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第七節 ― 戻すか、送るか

 役解きが始まる。


 そう聞いた瞬間、イロハの胸の奥で、何かが強く脈打った。


 黒い低台の上には、火留職面ヒドメがある。


 灰白の面。

 右頬の焦げ跡。

 額に残る火留番の役紋。

 そして、内側にまだかすかに残る足音。


 とん。


 遠ざかっている。


 けれど、まだ消えてはいない。


 その音を聞いた時、イロハの手は、また動きかけた。


 一瞬だけなら。


 そう思ってしまった。


 一瞬だけなら、《ヒドメ》を火留番の役へ戻せるかもしれない。


 ソウマ=カガリが火の前に立った姿を、ミオに見せられるかもしれない。

 火留番としての誇りを、最後にもう一度だけ形にできるかもしれない。

 面が鳴る理由を、目に見える形で示せるかもしれない。


 戻せば、ミオは納得するかもしれない。


 祖父は確かに火留番だった。

 最後まで役を果たした。

 だから安心して送れる。


 そう思えるかもしれない。


 イロハは、膝の上の仮札へ指を伸ばした。


 薄い札。


 役を仮に置くための札。


 前にユラの舞の入口を、一瞬だけ繋いだ札。

 さらにハルマサの抜刀の入口を探った札。

 傷ついた役を、完全ではなくても、一時的に支えるためのもの。


 指先が札に触れる。


 その瞬間、イロハの脳裏に、灰面長屋の水桶が浮かんだ。


 ミツの顔が映らなかった水面。


 借り物の子ども面を抱えた小さな手。


 面がないと、店の人が目を合わせてくれないんだ。

 でも、借り物の面をつけると、今度は誰の子かわからないって言われる。


 イロハはあの時、ミツに役を置きかけた。


 戻すべき役がない子に、何かを与えようとした。


 救いたかった。


 でも、それは押しつけになったかもしれない。


 次に、ウズメの舞殿の稽古板が浮かぶ。


 サヨの一歩。


 舞ではない。

 神楽でもない。

 ただ、前へ出る一歩。


 その一歩から、イロハはサヨの未在面の最初の線を見た。


 面は、本人が踏み出した一歩に追いつくものでなければならない。


 先に役を与えるものではない。


 そして今。


 目の前にあるのは、終わった役だった。


 もう持ち主の身体はない。


 もう火の前へ戻らなくていい。


 サヨが見届けた最後の役は、火を消すことではなく、子を帰すことだった。


 その役は、果たされている。


 それなのに、自分はまた、火留番の役を戻そうとしている。


 イロハの指が、仮札の上で止まった。


 息が苦しくなる。


 戻せるかもしれない。


 でも、戻してはいけないのかもしれない。


 その境目が、あまりにも細かった。


「面師イロハ」


 エンジュの声がした。


 イロハは、仮札に触れたまま顔を上げた。


 エンジュは責めていない。


 ただ、見ていた。


 イロハの手を。

 迷いを。

 直したい衝動を。


「あなたの手は、優しい」


 静かな言葉だった。


 イロハは、何も言えなかった。


「けれど」


 エンジュは続ける。


「優しい手ほど、死者を引き留めることがあります」


 その言葉に、イロハの指が震えた。


 優しい手。


 そう呼ばれたのに、褒められた気がしなかった。


 むしろ、怖かった。


 優しさで、死者を引き留める。


 救いたいという気持ちで、終わった役をもう一度働かせる。


 それは、悪意よりもずっと見分けにくい。


「私は」


 イロハの声は、少し掠れた。


「戻したかったんだと思います」


 誰も、すぐには答えなかった。


 イロハは、低台の《ヒドメ》を見る。


「ミオさんのために、とか。面が鳴っているから、とか。そういう理由をつけて。でも、本当は……戻せる自分でいたかったのかもしれません」


 サヨが、静かにイロハを見る。


 ミオも、涙の跡が残る顔で彼女を見ていた。


「壊れたものを直せる。欠けた役を繋げる。失われた入口を見つけられる。そう思っていたかった」


 イロハは、仮札から手を離した。


「でも、それだけでは駄目なんですね」


 エンジュは頷いた。


「はい」


 短い肯定。


 けれど、今のイロハには、それで十分だった。


 優しく慰められたら、また迷ったかもしれない。


 ここで必要なのは、慰めではなかった。


 線を引くことだった。


 イロハは、仮札をしまった。


 その動作を見て、ミオが小さく息を呑む。


