第三節 ― 火留職面《ヒドメ》
ミオ=カガリの願いが落ちたあと、部屋の空気はしばらく動かなかった。
戻してください。
その言葉は、低台の上に置かれた白い面へ、細い糸のように絡みついていた。
イロハは、その糸が見える気がした。
遺族の願い。
死者への敬慕。
失いたくない記憶。
そして、まだどこかで役が続いているのではないかという、痛いほど切実な希望。
エンジュ=クラモリは、その願いをすぐには否定しなかった。
ただ、低台の前へ静かに座り直し、白い面へ向かって一礼した。
「まず、この面を見ます」
ミオが小さく頷く。
イロハも、低台の前へ膝を進めた。
目の前にあるのは、古い職面だった。
火留職面。
かつて帝都の火留番、ソウマ=カガリが使っていた面。
本来なら深い煤朱と黒鉄の色を持っていたはずだった。火の前に立つ者の面らしく、朱は炎を、黒鉄は火を遮る壁を示す。額には火留番の役紋が刻まれ、頬から顎へかけては、火の流れを断つための細い線が走っている。
だが今、その面は灰白だった。
月に喰われた白ではない。
ユラの舞面や、ハルマサの《アカツキノハ》に走っていた白化とは違う。あの白には、噛み跡のような冷たさがあった。役の入口を齧り取り、周囲の記憶まで薄める、月の歯の白。
この面の白は、もっと乾いていた。
燃え尽きたあとの灰。
熱を終えた白。
役を果たしきったあと、色だけが世界から剥がれたような白。
右頬には、黒く焦げた跡がある。
そこだけは、火がまだ過去を手放していないようだった。
額の火留番の役紋は、かすれているが消えていない。内側には、小さな火除けの祈りが刻まれていた。
火を恐れるな。
火を侮るな。
火をここから先へ通すな。
イロハは、その文を指先ではなく目でなぞった。
面の内側には、持ち主の指が長年触れていた跡がある。こめかみのあたり、面を着ける時に押さえる位置。鼻梁の裏、呼吸がかかる場所。面紐を引く時に擦れた小さな溝。
この面は、飾られていた面ではない。
何度も使われた面だ。
火の前で、煙の中で、誰かの顔になり続けた面。
「火を消すための面ではないんですね」
イロハは、ぽつりと言った。
エンジュが静かに頷く。
「はい。火を留める面です」
「留める」
「火には勢いがあります。消すことだけを考えれば、人は火に呑まれる。火留番の役は、火を倒すことではありません。火が越えてはならない境を作ることです」
その言葉に、イロハはハルマサの姿を思い出した。
中庭で、鉄鉢の水面に映った満月を断った一閃。
ここから先へ、月を通さない。
あの時、ハルマサが見つけた役は、敵を斬ることではなかった。
誰かの前に立ち、害を通さないこと。
《ヒドメ》も同じだ。
火を滅ぼすのではない。
火の境に立ち、ここから先へ通さない。
イロハの胸に、また「戻せるかもしれない」という思いが浮かんだ。
こんなにもはっきりと役が残っている。
祈りも、役紋も、指の跡も、焦げ跡もある。
面は鳴っている。
ならば、この面はまだ完全には終わっていないのではないか。
イロハは、そっと面の内側へ視線を沈めた。
いつものように、傷を見るために。
役の入口を探すために。
けれど、そこに見えたのは、火事場の赤ではなかった。
炎の朱でも、焼け落ちる梁の黒でもない。
白い煙だった。
視界いっぱいに、白い煙が満ちている。
音が遠い。
誰かが叫んでいる。
木が弾ける。
瓦が落ちる。
水を運ぶ声がする。
けれど、イロハの意識が引かれたのは、火そのものではなかった。
煙の奥に、子どもが一人立っている。
年は、ミツより少し幼いくらいだろうか。
顔ははっきり見えない。煙に巻かれ、涙と煤で汚れている。着物の袖を握りしめたまま、動けずにいる。
泣いている。
だが、泣き声は聞こえない。
煙が声を奪っているのか、それともその子自身が、自分の声をどこかへ置いてきてしまったのか。
子どもは、火の中にいるのに、火を見ていなかった。
自分がどこへ帰ればいいのか、わからなくなっている。
