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第六節 ― 映すだけの白い半面

 冥導面クラワタリの白布がほどかれた時、冥祀社の灯が一度だけ低く揺れた。


 風はない。


 戸は閉じられている。

 池には蓋がされている。

 水盆も、鏡も、銀の皿も、この部屋には置かれていない。


 ミナ=クラの冥祀社では、映るものを遠ざける。


 死者の役が、月に呼ばれないように。

 終わった面が、もう一度こちらを向かないように。

 生者の未練が、死者の顔を勝手に形作らないように。


 だから、黒い低台のそばにあるのは、水ではなく灰だった。


 焼面用の灰を薄く敷いた、黒い皿。


 灰は光を返さない。


 何も映さず、何も呼ばず、終わったものを静かに沈めるための器。


 そのはずだった。


 エンジュが《クラワタリ》を手に取った瞬間、灰の表面が、ふ、と白く揺れた。


 イロハは息を呑む。


 灰が波打ったのではない。


 灰の上に、何かが浮いた。


 白い半面。


 目穴はない。


 けれど、見ている。


 笑ってはいない。


 けれど、そこにいるだけで、こちら側の形がすべて映されてしまうような、白い面。


 鏡ノ客。


 イロハの背筋に冷たいものが走った。


 陰陽寮の鏡水に現れた白い半面。

 定役面コトサダメの裏に映った白い客。

 ウズメの舞殿の誰も座っていない白い席にいた観客。


 今度は、水でも、鏡でも、面の裏でもない。


 灰の上にいる。


 映るはずのないものに、映っている。


 アヤメが即座に刀へ手をかけた。


「下がってください」


 低い声。


 サヨの前へ、半歩出る。


 セイランも反射的に筆を構えた。だが、その筆先は迷っている。記録してよいのか、してはならないのか、この場では判断がつかない。


 袖の中のヒヨリは、紙の耳だけを出して、すぐに引っ込めた。


 白い半面は、誰にも襲いかからない。


 ただ、灰の表面に浮かんでいる。


 けれど、それだけで部屋の空気が変わっていた。


 ミオは、祖父の面を抱きしめたい衝動を抑えるように、両手を胸元で握っている。


 サヨは、灰の上の白い半面から目を逸らさなかった。


 エンジュだけが、動じていなかった。


 彼は《クラワタリ》を膝の上に置いたまま、灰皿の白い半面を静かに見下ろした。


「見ない方がよいものです」


 イロハは、思わず問い返した。


「知っているんですか」


「噂は」


 エンジュの声は低い。


「冥祀社にも、時折、映るものがあります。水を隠し、鏡を伏せ、月を避けても、なお映ってしまうものが」


 白い半面は何も言わない。


 沈黙のまま、灰の上で薄く浮いている。


 イロハは一歩、前へ出た。


 アヤメが止める。


「イロハ殿」


「大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


 アヤメの声には、強い警戒があった。


 だが、イロハは白い半面から目を離せなかった。


「あなたは、何を見せに来たんですか」


 問いは、灰皿へ落ちた。


 しばらく、何も起きなかった。


 黒い灯籠の炎が、低く揺れる。

 冥箱の黒紐が、かすかに震える。

 《ヒドメ》の灰白の頬に、灯が薄く差す。


 やがて、灰の上の白い半面が、声を持った。


「見せているのではありません」


 誰の声でもなかった。


 男のようでも、女のようでもない。

 老いているようでも、幼いようでもない。

 近くから聞こえるのに、遠い。


「映っているだけです」


 イロハの胸が、ぎゅっと縮む。


 映っているだけ。


 それは、何度も感じてきたこの存在の本質だった。


 助けない。

 止めない。

 裁かない。

 弔わない。


 ただ、映す。


 こちらが隠したものも、見ないふりをしたものも、決めつけたものも、未在のものも、終わったはずのものも。


 灰の上に、ふっと別の影が現れた。


 白い煙。


 火事場。


 イロハが見た、あの子ども。


 煙の中で、自分の名前も、家も、帰る道も見失っている子。


 そこへ踏み込む、火留番の足。


 とん。


 《ヒドメ》の内側の足音と、灰の上の影が重なった。


 ミオが息を呑む。


「お祖父様……」


 その声に、灰の影が揺れた。


 火留番の背中が、少しだけ形を持つ。


 煤朱と黒鉄の面。

 煙の中で低く構えた身体。

 子どもへ伸ばされる手。


 ミオの目に涙が浮かぶ。


 見たい。


 もう一度見たい。


 その願いが、灰の上にそのまま映ってしまう。


 白い半面は何も言わない。