 けれど、彼女はもう「戻してください」とは言わなかった。


 代わりに、《ヒドメ》を見つめ、震える声で言う。


「では、祖父は……このまま消えるのですか」


「消すのではありません」


 エンジュが答えた。


「ほどきます」


「ほどく?」


「火留番としての役を、面から解きます。ソウマ=カガリ殿を、火の前に立ち続ける役から休ませるのです」


 ミオの目に、また涙が浮かんだ。


「それは、祖父が火留番だったことを、なくすのとは違うんですね」


「違います」


 エンジュの声は、今までより少し柔らかかった。


「火留番だったことは消えません。火を留めたことも、子を帰したことも、消えません。ただ、その役を今も続けよと呼ぶ声を、ここで終わらせます」


 ミオは、両手を膝の上で握りしめ、ゆっくり頷いた。


「……お願いします」


 エンジュは深く礼をした。


 それは遺族に対する礼であり、死者に対する礼でもあった。


「承りました」


 イロハは、小さく息を吸った。


「じゃあ、私は何をすればいいんですか」


「見ていてください」


 エンジュは言った。


「それだけですか」


「まずは」


 イロハは戸惑う。


 面師として呼ばれたのではないのか。


 何かを手伝うのではないのか。


 そう思ったが、エンジュは続けた。


「直す手を止めることも、面師の仕事です」


 イロハは、胸を突かれたように黙った。


 エンジュは冥導面クラワタリを手に取る。


 薄墨色の面。


 川を渡るような銀線が、灯籠の低い火を受けて静かに光る。


 彼はそれを顔へ当てた。


 面紐を結ぶ。


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 冷たくなったのではない。


 遠くなった。


 生者の息が一歩退き、終わった役の声を聞くための場所が開いたようだった。


 エンジュ=クラモリは、冥祀僧から、冥導の役へ入った。


 彼は黒い皿の灰を指でならす。


 灰の表面には、まだ白い半面の名残がかすかに浮かんでいた。


 鏡ノ客。


 エンジュは、それに向かって短く言った。


「ここから先は、送る者の場です」


 白い半面は答えない。


 ただ、灰の上で少し薄くなる。


 消えはしない。


 けれど、邪魔もしない。


 映すだけのものは、送る者の役を奪わない。


 エンジュは、灰の皿を《ヒドメ》の前へ置いた。


 次に、小刀を抜く。


 刃は人を斬るためのものではなかった。


 死者の面紐をほどくための小刀。


 鋭いが、冷たい光はない。むしろ灯籠の火を吸って、鈍く沈んでいる。


 エンジュは、低く唱えた。


「火を恐れるな」


 《ヒドメ》の内側で、かすかな音がする。


 とん。


「火を侮るな」


 とん。


「火をここから先へ通すな」


 その三つ目の言葉で、《ヒドメ》の額の役紋が薄く光った。


 ミオが唇を噛む。


 イロハも息を止める。


 火留番の祈り。


 ソウマ=カガリが何度も面の内側で聞いた言葉。


 エンジュは、その祈りを否定しなかった。


 消すのではない。


 まず、認める。


 確かにあった役として。


「ソウマ=カガリ」


 エンジュの声が低く響く。


「あなたは火を留めた」


 黒い灯籠の火が揺れる。


「あなたは境を作った」


 灰皿の表面に、火事場の影がかすかに浮かぶ。


「あなたは人を逃がした」


 ミオの涙が落ちる。


「そして最後に、帰る子を呼んだ」


 その言葉で、《ヒドメ》の内側が柔らかく鳴った。


 とん。


 今度の音は、火の中へ踏み込むものではなかった。


 帰る道を示す足音だった。


 エンジュは、小刀を《ヒドメ》の面紐に近づける。


 切るのではない。


 結び目に刃先を添え、ゆっくりと緩める。


「火留番の役を、ここに納める」


 面紐が、少しほどけた。


 イロハの胸の奥で、何かが震えた。


 面紐をほどく。


 ただそれだけの動作なのに、役がゆっくり面から離れていくのがわかる。


 それは壊すことではなかった。


 捨てることでもなかった。


 役を、役として認めたうえで、もう続けなくてよいと告げること。


 エンジュは、次に灰皿へ指を差し入れた。


 灰の上に、細い線を描く。


 火の線ではない。


 境の線。


 ここから先へ、火を通さない線。


 しかし、その線はすぐに指で崩された。


 イロハは、はっとする。


 境を作り、そして崩す。


 火留番の役を示し、それを終える。


 エンジュは言った。