イロハの呼吸が浅くなる。
面の奥へ、もう一歩踏み込めば、見える気がした。
ソウマ=カガリがその子へ何と言ったのか。
なぜ《ヒドメ》がまだ鳴るのか。
何を戻せば、この面が静まるのか。
イロハは、無意識に手を伸ばした。
面の内側へ、意識ごと入ろうとする。
その瞬間。
「深く読まないでください」
エンジュの声が、鋭く落ちた。
イロハの指が止まる。
部屋の薄闇が戻ってきた。
白い煙が消え、黒い低台と灰の皿、サヨの息を呑む気配、ミオの不安げな視線が戻る。
イロハは、肩で息をしていた。
「なぜですか」
思わず問い返す。
少し強い声になった。
「見えかけていました。たぶん、この面が鳴る理由も」
「だからです」
エンジュは静かに言った。
「死者の役に、生者の面師が入りすぎてはいけません」
「でも、読まなければわかりません」
「読みすぎれば、戻り道になります」
イロハは言葉を失った。
戻り道。
その言葉が、いやに生々しかった。
エンジュは《ヒドメ》から目を離さない。
「死者の面は、生者の面とは違います。持ち主の身体はもうありません。あなたが深く入りすぎれば、面に残った役はあなたの手を通って戻ろうとします」
「私の手を通って」
「はい」
エンジュの声は、冷たくない。
だが、容赦もなかった。
「あなたは面師です。役を見る力がある。欠けたものを繋ぐ手がある。だからこそ、終わった役にとっては、あなたがいちばん近い出口になる」
イロハは自分の手を見た。
さっきまで、《ヒドメ》へ伸ばしかけていた手。
ユラの舞面に仮置きをした手。
ハルマサの戦面に抜刀の入口を読んだ手。
サヨの未在面の線を紙に引いた手。
救うための手だと思っていた。
だが、今は違う。
この手は、死者の役を引き戻す出口になりうる。
そう思った瞬間、指先が冷たくなった。
ミオが震える声で言った。
「戻れるなら、戻してあげてもいいじゃないですか」
イロハは顔を上げる。
ミオは泣いていなかった。
けれど、泣くよりも苦しそうな顔をしていた。
「祖父は、火の中に戻ったんです。逃げなかったんです。最後まで火留番だったんです。だったら、その役を戻してあげることが、供養ではないんですか」
エンジュは、ミオを見た。
その目には、同情があった。
けれど、同意はなかった。
「火留番として戻せば、ソウマ殿はまた火の前に立つことになります」
「それが祖父の役です」
「生きていた時の役です」
「死んでも変わりません」
「変わらなければ、死者は休めません」
ミオの唇が震えた。
サヨは、二人のやり取りを聞きながら、《ヒドメ》を見つめていた。
その瞳が、ゆっくりと細められる。
彼女は何かを探している。
イロハが傷や木目を見るように、サヨは役の輪郭を見ているのだろう。
失われた役。
忘れられた役。
誰にも言われず、記録にも残らなかった役。
サヨの中で、何かが動き始めている。
イロハは、それを感じた。
《ヒドメ》の内側から、また音がした。
とん。
今度は、火事場の床ではなかった。
煙の中で、誰かが一歩こちらへ来る音。
いや、違う。
誰かをこちらへ呼ぶために、踏んだ音。
サヨが、小さく息を吸った。
「この面は」
その声に、全員が彼女を見る。
サヨはまだ、言葉を選んでいる。
自分が何を感じ取っているのか、慎重に確かめているようだった。
「火の方へ戻りたいのではないのかもしれません」
ミオが眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
サヨは、すぐには答えなかった。
ただ、《ヒドメ》の内側をじっと見る。
イロハには白い煙と子どもが見えた。
サヨには、きっとその奥にある役が見えている。
エンジュは、サヨを止めなかった。
むしろ、初めてほんの少しだけ身を引いた。
死者の役に生者の面師が入りすぎてはいけない。
けれど、サヨは面師ではない。
彼女は、喰われた役を覚えている者。
そして今、終わった役を見届けようとしている者。
サヨは静かに言った。
