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第八節 ― 役解きの儀

 夜半、冥祀社の奥にある送り庭へ、黒い台が運び出された。


 庭と呼ばれてはいるが、花はない。


 白砂もない。


 あるのは、灰を混ぜた黒土と、低い石灯籠と、面を焼いたあとの小さな灰壺だけだった。


 空には月があった。


 けれど、送り庭には月を映す水がない。水鉢も、鏡も、磨かれた金具も伏せられている。月はただ空にあり、地上のどこにも降りてこない。


 ここでは、死者の役を映さない。


 ここでは、死者の役を呼び戻さない。


 ただ、送る。


 黒い台の上に、火留職面ヒドメが置かれた。


 灰白の面は、昼間よりもずっと静かに見えた。右頬の焦げ跡も、額の火留番の役紋も、消えたわけではない。だが、そこに残っていた熱だけが、少しずつ遠のいている。


 イロハは、白布を持って台のそばに座った。


 白布は、傷を隠すためではない。


 面の割れや古い焦げを支え、役をほどく間に形が崩れないよう添えるためのものだった。


 エンジュは冥導面クラワタリを着けていた。


 薄墨色の面の奥から聞こえる声は、昼間の彼よりもさらに遠かった。冷たいのではない。生者の側から、少しだけ退いている声だった。


 ミオ=カガリは、黒い台の正面に座っている。


 泣き疲れた顔をしていたが、逃げようとはしなかった。両手を膝の上に置き、祖父の面を見つめている。


 サヨは、ミオの少し後ろに座った。


 皇女としてではない。

 役名を保留された者としてでもない。

 ただ、最後の役を見届ける者として。


 アヤメは、その背後に控えている。刀には手をかけていない。今夜の敵は、斬れるものではなかった。


 セイランは少し離れた場所で、記録帳を閉じていた。筆も置いている。


 記録する前に、見届ける。


 それがこの場の作法だと、彼も理解していた。


 エンジュが、冥鈴を手に取る。


 それは、ウズメの舞殿の鈴とは違っていた。


 高く鳴らない。


 人を呼び集める音でも、神を迎える音でもない。


 振られると、低く、短く、土の中へ沈むような音がした。


 ――こん。


 音というより、終わりの合図だった。


 エンジュが言った。


「ソウマ=カガリ」


 黒い庭に、その名が静かに置かれる。


「火留番として火の境に立ち、火をここから先へ通さなかった者」


 《ヒドメ》の額の役紋が、かすかに灯を返した。


 イロハは白布をそっと添える。


 戻すためではない。


 面が最後の役をほどかれる間、壊れてしまわないように。


「あなたは、火を恐れなかった」


 こん。


「あなたは、火を侮らなかった」


 こん。


「あなたは、火をここから先へ通さなかった」


 冥鈴の音が、黒土へ沈む。


 そのたびに、《ヒドメ》の内側から、ごく小さな足音が返った。


 とん。


 まだいる。


 まだ、完全には離れていない。


 イロハは、胸が締めつけられるのを感じた。


 手が、いつもの仮札を探しそうになる。


 だが、今夜置くのは、役を戻す札ではない。


 エンジュから渡された小さな灰色の札。


 名は、まだない。


 冥祀社ではただ、ほどき札と呼ぶという。


 イロハは、その札を《ヒドメ》の内側へそっと置いた。


 仮置きではない。


 仮解き。


 失われた役をつなぐためではなく、終わった役が面から離れる道を、一時的に開くための札。


 置いた瞬間、イロハの指先に火の熱ではなく、白い煙の冷たさが触れた。


 視界の奥に、またあの子どもが立つ。


 煙の中で、自分の名も、帰る家も、逃げる道も見失った子。


 だが今、その子は泣いていなかった。


 遠くに戸口が見える。


 その向こうに、誰かの家の灯がある。


 サヨが、静かに口を開いた。


「あなたは、火を消した人でした」


 ミオの肩が震える。


 サヨは続けた。


「火を留めた人でした」


 《ヒドメ》の内側で、足音がひとつ鳴る。


 とん。


「けれど最後には、帰る子を呼んだ人でした」


 イロハの視界の中で、煙の奥から低い声が聞こえた気がした。


