第四節 ― 遺族の願い
それでも、ミオ=カガリは首を横に振った。
涙を拭いもせず、ただ低台の上の《ヒドメ》を見つめている。
サヨの言葉は届いていた。
ソウマ=カガリが、最後に火を消しに戻ったのではないこと。
煙の中で動けなくなった子を、「帰る子」として呼びに行ったこと。
その子は、帰ったこと。
それを聞いた時、ミオは確かに泣いた。
けれど、泣いたからといって、すぐに手放せるわけではない。
死者を思う心は、そんなに簡単にはほどけない。
「でも」
ミオは、震える声で言った。
「祖父は、最後まで火消しでした」
エンジュは黙っている。
イロハも、何も言えない。
ミオは、両手を膝の上で握りしめた。
「わたしは、祖父が火の前に立つところを見て育ちました。火事が起きれば、誰よりも先に走っていく人でした。煙の匂いがすると、食事の途中でも、眠っていても、すぐに立ち上がる人でした」
彼女の声は、だんだん強くなっていく。
「近所の人たちは言いました。ソウマさんがいれば大丈夫だって。祖父の面が見えれば、みんな逃げられるって。子どもだったわたしも、そう思っていました」
ミオは、《ヒドメ》を見た。
灰白になった火留職面。
かつては煤朱と黒鉄の色を持ち、火の境に立っていた面。
「その面が、夜に鳴るんです」
ぽたり、と涙が落ちた。
「とん、って。何度も。まるで、また火事場へ向かおうとしているみたいに。白布で包んでも、冥箱に入れても、火の方角へ向こうとするんです」
低台の上で、《ヒドメ》は沈黙している。
だが、その沈黙の内側に、確かに足音がある。
イロハにも、それがわかってしまう。
鳴っている。
まだ何かが残っている。
なら、どうにかできるのではないか。
その考えが、また胸の奥に浮かぶ。
「まだ、火事場へ行きたがっているんです」
ミオはイロハを見た。
縋るような目だった。
「なら、その役を戻してあげてください」
イロハの指が動いた。
ほんの少し。
自分でも気づかないほど、小さく。
しかしエンジュは、それを見逃さなかった。
「戻してはいけません」
静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。
けれど、その一言で、部屋の空気が冷えた。
ミオの顔に、はっきりと怒りが浮かぶ。
「あなたは、いつもそうです」
エンジュは、何も言わない。
「送ることしか考えていない。焼くことしか、終わらせることしか、言わない」
「終わらせるのも、冥祀僧の役です」
「祖父はまだ行きたがっているのに!」
声が、ついに震えから叫びに変わった。
黒い灯籠の火が、低く揺れる。
池の蓋の向こうで、水が小さく鳴った。
アヤメがわずかに身構える。
サヨは、じっとミオを見ていた。
怒りを責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、その怒りがどこから来ているのかを見つめている。
ミオは続けた。
「祖父は、火を怖がる人ではありませんでした。火から逃げる人でもありませんでした。戻れるなら、戻してあげたいんです。だって、それが祖父の役だったから」
イロハの胸が痛んだ。
わかってしまう。
ミオの願いが、痛いほどわかる。
もし、自分がロウセツを失ったとして。
もし、師匠の面だけが残り、まだ何かを鳴らしていたとして。
自分は本当に、送ることを選べるだろうか。
戻せるなら、戻したいと思わないだろうか。
もう一度、あの軽口を聞きたいと思わないだろうか。
面の中に残った役を、師匠そのものだと信じたくならないだろうか。
イロハは、拳を握った。
エンジュの声が落ちる。
「行きたがっているのは、お祖父様でしょうか」
ミオが睨むように顔を上げる。
「何を」
「それとも」
エンジュは、静かに続けた。
「あなたがもう一度、火消しだったお祖父様を見たいのでしょうか」
部屋の中が、凍ったように静まった。