 ただ映す。


 今度は、イロハの手が映った。


 《ヒドメ》へ伸びかけた手。


 直したい手。

 戻したい手。

 鳴っているなら応えたい手。

 欠けているなら塞ぎたい手。


 その手が、火事場の背中へ向かって伸びる。


 イロハは、自分の指を強く握った。


「やめてください」


 声が掠れた。


 白い半面は答えない。


 灰は、さらに別のものを映す。


 サヨの横顔。


 面のない皇女。

 白影宮で、皆が忘れた役を覚えていた少女。

 灰面長屋で、映らない顔を見た者。

 舞殿で、まだ名にならない一歩を踏んだ者。


 そして今、《ヒドメ》の最後の役を見送ろうとしている者。


 サヨの姿は、灰の上で静かに揺れていた。


 彼女の前に、白い煙の中の子どもが立つ。


 サヨはその子に手を伸ばさない。


 呼び戻さない。


 ただ、帰ったことを覚えている。


 灰の中の子どもは、ゆっくりと背を向けた。


 家へ帰るように。


 ミオの涙が、音もなく落ちた。


 エンジュが低く言った。


「あれは弔う神ではありません」


 その声は、イロハへ向けられていた。


 同時に、ミオへも、サヨへも、セイランへも向けられていた。


「映すだけのものです」


 灰の上の白い半面は、わずかにこちらを向いたように見えた。


 エンジュは続ける。


「映されたものを、どう扱うかは、生きている者の役です。あれは送らない。あれは休ませない。あれは泣く者の手を取らない」


 イロハは、白い半面を睨むように見た。


「じゃあ、何のために出てくるんですか」


「ため、というほど優しくはないでしょう」


 エンジュは静かに答える。


「映るべきものがあるから、映る。ただそれだけです」


 白い半面は、灰の上で淡く光った。


 その光は月に似ていた。


 けれど、月そのものではない。


 これまでイロハたちが「名を喰う月」と呼んできたものの、さらに奥にある、反射の構造そのもの。


 隠された役。

 喰われたことにされた役。

 終わったのに見届けられなかった役。

 まだない役。


 それらが、映る場所を見つけてしまう。


 水でも。

 刃でも。

 面の裏でも。

 舞台の客席でも。

 そして、灰でも。


 セイランが、震える声で言った。


「灰は、反射しないはずです」


 白い半面は、そちらを向かない。


 けれど、答えだけが落ちた。


「反射しないものにも、残るものはあります」


 セイランの筆先が止まる。


「灰は、燃えたものを忘れません」


 その言葉に、エンジュの眉がわずかに動いた。


 イロハは灰皿を見つめた。


 灰は映さない。


 けれど、燃えたものを覚えている。


 だから、そこに映ったのか。


 水が月を映すようにではなく。


 灰が、終わったものを覚えているから。


 白い半面の上に、また影が浮かんだ。


 今度は、ミオだった。


 幼い頃のミオ。


 火事の夜ではない。


 夕暮れの路地で、火留番の面を外した祖父の背中を追っている。


 ソウマ=カガリは火の前にいない。


 火留番の面も着けていない。


 ただ、孫娘の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いている。


 ミオの顔がくしゃりと歪んだ。


「そんなの」


 声が震える。


「そんなの、忘れていました」


 灰の上で、幼いミオが祖父の袖を掴む。


 ソウマは振り返る。


 顔ははっきりしない。


 けれど、面を着けていない。


 火留番ではない。


 ただ、祖父だった。


 ミオは、口元を押さえた。


「火の前に立つ祖父ばかり、思い出していました」


 エンジュは何も言わない。


 白い半面も、何も言わない。


 ただ、映す。


 イロハは、その光景を見て胸が痛くなった。


 人は、死者を役で覚える。


 強かった人。

 守ってくれた人。

 正しかった人。

 働いた人。

 火の前に立った人。


 でも、その役だけを戻そうとすれば、死者はいつまでもその場所に縛られる。


 ミオに必要だったのは、火留番だった祖父を戻すことではなかった。


 火留番ではない祖父も、失われていないと知ることだった。


 灰の中で、幼いミオと祖父の影が薄れていく。


 白い半面が、ふたたび正面を向いた。


 そして言った。


「戻したいのは、誰ですか」


 その問いは、誰か一人に向けられたものではなかった。


 ミオへ。

 イロハへ。

 サヨへ。

 エンジュへ。


 部屋にいる全員へ。


 ミオは、涙で濡れた顔を上げた。


「わたしです」


