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第五節 ― サヨが覚えている最後の役

 役解きの支度が始まる前、サヨはもう一度、《ヒドメ》の前へ座った。


 黒い低台の上で、火留職面ヒドメは静かに横たわっている。


 灰白の面。

 右頬の焦げ跡。

 額に残った火留番の役紋。

 内側に刻まれた、火除けの祈り。


 そこには、確かに火の記憶があった。


 けれど、サヨが見ていたのは火ではない。


 イロハは、面の傷を見る。

 木目の歪み、漆の浮き、月痕の入り方、役の入口が欠けた場所。


 けれどサヨは、そういう見方をしない。


 彼女は面の内側に残った役を、まるで自分の記憶ではない記憶を思い出すように、静かに感じ取っていた。


 誰にも書かれなかったもの。

 誰にも記録されなかったもの。

 誰かが忘れてしまったのではなく、初めから誰にも見届けられなかったもの。


 サヨは、それを拾う。


 白影宮で、皆が忘れた香役を覚えていたように。

 灰面長屋で、映らない子の輪郭を見たように。

 ウズメの舞殿で、まだ名にならない一歩を見届けたように。


 今度は、終わった役の最後を見ようとしていた。


 ミオは、まだ涙の残る顔で祖父の面を見つめている。


 エンジュは何も言わない。


 イロハも、手を出さない。


 それが、今この場で必要なことなのだと、少しずつわかってきていた。


 サヨが、静かに口を開いた。


「この方は、最後の日、火を消しに戻ったのではありません」


 ミオの顔が強張った。


「祖父は火消しです」


 短く、鋭い声だった。


 火消し。


 正しくは火留番。


 ミオにとって、その違いは大事なはずだった。けれど今は、言葉を整える余裕もないのだろう。


 祖父は火の前に立つ人だった。

 それだけは譲れない。


 そう言っているようだった。


 サヨは、反論しなかった。


「はい」


 ただ、受け止めた。


「けれど、最後に踏んだ役は、それだけではありません」


 ミオは唇を噛む。


「それだけって……」


「火を留める役は、たしかにありました。火をここから先へ通さない役。皆を逃がすために、境を作る役」


 サヨは、《ヒドメ》の右頬の焦げ跡を見た。


「けれど、最後にこの面の奥に残っているのは、火の境ではありません」


 部屋の空気が、さらに深く静まった。


 サヨの声は、白い煙の中から届くようだった。


「煙があります」


 ミオの目が揺れる。


「白い煙です。炎の赤よりも、ずっと白い。息ができなくて、前も後ろもわからなくなる煙」


 イロハは、息を止めた。


 自分が見たものと同じだった。


 けれど、サヨの言葉には、自分では届かなかった奥行きがある。


「その中に、子どもがいます」


 ミオの手が膝の上で震えた。


「その子は、自分の名前を言えませんでした」


 サヨは、面を見つめたまま続けた。


「火と煙の中で、自分が誰の子なのかも、どちらへ逃げればいいのかも、わからなくなっていました。呼ばれても、返事ができない。泣いても、声が煙に呑まれる」


 黒い灯籠の火が、低く揺れた。


 まるで、過去の火事場の炎が、ここではもう燃え上がれないように。


「その子は、逃げ遅れた子でした」


 サヨは少しだけ目を伏せる。


「けれど、ソウマ殿は、その子をそう呼ばなかったのだと思います」


 ミオの喉が、小さく鳴った。


「では、何と」


 サヨは、《ヒドメ》の内側に耳を澄ませるように、ゆっくりと言った。


「帰る子、と」


 その言葉が落ちた瞬間、《ヒドメ》の内側で、かすかな足音がした。


 とん。


 今までよりも近い音。


 火事場へ向かう音ではない。


 誰かの前に立つ音。


 サヨは、まるでその場にいたかのように続けた。


「お前は、まだ帰る子だ」


 ミオの瞳が大きく開く。


「こっちへ来い」


 サヨの声は、低く、静かで、それでいて確かな温度を帯びていた。


 それはサヨ自身の声でありながら、遠い火事場で子どもへ向けられた言葉でもあった。


 ミオは息を呑む。


 イロハの胸にも、その声が深く入ってきた。


 逃げ遅れた子。


 そう呼べば、その子は火事場の中に取り残された者になる。


 泣いている子。


 そう呼べば、その子は恐怖の中に閉じ込められる。


 けれど、帰る子。


 そう呼べば、その子はまだ帰れる者になる。


 ソウマ=カガリは、最後にその役を与えたのだ。


 火を消すためではない。

 火を留めるためだけでもない。

 子どもを、帰る者として呼ぶために。


 サヨは言った。


「その方の最後の役は、火を消すことではありません」


 ミオの頬を、涙が伝う。


「子を、帰すことです」


 部屋の中で、誰も動かなかった。


 エンジュは目を閉じている。


 アヤメは、いつの間にか刀から完全に手を離していた。


 セイランは筆を持たないまま、ただ息を殺して聞いている。袖の中のヒヨリも、紙の尾すら出さない。


 イロハは、《ヒドメ》を見た。


 面の灰白が、少しだけ柔らかく見えた。


 燃え尽きた白ではなく、役を終えたあとに残る白。


 ミオが、震える声で尋ねる。


「その子は……帰れたのですか」


 サヨは、すぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 まるで、白い煙の奥で、誰かの足音を最後まで聞いているようだった。


