の前に膝を折る。


 《ヒドメ》の額、頬、面紐の跡、内側の祈りを順に見た。


 死者の役をほどいた者の目で。


 そして、面師とは違う手つきで、白い面の輪郭へ指を添えた。


 イロハは、その手元を見つめる。


 エンジュの手は、直す手ではない。


 欠けを埋めるわけでも、漆を重ねるわけでも、役を戻すわけでもない。


 ただ、残っているものと、もう離れたものを分けている。


「通常なら」


 エンジュは静かに言った。


「役解きを終えた面は、焼きます」


 ミオの肩が震える。


「役の名残が残りすぎている面は、形を残すと、また呼ばれます。遺族が呼ぶこともある。土地が呼ぶこともある。火や水や舞台が、その面を覚えてしまうこともある」


 イロハは頷いた。


 それは、少しわかる気がした。


 面は、ただの物ではない。


 誰かが着け、誰かが見て、誰かが呼んだ時点で、世界の中に役として残る。


 形があれば、呼ばれる。


 役が終わっても、面があれば、また誰かがその役へ縋るかもしれない。


「だから、焼くのですね」


「はい」


 エンジュは答えた。


「多くの場合は」


 その言葉に、イロハは顔を上げた。


 多くの場合。


 つまり、すべてではない。


 エンジュは《ヒドメ》の内側を見た。


「この面は、もう火留番として戻ろうとしていません」


 ミオが、小さく息を吸う。


「火の方角を向いていない。面紐も鳴らない。役紋も、持ち主を呼んでいない」


 エンジュは、指先で焦げ跡のそばに触れた。


「戻る役は、ほどけました」


 イロハは静かに言った。


「でも、残っているものがあります」


 エンジュは頷く。


「はい」


 イロハは《ヒドメ》を見つめた。


「火留番の役ではなくて」


 言葉を探す。


「火を留めたこと。帰る子を呼んだこと。その子が帰ったこと」


 サヨが、そっと顔を上げた。


 イロハの言葉の続きを、彼女が受け取る。


「誰にも知られなかった最後の役が、ようやく見届けられたこと」


 黒い庭に、静かな沈黙が落ちる。


 エンジュは、冥導面クラワタリの奥で目を伏せた。


「これは」


 ゆっくりと言う。


「焼く面ではありません」


 ミオの唇が震えた。


 イロハも、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 エンジュは続ける。


「納める面です」


 その言葉は、夜の送り庭に深く沈んだ。


 焼かない。


 戻さない。


 飾らない。


 ただ、納める。


 イロハは、初めてその違いをはっきり感じた。


 面を残すことが、必ずしも役を戻すことではない。

 面を焼かないことが、必ずしも未練を残すことではない。

 正しく役をほどいたあとなら、面は死者を縛る器ではなく、見届けられた記憶を納める器になる。


 ミオは、声を震わせた。


「納める……」


「はい」


 エンジュは頷いた。


「火留番の職面としてではありません」


 ミオは目を伏せる。


「火消しの武勇を称える面としてでもありません」


 その言葉に、ミオの涙がまた落ちた。


 けれど、今度は痛みに抗う涙ではなかった。


 少しずつ、祖父を火の前から離していく涙だった。


 エンジュは、《ヒドメ》へ向かって低く告げた。


「帰る子を呼んだ者の面として、冥祀社の記憶棚に納めます」


 ミオは両手で顔を覆った。


 その肩が震える。


「祖父は……覚えてもらえるんですか」


「はい」


 エンジュの声は静かだった。


「火の前へ戻すためではなく、もう戻らなくてよい者として」


 ミオは泣いた。


 戻してほしい涙ではなかった。


 祖父を火事場へ引き戻す涙でもなかった。


 ようやく送れる涙だった。


 イロハは、その涙を見ていた。


 何もしないことが、これほど難しいとは思わなかった。


 直さないこと。

 戻さないこと。

 焼かないこと。

 けれど、放っておかないこと。


 面を扱う仕事の中に、こんな手つきがあるのだと、今夜ようやく知った。


 エンジュは冥祀社の奥から、小さな冥箱を持ってこさせた。


 面箱とは少し違う。


 黒漆ではなく、薄墨色の木で作られた箱だった。蓋には火留番の紋ではなく、細い帰路紋が刻まれている。


 迷った者が、家へ戻る道を示す小さな文様。