「境は果たされた」


 灰が静かに沈む。


「子は帰った」


 ミオが声を殺して泣く。


「火は、もうあなたを呼ばない」


 その言葉の瞬間、《ヒドメ》の右頬に残っていた焦げ跡が、ほんの少しだけ薄くなったように見えた。


 完全に消えたわけではない。


 消えてはいけないのだろう。


 それは、役があった証だから。


 でも、焦げ跡の熱だけが静まった。


 イロハは、涙が出そうになった。


 直していない。


 色を戻していない。


 傷を塞いでいない。


 それなのに、面が少し楽になったように見えた。


 エンジュは、ミオへ目を向ける。


「ミオ=カガリ」


「はい」


 涙で濡れた声。


「あなたは、ソウマ=カガリ殿を火留番として呼び戻しませんか」


 ミオは、《ヒドメ》を見る。


 長い沈黙。


 そして、震えながら答えた。


「呼び戻しません」


 《ヒドメ》が、小さく鳴る。


 とん。


 エンジュは続ける。


「では、何として覚えますか」


 ミオは、言葉を探した。


 火留番として。


 そう言いかけて、止まる。


 祖父として。


 それだけでも足りない。


 彼女は泣きながら、やっと言った。


「火を留めて、子を帰した人として」


 サヨが、静かに目を伏せた。


 イロハの胸にも、その言葉が沈んだ。


 火を留めて、子を帰した人。


 それは、火留番の役だけではない。


 ソウマ=カガリの最後の姿を含んだ言葉だった。


 エンジュは頷く。


「それでよいと思います」


 そして、面紐をもう一段ほどいた。


 《ヒドメ》の内側から、足音が遠ざかる。


 とん。


 とん。


 それは、火事場へ急ぐ音ではない。


 長い役目を終え、家へ帰る音。


 イロハは、膝の上で自分の手を握っていた。


「何もしないんじゃないんですね」


 小さく呟く。


 エンジュは、面を見たまま答えた。


「はい」


「直さないだけで」


「はい」


「ちゃんと、することはあるんですね」


 エンジュは、わずかに頷いた。


「あります」


 イロハは、胸の奥で何かが少しだけほどけるのを感じた。


 直さないことは、諦めではない。


 戻さないことは、見捨てることではない。


 送るという仕事がある。


 役をほどくという手つきがある。


 自分は、それを知らなかった。


 エンジュは《クラワタリ》の奥で、静かに言った。


「面師イロハ。あなたがこれから彫ろうとしている面にも、同じことが言えます」


 イロハの心臓が跳ねた。


 サヨが、わずかに顔を上げる。


「まだ彫っていない面にも、終わりがあるのですか」


 イロハが問う。


「あります」


 エンジュは答えた。


「面は役を始める器であり、残す器であり、いずれ終える器でもあります。終わりを考えずに彫られた面は、持ち主を役へ閉じ込めることがあります」


 イロハは、息を呑んだ。


 サヨの未在面。


 まだない皇女の役を彫る面。


 それを作るなら。


 サヨが立つためだけではなく、サヨがその役を選び直せる余白。

 そして、いつかその役を脱ぐこともできる余白。


 そこまで考えなければならないのか。


 イロハは、サヨを見た。


 サヨは《ヒドメ》を見つめている。


 その目は悲しげだったが、弱くはなかった。


「役は、始まるだけではないのですね」


 サヨが言った。


「はい」


 エンジュが答える。


「終わることも、役の一部です」


 灰皿の上の白い半面は、ほとんど消えかけていた。


 映すべき問いを投げ終えたのだろう。


 けれど最後に、その白い輪郭がイロハの方へわずかに向いた。


 声はしなかった。


 それでも、問いだけが残る。


 戻したいのは、誰ですか。


 イロハは、目を逸らさなかった。


 答えはまだ出ない。


 《ナギノオモテ》についても。

 サヨの未在面についても。

 自分の手についても。


 でも、今この面は戻さない。


 それだけは、選べた。


 エンジュは役解きの最後に、冥鈴へ手をかけた。


 音の鳴らない鈴。


 それを、そっと揺らす。


 音はしなかった。


 けれど、部屋の中にあった足音が、すうっと遠のいていくのがわかった。


 とん。


 最後の一音。


 そして、沈黙。


 《ヒドメ》は、黒い低台の上で静かに眠っていた。


 もう、火の方角を向いてはいなかった。

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