 やがて、サヨは小さく頷いた。


「はい」


 ミオの肩が大きく震える。


「帰りました」


 サヨの声は、祈りに似ていた。


「その子は、もう火の中にはいません」


 ミオは、両手で顔を覆った。


 今度は声を押し殺さなかった。


 小さく、苦しそうに、けれど確かに泣いた。


 祖父を失った涙。

 祖父を火留番としてしか見られなかった涙。

 そして、祖父が最後に何をしたのかを、ようやく知った涙。


 サヨは、《ヒドメ》へ向き直る。


「だから、この面が戻りたがっているのは、火事場ではありません」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、そこに迷いはなかった。


「誰にも知られなかった最後の役を、見送ってほしいのです」


 とん。


 《ヒドメ》が鳴った。


 今度の音は、部屋のどこにも跳ね返らなかった。


 黒い低台に落ち、灰の皿に吸い込まれ、静かに沈んでいく。


 エンジュが目を開けた。


「サヨ様」


 彼は、初めてその名を敬意を込めて呼んだ。


 白影宮の皇女としてではない。


 役名保留候補としてでもない。


 終わった役を見届けた者として。


「よく、聞いてくださいました」


 サヨは首を横に振る。


「わたしは、聞いただけです」


「聞くことが、必要でした」


 エンジュは言う。


「冥祀社では、終わった役を送ります。けれど、何が終わったのかを聞き違えれば、送ることもできません」


 イロハは、胸の奥が重くなるのを感じた。


 自分は、《ヒドメ》を火留番の面として見ていた。


 火をここから先へ通さない役。


 そこまでは正しかった。


 でも、最後の役を見ていなかった。


 火の中へ戻る面だと思った。

 まだ火留番として働きたがっているのだと思った。


 もし、自分が先に手を出していたら。


 もし、仮置きで火留番の役を戻していたら。


 この面は、もう一度火事場へ行かされていたかもしれない。


 ソウマ=カガリの最後の役を見送るどころか、彼を火の前へ縛り直していたかもしれない。


 イロハは、両手を膝の上で握った。


「私は」


 声が少し震えた。


「戻すところでした」


 エンジュは、イロハを見た。


 責める目ではなかった。


「はい」


 短い肯定だった。


 それが、かえって痛い。


 イロハは唇を噛む。


「鳴っていたから。役が残っていると思ったから。戻せるなら、そのほうがいいと思って」


「それは、自然なことです」


「でも、間違っていました」


「間違いとまでは言いません」


 エンジュは静かに言った。


「ただ、まだ聞き足りなかった」


 聞き足りなかった。


 その言葉が、イロハの中へ沈む。


 見えているつもりだった。


 読めているつもりだった。


 面師として、面の傷や役の入口を読むことには慣れてきたと思っていた。


 けれど、読めるからこそ、聞かずに決めてしまうことがある。


 直したい気持ちが先に立ち、面が何を終えたがっているのかを待てなくなる。


 サヨは、イロハの隣で静かに言った。


「わたしも、まだわかりません」


 イロハは顔を上げる。


「戻すべきものと、見送るべきものの違いを、いつもわかるわけではありません。でも」


 サヨは、《ヒドメ》を見る。


「終わった役も、勝手に戻されてはいけないのですね」


 イロハは、深く頷いた。


 前に、サヨの面には足音がいると思った。


 一歩が失われないようにする器。


 けれど今、その考えにもうひとつの線が加わる。


 面は、一歩を残すためだけのものではない。


 終わった一歩を、終わったものとして休ませるための器でもある。


 ミオが、涙を拭いながら顔を上げた。


「祖父は、もう火の中へ戻らなくていいんですね」


 サヨは頷く。


「はい」


 ミオは《ヒドメ》を見る。


 今度は、火留番の面としてだけではなく、祖父の最後の役を宿した面として。


「でも、忘れたくありません」


「忘れなくてよいのです」


 エンジュが答えた。


「役を解くことは、忘れることではありません」


 ミオは、エンジュを見る。


「焼くのですか」


 エンジュは少し沈黙した。


「それは、役解きの後に判断します」


「焼かないことも、あるんですか」


「あります」


 ミオの目がわずかに揺れる。


 希望ではなく、恐れでもなく、まだ名のない感情。


 エンジュは続けた。


「焼く面。納める面。灰を返す面。冥祀社では、面ごとに送る形を決めます」


「祖父の面は」


「今は、まだ決めません」


 エンジュは低台の《ヒドメ》へ視線を落とした。


「まず、役をほどきます」


 イロハは、その言葉を聞いた。


 役をほどく。


 自分が学ばなければならないこと。


 仮置きではない。

 仮読みでもない。

 まだない役を読むことでもない。


 終わった役を、面からほどくこと。


 エンジュは、冥導面クラワタリの白布を解き始めた。


 薄墨色の面が、灯籠の火を受けて静かに光る。


 イロハは、手を膝の上に置いたまま、ゆっくり息を吸った。


 この手は、直すためだけにあるのではない。


 まだ、そう言い切ることはできない。


 けれど、少なくとも今夜は。


 戻さないことを、学ばなければならない。


 《ヒドメ》の内側から、もう一度、小さな音がした。


 とん。


 それは、誰かを呼ぶ音ではなくなっていた。


 見送られる準備をする音だった。

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