 サヨはそれを見て、静かに言った。


「帰る子の道ですね」


「はい」


 エンジュは答えた。


「この面には、その紋がふさわしい」


 イロハは白布を整えた。


 役解きの間、《ヒドメ》を支えていた白布だ。


 焦げ跡を隠さないように。

 役紋を誇示しすぎないように。

 内側の祈りが潰れないように。


 慎重に包む。


 その手は、修理の手つきとは違っていた。


 けれど、いい加減な手つきでもない。


 面を終わりへ運ぶための手。


 イロハは、自分の手が少しだけ変わった気がした。


 ミオが、そっと近づいた。


「触れても、いいですか」


 エンジュは頷いた。


「今なら」


 ミオは、白布の上から《ヒドメ》へ指先を触れた。


 ほんの少しだけ。


「お祖父様」


 声が揺れる。


「火を留めてくれて、ありがとうございました」


 白い面は鳴らない。


「帰る子を、呼んでくれて、ありがとうございました」


 もう、足音はしない。


 だからこそ、ミオは泣いた。


 イロハには、その沈黙が救いのように思えた。


 エンジュが冥箱を開く。


 《ヒドメ》は、白布に包まれたまま、その中へ納められた。


 蓋はすぐには閉じられない。


 エンジュは、木札を一枚取り出す。


 そこへ筆で、ゆっくり書いた。


 ソウマ=カガリ。

 火留職面ヒドメ

 火を留めし者。

 帰る子を呼びし者。

 役解き了。

 記憶棚納め。


 イロハは、その文字を見つめた。


 正式な職面としてではない。


 火留番の武勇を称える記録でもない。


 でも、そこに確かに残った。


 最後の役が、ただの未練でも、怪異でも、白化でもなく、ひとつの見届けられた記憶として。


 セイランが、閉じていた記録帳をそっと開いた。


 エンジュは何も言わなかった。


 セイランは、低い声で確認する。


「これは、記録してもよいものですか」


 エンジュは少しだけ考えた。


「正式記録ではなく、冥祀記録としてなら」


「読まれるためではなく」


 セイランは言った。


「残すために」


 エンジュは頷いた。


「はい」


 セイランは筆を取った。


 その筆先は、以前のように急いでいなかった。


 数値でも、方位でも、判定でもなく、見届けたものを残すための筆だった。


 サヨは、冥箱に納められた《ヒドメ》を見ている。


「終わった役は、消えない」


 彼女は小さく呟いた。


「けれど、呼び戻さなくてもよい形で、残せるのですね」


「そうです」


 エンジュが言った。


「面は、役を始める器でもあり、役を終える器でもあります。そして時には、終わった役を静かに納める器にもなる」


 イロハは、その言葉を胸に刻んだ。


 第7話で、面は一歩を失わせないための器だと思った。


 でも、それだけでは足りない。


 面は、役を始めるだけではない。

 面は、役を固定するだけでもない。

 面は、終わった役を、もう働かせずに残すための器にもなれる。


 直すことだけが、面師の仕事ではない。


 役を戻すことだけが、救いではない。


 面が抱えている役を、正しく終わらせることもまた、面を扱う者の仕事なのだ。


 イロハは、深く息を吸った。


 そして、冥箱に納められた《ヒドメ》へ、もう一度頭を下げる。


「ありがとうございました」


 ミオが、泣きながら微笑んだ。


「祖父にですか」


 イロハは少し考えた。


「はい」


 それから、正直に言い直す。


「それと、この面に」


 ミオは、また泣いた。


 けれど今度は、少しだけ笑っていた。


 エンジュは冥箱の蓋を閉じた。


 かたり、と小さな音がした。


 それは終わりの音だった。


 けれど、消失の音ではなかった。


 戻る役はほどけた。

 火事場へ向かう足音は消えた。

 けれど、帰る子を呼んだ者の面は、ここに残る。


 送り庭の奥、黒い灯籠の火が低く揺れる。


 その光の中で、白い面はもう見えない。


 けれどイロハには、不思議と寂しさだけではなかった。


 面は、あるべき場所へ納まった。


 そう感じた。


 その感覚は、今までイロハが知っていた「修復の完了」とはまったく違う。


 でも、確かにひとつの完成だった。

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