ミオの唇が震える。
その問いは残酷だった。
残酷で、あまりにもまっすぐだった。
イロハは、思わずエンジュを見た。
言い方があるのではないか。
もっと優しくできるのではないか。
そう思いかけた。
けれど、エンジュの表情を見て、その言葉を飲み込んだ。
彼も傷ついていないわけではなかった。
ただ、その傷を顔に出さないだけだ。
遺族の願いに頷けば、ミオは一瞬救われるかもしれない。
イロハが《ヒドメ》に仮置きをすれば、火留番の役は一度だけ戻るかもしれない。
ミオは、祖父がまだそこにいると思えるかもしれない。
でも、それは本当にソウマ=カガリを救うことなのか。
それとも、死者をもう一度、火の前へ立たせることなのか。
ミオは、低く言った。
「見たいに決まっています」
誰も動かなかった。
「見たいに決まっているじゃありませんか」
涙が、また落ちる。
「祖父の背中を。祖父の面を。あの人が火の前に立ってくれるだけで、みんなが安心したんです。わたしだって、あの背中があれば大丈夫だと思えた。もう一度見たいと思って、何が悪いんですか」
エンジュは目を伏せる。
「悪くはありません」
「なら」
「悪くはありませんが、それはあなたの願いです」
ミオの顔が歪む。
「死者の願いとは、限りません」
その言葉に、ミオは息を呑んだ。
イロハも、胸の奥を押さえられたような気がした。
死者の願いとは限らない。
それは、ずっとイロハが避けていた問いだった。
面が鳴る。
役が残る。
だから戻したい。
でも、それが誰の願いなのか。
死者のものなのか。
遺族のものなのか。
面に残った役そのものの反射なのか。
あるいは、直せると信じたい面師のものなのか。
サヨは、ずっと黙って《ヒドメ》を見ていた。
その沈黙は、白影宮の空白とは違う。
耳を澄ませている沈黙だった。
彼女は、誰かの役を勝手に決めようとしていない。
ミオの願いにも、エンジュの判断にも、すぐには乗らない。
ただ、面の奥に残った最後のものを見ようとしている。
とん。
《ヒドメ》が鳴った。
ミオが、はっと面を見る。
「ほら」
彼女は震える声で言う。
「鳴っています」
とん。
今度の音は、少しだけ遠い。
イロハには、それが火事場の床を踏む音に聞こえた。
焦げた梁。
白い煙。
逃げる人々。
その中へ戻る火留番の足音。
だが、サヨは違うものを見ているようだった。
彼女の目は、《ヒドメ》の焦げ跡ではなく、その奥の何かへ向いている。
やがて、サヨは静かに言った。
「ミオさん」
ミオは涙の残る顔を向ける。
「あなたは、お祖父様を火消しとして覚えているのですね」
「火留番です」
ミオは、少し強く訂正した。
「火を消すだけの人ではありません。火を、ここから先へ通さない人でした」
サヨは頷いた。
「はい。そうですね」
その受け止め方があまりに穏やかだったので、ミオの怒りが少しだけ揺らいだ。
サヨは続ける。
「では、その役を終えたお祖父様を、あなたは見たことがありますか」
ミオは答えられなかった。
「役を果たしたあと、面を外して、もう火の前へ立たなくてよいお祖父様を」
ミオの瞳が揺れる。
サヨの声は、責めていない。
ただ、問いを置いている。
「あなたが覚えているのは、火の前に立つお祖父様です。けれど、その方は、火の前に立たない時も、お祖父様だったのではありませんか」
ミオの手が、膝の上でほどけかける。
けれど、すぐにまた握られる。
「でも、祖父は火留番でした」
「はい」
「その役を誇りにしていました」
「はい」
「だから」
「だからこそ」
サヨは、ゆっくり言った。
「その役を、終わらせてあげなければならないのではないでしょうか」
ミオは、声を失った。
イロハは、サヨを見つめた。
以前、サヨは灰面長屋の水面に映らない顔を見た。
さらに、サヨは面がなくても一歩を出せることを知った。
そして今。
サヨは、終わった役を終わらせることの意味を見ようとしている。