「この白い煙の中に、子どもがいます」
ミオの顔が変わる。
「子ども……?」
「その子は、自分の名前を言えません。どこの家の子なのかも、どちらへ逃げればよいのかも、わからなくなっています」
イロハは息を呑んだ。
自分が見たものと同じ。
けれど、サヨの言葉はさらに奥へ進んでいく。
「ソウマ殿は、火を消しに戻ったのではありません」
ミオが声を上げかける。
だが、サヨの静かな声音がそれを止めた。
「火を留める役は、すでに果たしていました」
サヨは、《ヒドメ》を見る。
「最後に戻ったのは、火のためではありません。その子を、帰すためです」
部屋の中が静まり返った。
黒い灯籠の火が、かすかに揺れる。
サヨは、煙の奥にいる誰かの言葉を拾うように、ゆっくり続けた。
「“泣いている子”ではなく」
ミオの瞳が揺れる。
「“逃げ遅れた子”でもなく」
サヨの声は、ひどく優しかった。
「“帰る子”として、呼びに行ったのです」
《ヒドメ》の内側で、かすかな音がした。
とん。
今度の音は、これまでよりも柔らかかった。
イロハは、胸の奥が震えるのを感じた。
火消しとして戻ったのではない。
火留番としての役を続けたのでもない。
最後の役は、子を帰すこと。
その役は、火事場の中で誰にも見届けられなかった。
だから、面は鳴っていた。
火の方へ戻りたいからではない。
最後に果たした役を、誰にも知られないまま終われなかったから。
ミオは、呆然とサヨを見ていた。
「祖父が……そんなことを?」
サヨは頷いた。
「わたしには、そう感じます」
「でも、誰もそんな話は」
「だから、残ったのだと思います」
サヨの言葉は静かだった。
「誰も見届けなかった役は、終わりにくいのです」
イロハは、その言葉を胸の中で繰り返した。
誰も見届けなかった役は、終わりにくい。
前に鏡ノ客は言った。
見届ける者がいれば、まだ名のない動きも失われずに済む。
ならば、今回は。
見届けられなかった終わりが、終わりきれずに残る。
エンジュは、静かに目を伏せた。
「……やはり、そうでしたか」
イロハはエンジュを見る。
「知っていたんですか」
「推測はしていました」
「なら、なぜ」
「遺族が聞く前に、私が決めてはいけません」
エンジュは答えた。
「死者の役を終わらせるには、生者がそれを聞く必要があります」
ミオは、膝の上で手を握りしめていた。
「祖父は、火消しとして戻りたがっていたんじゃない」
声が震える。
「その子を、帰したことを……誰かに知ってほしかったんですか」
エンジュは、すぐには頷かなかった。
代わりに、サヨが答えた。
「知ってほしかったというより」
彼女は少し考える。
「その子が帰ったことを、誰かに言ってほしかったのかもしれません」
ミオの目から、初めて涙がこぼれた。
「その子は、帰ったんですか」
サヨは、《ヒドメ》の内側を見る。
長い沈黙。
そして、静かに頷いた。
「はい」
ミオは、口元を押さえた。
泣き声は出さなかった。
けれど、その肩が大きく震えた。
イロハは、白い面を見る。
火留職面。
それは、火をここから先へ通さない面だった。
だが、最後にその持ち主が果たした役は、火を止めることではなかった。
火の中で、自分を見失った子に、帰る役を返すこと。
ならば。
この面を火留番として戻すことは、間違いなのだ。
戻せば、ソウマ=カガリはまた火の前へ立たされる。
もう果たした役を、もう一度背負わされる。
イロハは、ようやく手を引いた。
触れて直すためではなく、見届けるために。
エンジュが言った。
「面師イロハ」
「はい」
「これが、送る面です」
その言葉は、静かだった。
けれど、イロハの中で重く響いた。
直すべき面ではない。
戻すべき面でもない。
送る面。
イロハは、《ヒドメ》へ深く頭を下げた。
白い面の内側から、最後にもう一度だけ足音がした。
とん。
それはもう、火事場へ戻る音ではなかった。
誰かを家へ帰し終えた者が、ようやく舞台を降りる音だった。