 その声は、小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「わたしが、戻したかった」


 《ヒドメ》の内側で、かすかに足音がする。


 とん。


 ミオは続けた。


「祖父ではなくて。火留番の祖父を見れば、まだ大丈夫だと思いたかったんです」


 エンジュは静かに聞いている。


「でも」


 ミオは、低台の面を見る。


「祖父は、もう火の中へ戻らなくていい」


 その言葉を聞いた瞬間、《ヒドメ》の足音が少し遠くなった。


 まるで、長い廊下の向こうへ歩いていくように。


 イロハは息を呑む。


 役がほどけ始めている。


 まだ儀式は始まっていない。


 けれど、ミオが願いの正体を認めたことで、面に絡んでいた糸がひとつ外れたのだ。


 白い半面は、今度はイロハを映した。


 幼いイロハ。


 灰面長屋。

 割れた生面。

 息ができるか、と問うロウセツ。

 未完成の白い面。


 《ナギノオモテ》の箱。


 イロハは、胸元を押さえた。


「今、それは関係ないでしょう」


 声が思ったより強く出た。


 白い半面は答えない。


 ただ映す。


 救われた子ども。


 作り変えられたかもしれない子ども。


 役を与えられた者。


 役を置かれた者。


 イロハは、灰の上の自分から目を逸らしたくなった。


 しかし、逸らさなかった。


 エンジュの言葉が蘇る。


 あなたは、直したい人ですね。


 壊れていなくても、直そうとする人です。


 戻したいのは、誰か。


 今の問いは、《ヒドメ》だけのものではない。


 自分の《ナギノオモテ》にも向いている。


 ロウセツは、自分を救った。


 それは本当だ。


 でも、あの面は何を戻したのか。

 何を作ったのか。

 何を終わらせ、何を始めたのか。


 イロハは、答えられなかった。


 サヨが、そっとイロハを見た。


 何も言わない。


 問いから守ろうとはしない。


 ただ、見届けている。


 それだけで、イロハは少しだけ息ができた。


 白い半面は、最後に《ヒドメ》を映した。


 火事場ではない。


 白い煙も、燃える梁も、火留番の背中もない。


 ただ、ひとつの戸口があった。


 その向こうに、子どもが入っていく。


 帰る子。


 戸口が閉じる。


 その前で、火留番は立ち止まる。


 もう火の中へ戻らない。


 もう誰も呼ばない。


 ただ、戸口が閉まるのを見届ける。


 それが終わると、彼はゆっくりと面を外そうとする。


 その瞬間、灰の映像は途切れた。


 白い半面だけが残る。


 エンジュが、静かに冥導面クラワタリを手に取った。


「もう十分です」


 白い半面は、こちらを向いたまま動かない。


 エンジュは低く言う。


「ここから先は、冥祀社の役です」


 その声には、はっきりとした線があった。


 映す者へ向けた、境界線。


「あれは弔わない」


 エンジュはイロハへ言った。


「だから、弔う者が必要なのです」


 白い半面は、何も返さない。


 怒りもしない。

 笑いもしない。

 退くことも、抗うこともしない。


 ただ、灰の表面に浮かんだまま、見ている。


 エンジュは《クラワタリ》を顔へ近づけた。


 薄墨色の冥導面が、灯籠の火を受けて静かに光る。


「ミオ=カガリ」


 エンジュが呼ぶ。


 ミオは涙を拭い、顔を上げた。


「はい」


「あなたは、ソウマ=カガリ殿を火留番として戻すことを望みますか」


 ミオは、《ヒドメ》を見た。


 長い沈黙。


 そして、首を横に振った。


「いいえ」


 声は震えていた。


 けれど、確かだった。


「祖父を、火の前へ戻しません」


 《ヒドメ》の内側から、小さく音がした。


 とん。


 それはもう、急ぐ足音ではなかった。


 遠ざかる足音だった。


 エンジュは頷いた。


「では、役解きを始めます」


 白い半面は、灰の上で少しだけ薄くなった。


 消えたわけではない。


 ただ、映すべきものがひとつ、役を終えたのだ。


 イロハは、その白い半面を見つめた。


 あれは救わない。


 あれは送らない。


 あれは、ただ映す。


 ならば、自分は。


 面師として、自分は何をするのか。


 直すのか。

 待つのか。

 送るのか。

 彫らずにいるのか。


 その答えは、まだ出ない。


 けれど、少なくとも今夜、《ヒドメ》を戻してはいけないことだけは、もうわかっていた。

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