それは、失われた役を覚えているだけではできない。
終わったものを、終わったものとして扱う強さがなければできない。
ミオは、かすれた声で言った。
「終わらせたら」
その目から、また涙が落ちる。
「祖父が、本当にいなくなってしまう気がします」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
怒りの奥にあったものが、やっと顔を出した。
恐れ。
送れば、いなくなる。
役をほどけば、思い出まで失うのではないか。
火留番でなくなった祖父を、自分はどう覚えればいいのかわからない。
ミオは、それを怖がっていた。
エンジュは、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「送ることは、忘れることではありません」
静かに言う。
「役を終わらせても、ソウマ殿があなたのお祖父様であったことは消えません」
「でも」
「火留番としてだけ覚えていれば、あなたはお祖父様を、いつまでも火の前に立たせ続けます」
ミオの肩が震える。
エンジュは、少し間を置いて続けた。
「生きている者の涙で、死者の面を濡らしてはいけません」
その言葉に、ミオは顔を伏せた。
涙が、畳に落ちる。
今度は怒りの涙ではなかった。
耐えていたものが、ほどけ始める涙だった。
イロハは、何もできずに見ていた。
いや、何もしないでいることを、初めて選んでいた。
仮札を置かない。
月痕を探さない。
傷を塞がない。
役を戻そうとしない。
ただ、ミオが泣くのを待つ。
それもまた、面に向き合う手つきなのだと、少しだけわかり始めていた。
やがて、ミオは顔を上げた。
目は赤い。
それでも、低台の《ヒドメ》を見る目は、先ほどとは違っていた。
「祖父は」
声は小さかった。
「本当に、もう火事場へ戻らなくていいんですか」
誰もすぐには答えなかった。
エンジュも、イロハも。
その問いに答えるのは、自分たちではないとわかっていた。
サヨが、《ヒドメ》へ目を向ける。
白い煙の奥。
火の境。
そして、帰る子を呼んだ最後の役。
サヨは、静かに言った。
「はい」
ミオの唇が震える。
「お祖父様は、もう火の中へ戻らなくてよいのだと思います」
とん。
《ヒドメ》が鳴った。
しかし今度の音は、火事場へ向かう足音ではなかった。
戸口へ向かう音。
誰かを家へ帰したあと、役を終えて、自分もまた帰ろうとする音。
ミオは、その音を聞いて、両手で顔を覆った。
声を殺して泣いた。
エンジュは、そっと目を伏せる。
アヤメは、刀から手を離した。
セイランは筆を持たないまま、その場を見届けていた。
イロハは、低台の上の《ヒドメ》を見る。
戻すのではない。
この面には、戻すべき火留番の役があるのではない。
見届けられなかった最後の役があり、それを送る必要がある。
面が鳴っていたのは、火事場へ行きたいからではなかった。
終わったことを、誰にも言ってもらえなかったからだ。
サヨは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「終わった役も、呼ばれたがっているのですね」
イロハは、その横顔を見た。
「戻るためではなく」
サヨは続ける。
「終わるために」
その言葉が、冥祀社の静かな部屋に深く沈んだ。
エンジュは、ようやく冥鈴に手を伸ばした。
今度は、止めなかった。
「では」
彼は言った。
「役解きの支度をします」
ミオは涙を拭い、震えながら頷いた。
イロハは、低台の前に座り直す。
直すためではない。
戻すためでもない。
ほどくために。
自分の手が、そんなことにも使えるのか。
まだわからない。
けれど、今夜はそれを学ばなければならない。
《ヒドメ》は、灰白の顔で静かに横たわっていた。
その足音は、もう先ほどほど強くない。
ただ、儀式を待つように、微かに、低く、鳴っていた。