 お前は、まだ帰る子だ。


 こっちへ来い。


 その声に、子どもが顔を上げる。


 サヨは、目を閉じずに言葉を続けた。


「その子は、帰りました」


 ミオが、両手で口元を押さえた。


「あなたが呼んだから、帰りました」


 冥鈴が低く鳴る。


 こん。


 《ヒドメ》の内側の足音が、遠ざかる。


 とん。


 とん。


 火事場へ向かう音ではない。


 役を終えた者が、火の前から離れる音。


 サヨの声が、夜の庭に澄んで響いた。


「だから、もう火の中へ戻らなくてよいのです」


 その瞬間、《ヒドメ》の右頬に残っていた焦げ跡から、ほんのわずかに黒い灰が落ちた。


 傷が消えたのではない。


 ただ、熱だけが抜けた。


 イロハは、白布でその頬を支えた。直さない。拭わない。消そうとしない。ただ、面がその形のまま、役を終えられるように支えた。


 エンジュが小刀を取り出す。


 面紐の結び目へ刃先を添え、ゆっくりとほどいていく。


「火留の役、ここに納む」


 結び目が、ひとつ緩む。


「境の役、ここに納む」


 もうひとつ緩む。


「帰す役、ここに見届ける」


 最後の結び目がほどけた時、《ヒドメ》の内側から、ふっと白い煙が抜けたように見えた。


 実際に煙が出たわけではない。


 けれど、その場にいた全員が、何かが離れていくのを感じた。


 ミオが、涙のまま言った。


「お祖父様」


 エンジュは、止めなかった。


 今の呼びかけは、火留番を戻す声ではなかった。


 ただ、見送る声だった。


 ミオは、震えながら続けた。


「火の中へ、もう戻らないでください」


 《ヒドメ》の足音が、遠くで一度鳴った。


 とん。


「帰る子を、帰してくれて……ありがとうございました」


 それが最後だった。


 足音は、それきり聞こえなくなった。


 黒い庭に、深い沈黙が落ちる。


 ウズメの舞殿で聞いた、始まりの沈黙とは違う。


 これは、終わりがきちんと終わったあとの沈黙だった。


 サヨは、ゆっくり息を吐いた。


 イロハは《ヒドメ》から手を離す。


 面は、そこにあった。


 灰白のまま。

 焦げ跡も、役紋も残したまま。

 けれど、もう火の方角を向いてはいなかった。


 エンジュは冥鈴を最後に一度だけ鳴らした。


 こん。


 その音が沈みきってから、彼は告げた。


「役解き、了」


 ミオは深く頭を下げた。


 声は出なかった。


 だが、その姿はもう、祖父を火事場へ引き戻そうとする遺族のものではなかった。


 役を終えた人を、ようやく見送った者の姿だった。


 イロハは、自分の手を見る。


 何も直していない。


 色も戻していない。

 焦げ跡も消していない。

 火留番の役を仮置きもしていない。


 それでも、面は救われたように見えた。


 いや。


 救われた、という言い方すら、少し違うのかもしれない。


 面は、解かれたのだ。


 戻すのではなく。


 直すのでもなく。


 終わるべきところへ、ようやく届いた。


 サヨが、小さく言った。


「役は、終わっても消えないのですね」


 エンジュは《クラワタリ》の奥で頷いた。


「はい。終わった役は、消えるのではありません。呼び戻されなくなるだけです」


 その言葉は、イロハの胸に深く残った。


 サヨの未在面。


 まだ作られていない面。


 その面にも、いつか始まりだけでなく、終わりを許す余白が必要なのだ。


 イロハは、黒い台の上で静かに眠る《ヒドメ》へ頭を下げた。


「戻そうとして、ごめんなさい」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 ソウマ=カガリへか。

 《ヒドメ》へか。

 ミオへか。

 それとも、いつか自分が作るかもしれないサヨの面へか。


 ただ、その言葉を言わなければならない気がした。


 夜の送り庭に、もう足音はなかった。


 けれど、静けさの奥で、誰かがようやく帰り着いたような気配だけが、長く残っていた。

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